第1節 事故の増加
シャーロットが銀翼の剣を去ってから、最初の数日は何も起きなかった。
少なくとも、幹部達の目にはそう見えていた。
Sランククラン、銀翼の剣。王都でも名の知られた大組織であり、所属する冒険者の数も多い。たった一人、低評価の攻撃魔法使いが除名されたところで、表向きの予定表に大きな穴が空くことはない。
朝になれば、依頼班は出発する。新人達は訓練場へ向かう。受付には依頼書が並び、管理部は報告書を処理し、幹部達は次の遠征計画を話し合う。
誰もが、普段通りだと思っていた。
「第三訓練場の補助、今日誰が入るんだ?」
新人班の教官が、予定表を見ながら眉をひそめた。
管理担当の若い職員が、紙をめくる。
「本日は……補助担当なしですね」
「なし? 昨日まで誰か入っていただろ」
「ええと、以前はシャーロットさんが入ることが多かったようですが、すでに除名されていますので」
「ああ、あのE評価の」
教官はそこで興味を失ったように肩をすくめた。
「なら仕方ない。今日は俺だけで見る」
それだけだった。
その日の訓練で、盾役の新人が足を捻った。大きな怪我ではない。だが、本来なら踏み込みを直される前の段階で止められていた癖だった。魔法使いの新人は、恐怖で詠唱を急ぎ、火球を的の横へ外した。補助役の新人は、全員を見ようとして混乱し、誰の怪我を先に確認すればいいか迷った。
教官は怒鳴った。
「集中しろ! そんな動きで実戦に出られると思っているのか!」
新人達は萎縮した。
訓練記録には、こう書かれた。
『新人班、連携不良。盾役一名軽傷。魔法使い一名、詠唱不安定。補助役、判断遅れあり。追加訓練必要』
それは、珍しい記録ではなかった。
だから誰も、深く考えなかった。
翌日、Dランク部隊が森の浅い区域で小型魔物の駆除に出た。
本来なら難しい依頼ではない。魔物の数も多くない。Dランク部隊にはちょうどいい訓練を兼ねた仕事のはずだった。
だが、斥候役が風向きを読み違えた。魔物の群れに先に気付かれ、横から回り込まれる。前衛が正面の敵だけを見ていたため、後衛が一瞬孤立した。魔法使いは焦って大きめの火球を撃ち、森の下草に火が移りかけた。
「撤退だ!」
班長が叫んだ時には、すでに遅かった。
退路に小型魔物が二体入り込んでいた。強敵ではない。落ち着いていれば処理できる相手だ。だが、恐怖で足並みが乱れたDランク部隊には、それだけで十分な障害になった。
盾役が突進を受け損ね、肩を裂かれる。後衛の一人が転び、魔法使いが詠唱を中断する。補助役はポーションを取り出す手が震え、瓶を一本落として割った。
結果、依頼は失敗。
負傷者三名。ポーション消費七本。装備破損、盾一枚、革鎧二着、ワンド一本。撤退支援として中堅班が急きょ呼び戻され、その日の別依頼が延期になった。
報告書を受け取った管理部の職員は、眉をひそめた。
「Dランク部隊で、これだけ消費が出るのは珍しいですね」
隣の職員が別の報告書をめくる。
「昨日も新人班で怪我が出ています。あと、南街道の低ランク護衛も撤退判断が遅れたと」
「時期的な乱れでしょうか」
「新年度の訓練編成直後ですし、そうかもしれません」
書類は幹部会議へ送られた。
幹部達は、それを一時的な不調として処理した。
「新人の質が落ちているな」
一人が言った。
「Dランク部隊も気が緩んでいる。Sランククランに所属しているという自覚が足りない」
別の幹部が頷く。
「追加訓練を増やせ。負傷者が出るたびにポーションを使っていては経費がかさむ」
「装備破損も増えている。低ランク帯にはもっと丁寧に使うよう指導しろ」
その場で、誰も名前を出さなかった。
シャーロット。
低ランク班の同行補助に入り、新人の足運びを見て、魔法使いの詠唱の乱れを直し、撤退路を先に整え、危険な魔物の進路をそっと変えていた攻撃魔法使い。
彼女がいないことと、今起きている小さな事故を結び付ける者はいなかった。
そもそも、幹部達にとってシャーロットはE評価の攻撃魔法使いだった。討伐数が少なく、高危険度個体への有効打も乏しく、前線での攻撃貢献が基準を満たさなかった者。除名処理済みの低評価者。
その程度の人物がいなくなったことで、Sランククランの運営に影響が出るはずがない。
そう思っていた。
