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第2節 土台の崩れ

銀翼の剣の幹部達は、低ランク帯の事故を「現場の緩み」と見ていた。


新人が怪我をした。Dランク部隊が撤退に失敗した。ポーションの消費が増えた。装備修理が増えた。どれも一つ一つは、Sランククラン全体から見れば小さな問題に見える。


だが、クランという組織は上位冒険者だけで動いているわけではない。


Sランクの看板を背負うエース部隊が高難度依頼を成功させるためには、下で無数の仕事が回っていなければならない。新人が育ち、Dランク部隊が低難度依頼をこなし、Cランクが中継ぎをし、Bランクが安定した戦力として現場を支える。その土台があって初めて、AランクやSランクの冒険者は高難度依頼に集中できる。


その土台が、少しずつ崩れ始めていた。


「また救援要請か?」


Aランク部隊の隊長が、受付横で眉をひそめた。


管理職員は申し訳なさそうに頭を下げる。


「北の森へ出たDランク部隊が撤退に失敗しかけています。中堅班が出払っていて、近くにいるのが隊長達の部隊だけで……」


「俺達は午後から伯爵家の護衛依頼だぞ」


「分かっています。ですが、このままだと負傷者が増えます」


隊長は舌打ちした。


「……行くぞ。十分で片付ける」


その言葉通り、Aランク部隊が駆けつければ救援自体は難しくなかった。Dランク部隊を囲んでいた魔物は、Aランク冒険者にとっては脅威ではない。前衛が一撃で進路を開き、魔法使いが群れを散らし、斥候が安全な退路を示す。負傷者を抱えて撤退することもできた。


だが、時間は失われる。


伯爵家の護衛依頼への出発は遅れた。依頼主への説明が必要になった。Aランク部隊は余計な戦闘を挟んだことで、わずかに消耗した状態で本来の任務へ向かうことになった。


一度なら問題にならない。


二度でも、まだ調整できる。


しかし、三度、四度と続けば話は変わる。


「昨日の街道警備、誰が穴埋めした?」


「Bランク第三班です」


「第三班は今日、薬草地帯の護衛に入る予定だっただろう」


「そちらはCランク混成班に変更しました」


「Cランクに任せるには少し危険じゃないか?」


「他に空きがありません」


管理部の机の上で、予定表が何度も書き換えられていく。


低ランク帯の失敗は、その場だけで終わらない。失敗した依頼には救援がいる。救援に出た中堅班は、本来の依頼から外れる。外れた穴を別の班が埋める。無理な編成になれば、さらに小さな失敗が起きる。


そうして、影響は上へ上へと伝わっていった。


「最近、エース部隊の休息日が減っていないか?」


医務室の治療担当が、記録を見ながら呟いた。


隣にいた職員が頷く。


「低ランク救援や予定変更の尻拭いに回されることが増えています。高難度依頼の前後にも、細かい出動が入っていますね」


「それでは疲労が抜けない。上位冒険者ほど、一度崩れると損失が大きいぞ」


「幹部には報告しています」


「返答は?」


「低ランク帯の規律強化を進める、とのことです」


治療担当は、深くため息を吐いた。


規律の問題だけではない。


現場を見れば分かる。新人達は怠けているわけではない。Dランク部隊も手を抜いているわけではない。むしろ、以前より必死になっている。怒られないように、失敗しないように、評価を落とさないように、皆が硬くなっている。


その硬さが、判断を遅らせていた。


危険を見つける前に体が強張る。撤退を決める前に「失敗扱いになるのでは」と迷う。怪我人が出た時、誰が何をするかで一瞬止まる。以前は、その一瞬の前に誰かが声をかけていた。


「下がりましょう」

「こちらの道が安全です」

「息を吐いてください」

「怪我は浅いです。まず盾役さんを立て直しましょう」

「大丈夫、撤退できます」


そんな声が、今はない。


そして誰も、その声がどれほど現場を支えていたのかを、まだ正しく言葉にできていなかった。


数日後、銀翼の剣は高難度依頼を一つ取り逃がした。


王都東部の山道に出現した大型魔物の討伐依頼だった。本来なら、銀翼のエース部隊が受ける予定だった。しかし直前になって、エース部隊の魔法使いが過労による魔力回路の乱れを訴えた。前日の夜、Dランク部隊の撤退支援に急きょ駆り出され、休息時間が削られていたのだ。


