第3節 数字に出る異常
銀翼の剣の異変は、やがて数字にも現れ始めた。
最初に気付いたのは、現場ではなく管理部だった。依頼報告書、医務室の治療記録、装備修理申請、ポーション使用記録、遠征費の精算表。それらを月次でまとめていた職員が、集計用の紙を前にして眉をひそめる。
「……おかしいな」
隣の職員が顔を上げた。
「何がですか?」
「低ランク帯の依頼成功率が落ちている。特に新人混成班とDランク部隊だ。失敗というほどではなくても、再出動、追加支援、撤退後の再調査が増えている」
「最近事故が多いですからね」
「それだけじゃない。負傷率も上がっている。軽傷が多いが、数が明らかに増えている。ポーション消費も先月比でかなり上がっているし、修理費も……」
職員は別の紙を重ねた。
盾、革鎧、ワンド、靴底、ベルト、短剣、弓弦。壊れる装備は高価なものばかりではない。むしろ、一つ一つは小さな修理だった。だが件数が多い。小さな修理が積み重なり、工房の作業枠を圧迫していた。
「修理費、こんなに増えていましたか?」
「増えている。しかも低ランク帯だけじゃない。中堅班の装備破損も増えている」
「救援に出る回数が増えたからですかね」
「おそらくな。予定外の戦闘、急な撤退支援、負傷者の搬送。そういう場面では装備の消耗が激しい」
職員はさらに遠征費の表を見た。
馬車の追加手配。予備ポーションの補充。救援班への緊急手当。依頼延期に伴う調整費。通常なら発生しない細かな費用が、あちこちに生まれている。
一つ一つは小さい。
だが、合計すると無視できない。
「利益率が落ちていますね」
「高難度依頼で稼いでいるから全体ではまだ黒字だ。だが、低ランク帯の赤字が増えている」
「幹部会議に上げますか?」
「上げるしかない」
数日後、幹部会議室に分厚い集計資料が置かれた。
磨かれた長机の上に、数字が並ぶ。
依頼成功率。
撤退後再出動件数。
負傷者数。
ポーション消費量。
装備修理費。
新人定着率。
中堅班の救援出動回数。
高難度依頼の延期件数。
月間利益率。
幹部達の表情は、資料をめくるたびに険しくなった。
「新人定着率が落ちている?」
「はい。訓練中の負傷、初依頼での失敗、評価低下への不安から、辞退者が増えています」
「Dランク部隊の依頼達成率も下がっているな」
「達成自体はしていても、追加支援や再調査が必要な例が増えています。実質的な効率は落ちています」
「ポーション消費が多すぎる。低ランク依頼でなぜここまで使う」
「負傷者が増えているためです」
「装備修理費もだ。盾や革鎧ならまだ分かるが、靴底やベルトまで増えているのは何だ」
管理部の職員は、淡々と答えた。
「撤退時の転倒、無理な姿勢での戦闘、予定外の長時間移動が増えているためと思われます」
「つまり現場の動きが悪いということか」
一人の幹部が苛立ったように言った。
「新人教育の質が落ちているのではないか?」
「教育担当を増やす必要があるかもしれません」
「増やすと言っても、誰を回す。中堅は救援で手一杯だ」
「だからこそ新人を鍛え直すべきだ。低ランク帯が甘えているから、上位部隊に負担が来る」
その言葉に、会議室の空気はまた硬くなった。
数字は見えている。
だが、数字の意味は見えていない。
負傷者が増えた。だから現場が未熟。
撤退が遅れた。だから判断力が低い。
修理費が増えた。だから装備管理が悪い。
新人が辞めた。だから根性が足りない。
幹部達は、そう解釈した。
誰も、なぜ今までその数字が抑えられていたのかを考えなかった。
「前期と比べて、何が変わった?」
一人が言った。
管理部の職員は資料を確認する。
「新人の人数は大きく変わっていません。依頼の難度配分もほぼ同じです。季節要因として魔物の活動が少し活発化していますが、例年の範囲内です」
「担当教官は?」
「大きな変更はありません」
「装備の支給状況は?」
「上位部隊優先は従来通りです。低ランク帯の修理待ちは少し増えていますが、事故増加後の影響と見られます」
「では、なぜ悪化した」
