第2節 赤い修正線
銀翼の剣の予定表には、赤い修正線が増え始めていた。
「また救援要請か?」
Aランク部隊の隊長が、受付横で眉をひそめる。
管理職員は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「北の森へ出たDランク部隊が撤退に失敗しかけています。中堅班が出払っていて、近くにいるのが隊長達の部隊だけで……」
「俺達は午後から伯爵家の護衛依頼だぞ」
「分かっています。ですが、このままだと負傷者が増えます」
隊長は舌打ちした。
「……行くぞ。十分で片付ける」
Aランク部隊が駆けつければ、救援自体は難しくなかった。
Dランク部隊を囲んでいた魔物は、Aランク冒険者にとって脅威ではない。前衛が進路を開き、魔法使いが群れを散らし、斥候が退路を示す。負傷者を抱えて戻ることもできた。
ただ、時間は消える。
伯爵家の護衛依頼への出発は遅れた。依頼主への説明が必要になった。Aランク部隊は余計な戦闘を挟み、わずかに消耗した状態で本来の任務へ向かうことになった。
一度なら、問題にはならない。
二度でも、まだ調整できる。
三度目から、管理部の机が荒れ始めた。
「昨日の街道警備、誰が穴埋めした?」
「Bランク第三班です」
「第三班は今日、薬草地帯の護衛に入る予定だっただろう」
「そちらはCランク混成班に変更しました」
「Cランクに任せるには少し危険じゃないか?」
「他に空きがありません」
予定表の線が引き直される。
一つの救援で、中堅班が外れる。中堅班の穴を別の班が埋める。無理な編成で出た班が、また別の場所で判断を遅らせる。
受付横の掲示板には、差し替えられた依頼札が何枚も重なっていた。
「最近、エース部隊の休息日が減っていないか?」
医務室の治療担当が、記録を見ながら呟いた。
隣にいた職員が頷く。
「低ランク救援や予定変更の穴埋めに回されることが増えています。高難度依頼の前後にも、細かい出動が入っていますね」
「それでは疲労が抜けない。上位冒険者ほど、一度崩れると損失が大きいぞ」
「幹部には報告しています」
「返答は?」
「低ランク帯の規律強化を進める、とのことです」
治療担当は、記録板を机に置いた。
「規律だけで片付ける話か、これは」
数日後、銀翼の剣は高難度依頼を一つ取り逃がした。
王都東部の山道に出現した大型魔物の討伐依頼だった。本来なら、銀翼のエース部隊が受ける予定だった。
しかし直前になって、主力魔法使いが魔力回路の乱れを訴えた。
前日の夜、Dランク部隊の撤退支援に駆り出され、休息時間を削られていたのだ。
無理をすれば出られたかもしれない。
だが、Sランククランの主力魔法使いが不安定な状態で大型魔物に挑むのは危険すぎる。
依頼は、別のSランククランへ回された。
幹部会議室の空気は重かった。
「低ランク帯の失敗が、上位依頼にまで影響している」
一人の幹部が、苛立った声で言った。
「Dランク部隊の救援にAランクを出すなど、本来あってはならない」
「なら救援に出さず、見捨てるのか?」
「そうは言っていない。だが、救援が必要になるほど崩れるのがおかしいのだ」
「新人教育の担当を増やせ」
「誰を回す? 中堅はすでに穴埋めで手一杯だ」
「外部講師を雇うか?」
「Sランククランが新人教育もまともにできないと見られるぞ」
声だけが増えていく。
その時、若い管理職員が遠慮がちに口を開いた。
「低難度依頼の受注数を、一時的に絞るべきではないでしょうか」
会議室の空気が冷えた。
「Sランククランが、低難度依頼を回せないと認めるのか?」
幹部の一人が低く言う。
若い職員は顔を強張らせたが、資料を握り直した。
「救援まで含めると、上位部隊に影響が出ています。今の低ランク帯が処理できる数に調整しなければ、さらに救援が増えます」
「問題は数ではない。現場の規律だ」
幹部長が遮った。
「これまでは同じ数を回せていた。ならば、回せなくなった原因は現場にある。受注数を減らせば、銀翼は低ランク依頼すら維持できないと見られる」
「しかし――」
「Sランククランの看板を軽く考えるな」
若い職員の口が閉じる。
資料の端が、指の中で折れた。
「Dランク部隊の再編を進めろ」
幹部長が続けた。
「新人教育は厳格化する。撤退失敗をした班は評価を下げる。ポーション消費が多い班には、費用負担を検討する。装備破損も自己管理の問題として扱え」
その決定は、すぐ現場へ下りた。
効果は逆に出た。
新人達は、撤退を言い出せなくなった。
Dランク部隊は、怪我をしてもポーション使用をためらうようになった。
装備の異常を報告すれば自分の評価に響くのではないかと、修理申請が遅れるようになった。
「盾に亀裂が入っていたなら、なぜ先に報告しなかった!」
救援に入った中堅冒険者が怒鳴る。
Dランクの盾役は、青い顔で壊れた盾を抱えていた。
「前回も修理を出していて……また壊したのかと言われると思って……」
「戦闘中に割れたら意味がないだろ!」
「すみません……」
盾役の声は小さかった。
彼の腕には、裂けた革鎧の隙間から血が滲んでいた。
「最近、空気が悪いな」
古参のBランク冒険者が、食堂の隅で呟いた。
向かいに座る仲間が、固いパンをちぎりながら頷く。
「失敗したら評価が下がる。怪我したら怒られる。撤退したら根性が足りないって言われる。そりゃ固くなる」
「前は、低ランク連中ももう少し動けていた気がするんだが」
「誰かが間に入っていたんだろ」
「誰かって?」
仲間は答えなかった。
しばらくして、ぽつりと言う。
「あの魔法使い、最近見ないな」
「魔法使い?」
「ほら、低ランクの依頼にちょくちょく付いてた女の人。帽子の」
古参のBランク冒険者は、そこでようやく顔を上げた。
「シャーロットか?」
名前は出た。
だが、食堂のざわめきに紛れた。
同じ頃、獅子の咆哮の訓練場では、シャーロットが貸与ワンドを両手で持っていた。
アメリアが少し離れた場所から声をかける。
「今日はここまでにする?」
シャーロットはワンドの先を下ろした。
指先が少し痺れている。けれど、胸の奥は嫌な重さではなかった。
「……あと一回だけ、試してもいいですか」
アメリアは眉を上げた。
「無理なら止めるわよ」
「はい。無理なら、止まります」
シャーロットは小さく息を吐き、的を見た。
「でも、今のは少し分かった気がするんです」
ワンドの先に、淡い光が灯った。