無理をすれば出られたかもしれない。


だが、Sランククランの主力魔法使いが不安定な状態で大型魔物に挑むのは危険すぎる。結局、依頼は別のSランククランへ回された。


幹部会議室の空気は重くなった。


「低ランク帯の失敗が、上位依頼にまで影響している」


一人の幹部が苛立った声で言った。


「Dランク部隊の救援にAランクを出すなど、本来あってはならない」


「なら救援に出さず、見捨てるのか?」


「そうは言っていない。だが、そもそも救援が必要になるほど崩れるのがおかしいのだ」


「新人教育の担当を増やせ」


「誰を回す? 中堅はすでに穴埋めで手一杯だ」


「外部講師を雇うか?」


「Sランククランが新人教育もまともにできないと見られるぞ」


会議は長引いた。


だが、誰も根本を掴めなかった。


低ランク帯の安定は、Sランククランの下働きではない。クラン全体を支える土台だった。新人が育たなければ、数年後の中堅が足りなくなる。Dランク部隊が安定しなければ、低難度依頼の信用が落ちる。中堅が救援に回され続ければ、Bランク帯が疲弊する。Aランク部隊が尻拭いをすれば、高難度依頼への集中が削られる。エース部隊が疲れれば、Sランククランとしての成果に直接響く。


低い場所の崩れは、やがて高い場所を揺らす。


銀翼の剣は、その当たり前を忘れていた。


いや、正確には、忘れていられるほど土台が安定していた。


十年間、誰かが支えていたからだ。


「Dランク部隊の再編を進めろ」


幹部長が言った。


「新人教育は厳格化する。撤退失敗をした班は評価を下げる。ポーション消費が多い班には、費用負担を検討する。装備破損も自己管理の問題として扱え」


その場の空気が、さらに硬くなった。


現場を知らない幹部ほど、数字を締めることで問題が解決すると考える。失敗した班の評価を下げれば、次は失敗しないよう努力する。費用負担を示せば、ポーションを無駄遣いしなくなる。装備破損を責任問題にすれば、丁寧に扱うようになる。


だが、現場では逆だった。


新人達は、さらに撤退を言い出せなくなった。


Dランク部隊は、怪我をしてもポーション使用をためらうようになった。


装備の異常を報告すれば自分の評価に響くのではないかと、修理申請が遅れるようになった。


そして、遅れた分だけ事故は大きくなった。


「盾に亀裂が入っていたなら、なぜ先に報告しなかった!」


救援に入った中堅冒険者が怒鳴る。


Dランクの盾役は、青い顔で答えた。


「前回も修理を出していて……また壊したのかと言われると思って……」


「それで戦闘中に割れたら意味がないだろ!」


「すみません……」


その場に、シャーロットがいれば違ったかもしれない。


盾の持ち方が少し変わった時点で、彼女は気付いただろう。肩の動き、踏み込みの浅さ、盾を受ける時の音。そこから、盾に亀裂があるか、腕を庇っているかを見抜いたかもしれない。そして怒鳴らずに言っただろう。


「その盾、少し見せてもらってもいいですか?」

「壊れる前に直した方が安全です」

「報告して大丈夫ですよ。怪我をする方が怖いですから」


けれど、彼女はいない。


銀翼の剣が、評価表の上で不要と判断して追放したからだ。


「最近、空気が悪いな」


古参のBランク冒険者が、食堂の隅で呟いた。


向かいに座る仲間が頷く。


「失敗したら評価が下がる。怪我したら怒られる。撤退したら根性が足りないって言われる。そりゃ固くなる」


「前は、低ランク連中ももう少し動けていた気がするんだが」


「誰かが間に入っていたんだろ」


「誰かって?」


「……さあな」


名前は、まだはっきり出なかった。


思い出しかけて、流れていく。


なぜなら、彼女は目立つ場所にいなかったからだ。エース部隊のように歓声を浴びたわけでもない。大型魔物の首を持ち帰ったわけでもない。幹部会議で称賛されたわけでもない。


ただ、失敗が大きくなる前に小さくしていた。


怪我が重傷になる前に軽傷で済ませていた。


撤退不能になる前に道を作っていた。


恐怖で固まる前に声をかけていた。


だから、彼女の功績は見えにくかった。


事故が起きなかったことは、記録になりにくい。


重傷者が出なかったことは、成果として数えられにくい。


撤退が成功したことは、派手な武勲ではない。


危険な魔物に遭遇しなかったことなど、誰も褒めない。


だが、それこそが土台だった。


銀翼の剣の上位部隊が輝けたのは、下が崩れなかったからだ。低ランク帯が安定し、中堅が予定通り動き、Aランク部隊が尻拭いに追われず、エース部隊が高難度依頼に集中できたからだ。


その循環が、今、止まり始めている。


幹部達はまだ、数字の表面だけを見ていた。


新人の質が悪い。

Dランク部隊の規律が低い。

中堅の指導力が足りない。

現場の意識が緩んでいる。


そう結論づけるたび、現場はさらに硬くなった。


そして硬くなった現場では、判断が遅れる。


判断が遅れれば、事故が増える。


事故が増えれば、上位部隊が救援に回る。


救援が増えれば、高難度依頼に集中できない。


高難度依頼が遅れれば、Sランククランとしての信用が揺らぐ。


銀翼の剣は、まだ崩壊していない。


だが、土台の石は一つずつ外れ始めていた。


その石を十年間、誰が黙って押さえていたのか。


幹部達がその名前にたどり着くまでには、まだ少し時間が必要だった。

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