しかし、現場では違った。
「前は、こんなに慌てなかった気がするんだけどな……」
Dランク部隊の前衛が、医務室で肩の処置を受けながら呟いた。
隣の魔法使いが、疲れた顔で頷く。
「森に入る前に、いつも誰かが風向きとか逃げ道とか見てくれてたような気がする」
「誰かって?」
「……誰だっけ。あの、ほら、よく新人とか低ランクに付き添ってた魔法使いの人」
「シャーロットさん?」
補助役の一人が名前を出した。
三人は少し黙った。
「そういえば、最近見ないな」
「評価が低くて辞めたって聞いたけど」
「辞めた? あの人が?」
「らしいぞ」
「……そうなんだ」
それ以上、会話は続かなかった。
彼らにとっても、シャーロットは派手な英雄ではなかった。大型魔物を倒した姿を見たわけではない。強大な攻撃魔法で敵を焼き払ったところを覚えているわけでもない。
ただ、気付けばいた。
森に入る前に「今日は風がこちらから来ていますね」と言っていた。撤退時に「左の道は足場が悪いので右へ」と示していた。魔法使いが焦ると「息を吐いてください」と声をかけていた。負傷者が出ると、応急処置だけして「ちゃんと医務室で見てもらってくださいね」と笑っていた。
強い印象ではない。
だから、いなくなって初めて、隙間が空いた。
その隙間に、事故が入り込んだ。
三日後、北の廃坑調査に出た新人混成班が、撤退に失敗しかけた。
敵は洞窟鼠の群れ。単体なら弱い。だが数が多く、狭い通路では厄介な相手だった。以前なら、奥へ入りすぎる前に引き返していた。天井のひび、糞の量、空気の淀み。そうした小さな兆候を誰かが拾っていたからだ。
だが、その日は誰も気付かなかった。
気付いた時には、奥から群れが押し寄せていた。
「下がれ! 下がれ!」
新人の班長が叫ぶ。
だが、退路が狭い。盾役が詰まり、後衛が下がれない。魔法使いが火を撃とうとして、廃坑内では危険だと止められる。補助役がポーションを準備するが、誰から処置すべきか分からず手が止まる。
最終的に、近くにいた中堅班が救援に入り、何とか全員を連れ帰った。
負傷者五名。重傷一名。ポーション消費十二本。ワンド二本破損。盾一枚亀裂。廃坑調査は中断。
管理部に届いた報告書の束は、少しずつ厚くなっていった。
「また低ランク帯です」
職員が言った。
「新人班、Dランク部隊、低ランク護衛……今週だけで撤退遅れが四件」
「ポーション消費も増えています」
「修理依頼もです。盾、革鎧、ワンド、靴底、ベルト。細かい破損が多い」
「靴底?」
「撤退時に足場を崩して滑ったらしいです。装備というより、動きの問題ですね」
職員達は顔を見合わせた。
小さな事故ばかりだった。
一件一件は、Sランククランを揺るがすほどではない。新人が怪我をした。Dランク部隊が依頼に失敗した。撤退が遅れた。ポーションを多く使った。装備が壊れた。
どこのクランでも起こることだ。
だが、積み重なると違う。
ポーションの在庫が減る。修理工房が詰まる。医務室の負担が増える。中堅班が低ランク救援に回される。予定していた依頼に遅れが出る。
それでも幹部達は、まだ原因を見誤っていた。
「低ランク帯の規律が緩んでいる」
「新人教育が甘い」
「D評価者への締め付けが必要だ」
「現場の班長に責任を取らせろ」
会議室では、そんな言葉が並んだ。
誰かが言った。
「先日、E評価者を整理したばかりだ。組織が少し揺れているのだろう。すぐに収まる」
別の幹部が頷く。
「低評価者を切れば、残った者の意識も変わる。今は過渡期だ」
彼らはそう結論づけた。
シャーロットがいなくなったからではない。
むしろ、不要な人員を整理した直後だから、一時的に現場が慣れていないだけ。
そう考えた。
銀翼の剣の本部は、相変わらず白く磨かれていた。正面玄関の紋章は輝き、上位部隊は高難度依頼へ出発し、幹部達はSランククランとしての体面を保っていた。
だが、その足元で、小さな音がし始めていた。
新人が育たない音。
Dランク部隊が崩れる音。
撤退が遅れる音。
ポーション瓶が割れる音。
盾が軋む音。
ワンドが折れる音。
どれも、一つなら聞き逃すほど小さい。
けれど確かに、銀翼の剣の土台は揺れ始めていた。
そして幹部達はまだ、その揺れの中心に誰がいたのかを思い出せずにいた。