会議室に沈黙が落ちた。
資料の中には、答えの欠片があった。
シャーロット同行時、負傷者軽微。
シャーロット補助、撤退成功。
シャーロット訓練参加、新人班継続率高。
シャーロット同行、危険個体遭遇なし。
シャーロット応急処置、医務室搬送後問題なし。
シャーロット支援、Dランク班依頼達成。
その名前は、いくつもの古い報告書に残っていた。
だが、それらは主記録ではない。補助欄。備考。同行者名。訓練補助担当。現場支援者。そういう場所に書かれているだけだった。
幹部達の目は、そこまで降りていかない。
彼らが見るのは、討伐数、依頼収益、上位部隊の実績、高難度依頼の達成記録、貴族や商会からの評価だった。
「低ランク帯の管理責任者を呼べ」
幹部長が言った。
「現場の引き締めを行う。撤退判断の基準を再確認させろ。ポーション使用についても報告義務を厳格化する。装備破損は理由書を添えさせる」
管理部の職員は少しだけ躊躇した。
「理由書を増やすと、報告が遅れる可能性があります」
「遅らせるなと言えばいい」
「ですが、現場が萎縮する恐れも」
「甘やかすな」
その一言で、会話は終わった。
職員は頭を下げ、資料をまとめる。
会議室を出た後、彼は廊下で小さく息を吐いた。
数字は悪くなっている。
それは間違いない。
けれど、現場を締め付ければ戻る数字なのか。
そこに、彼自身も確信を持てなかった。
一方、現場では別の違和感が広がっていた。
「最近、怪我が長引くな」
Dランク部隊の一人が、医務室のベッドで呟いた。
隣の仲間が腕に包帯を巻かれながら答える。
「前は、依頼中に軽く処置してもらって、そのまま帰ってからちゃんと治療って流れが多かった気がする」
「誰に?」
「……さあ。治癒術師じゃなかったと思うんだけどな」
「シャーロットさんじゃないか?」
別の古参が、通りがかりに言った。
二人は顔を上げる。
「あの人、攻撃魔法使いですよね?」
「ああ。攻撃魔法使いだったよ」
古参は少しだけ苦笑した。
「でも、怪我人が出たら応急処置してた。結界も張った。撤退の道も見てた。新人の足運びも直してた。何でもやってたな」
「何でも?」
「攻撃以外は、だいたい全部だ」
その言葉は、まだ冗談のように響いた。
だが、言った古参本人は笑っていなかった。
医務室の隅では、治療記録を整理していた若い女性が、その会話に少しだけ顔を上げていた。
彼女の名は、ソフィア。
銀翼の剣が最近採用した、若い治癒術師だった。
彼女は優秀だった。回復魔法の精度が高く、傷の状態を見る目もある。治療中に慌てず、患者への声かけも丁寧だった。負傷者の増えた医務室では、すぐに必要な戦力として扱われるようになっていた。
それでも、ソフィアには気になることがあった。
治療すれば、傷は塞がる。
適切に処置すれば、命は助かる。
回復魔法を使えば、痛みも引いていく。
けれど最近運び込まれる負傷者達は、どこか同じようなことを口にしていた。
「前は、ここまで悪化する前に済んだ気がする」
「前は、撤退中に誰かが道を作ってくれた」
「前は、怪我をする前に止められた」
「前は、シャーロットがいた」
ソフィアは、その名前を何度か耳にしていた。
攻撃魔法使い、シャーロット。
低評価で除名された人物。
幹部達は、彼女についてほとんど語らない。医務室の治療担当として引き継いだ資料にも、その名は大きく載っていない。けれど、低ランク帯の古い報告書には、その名前が妙に多い。
ソフィアは治療記録を閉じ、過去の依頼記録を引き寄せた。
数字が悪化している。
負傷者が増えている。
ポーション消費が増えている。
それは、治癒術師として見れば「治療が必要な人が増えた」ということだった。
だが、彼女は少し違う疑問を抱いていた。
なぜ、以前はここまで治療が必要にならなかったのか。
治す人がいたからではない。
そもそも、壊れないようにしていた誰かがいたのではないか。
その疑問は、まだ形になっていなかった。
けれどソフィアは、静かに記録をめくり始めた。
シャーロットという名前を探しながら。




