第7節 帰還者用の軽食
全属性の講習が終わった日の夜、獅子の咆哮の本部には、遅い時間になっても灯りが残っていた。
夜間の巡回任務に出ていた団員達が、ちょうど戻ってきたところだった。泥のついた靴、肩にかけた外套、疲れた顔。けれど誰も倒れ込むような様子ではない。受付で帰還報告を済ませると、そのまま食堂の方へ流れていく。
シャーロットは、書類を届けに行く途中でその光景を見かけ、足を止めた。
食堂の奥では、大きな鍋から湯気が上がっていた。温かいスープ。焼き直したパン。干し肉と野菜を挟んだ軽い包み。薬草茶。甘みのある温かい飲み物。量は夕食ほど多くない。けれど、冷えた体を戻すには十分だった。
「お帰り。冷えてるだろ、先に飲みな」
食堂係の女性が、戻ってきた団員へ湯気の立つ杯を渡す。
「助かるー」
「今日は北門側、風が強かったんだよな」
「軽く食べたら医務室で確認受けな。足、引きずってるよ」
「え、見えてた?」
「見えるよ。はい、先に座る」
そんなやり取りが、ごく自然に行われている。
シャーロットはしばらく見ていた。
任務から帰ってきた団員に、温かいものが用意されている。怪我がないか見られている。疲れているなら座らされる。食べていいか、飲んでいいか、誰も迷っていない。
「あら、シャーロットさん」
食堂係が彼女に気付いた。
「まだ残ってたの? 今日は訓練も講習もあったんだろ。温かいの飲んでいきな」
「いえ、私は任務帰りではありませんので」
「講習だって仕事だよ。ほら、冷めないうちに」
そう言って、食堂係は小さな器にスープをよそった。
シャーロットは慌てて両手を振る。
「あの……私、そんなにお金が……」
食堂係が目を丸くした。
近くで薬草茶を飲んでいた団員達も、手を止める。
一瞬の沈黙。
それから、食堂係が呆れたように、けれど優しい声で言った。
「何言ってるの。これはクランの支援に含まれてるよ」
「含まれて……」
「帰還者用の軽食と温かい飲み物。夜間任務でも、遠征帰りでも、遅くまで訓練してた時でも使っていいの。体を冷やしたまま寝る方が危ないだろ」
シャーロットは器を見つめた。
湯気が揺れている。野菜の匂いがする。薄くないスープ。ちゃんと塩気があり、体に染みる香りがする。
「無料、なんですか?」
「無料というか、最初から支援に入ってるんだよ。食べなきゃ損、じゃなくて、食べて休むまでが仕事だね」
その言葉に、シャーロットは固まった。
銀翼では、食事はあった。最低限は保証されていた。けれど、遅く帰った低評価者のために温かいものが用意されていることは少なかった。食堂の残りをもらえればいい方で、遠征帰りでも、温かい飲み物を気軽に頼む空気ではなかった。追加で何かを食べるにはお金がいる。お金がなければ我慢する。それが普通だと思っていた。
だから、任務の後に温かいものを飲んでいいと言われても、すぐには受け取れない。
「……でも、私、まだ幹部候補で」
「幹部候補だから食べちゃいけない理由がどこにあるのさ」
食堂係は器を差し出した。
「はい。座って食べる」
「はい……」
シャーロットは両手で器を受け取った。
席に座ると、器の温かさが指先から伝わってくる。星衣リゲルの温度調整があるから寒いわけではない。それでも、手の中にある温かさは別のものだった。
一口飲む。
野菜の甘みと、少し濃いめの塩気が広がった。
「……おいしいです」
「そりゃよかった」
食堂係は満足そうに笑う。
その時、アメリアが食堂へ入ってきた。帰還者の状況確認に来たらしい。彼女はシャーロットが器を抱えて座っているのを見て、少しだけ表情を和らげた。
「ちゃんと食べているのね」
「いただいてしまいました」
「いただいてしまいました、じゃなくて、食べていいのよ」
アメリアは向かいの席に腰を下ろした。
「獅子の咆哮では、任務の後に体を温めることも、疲労を抜くことも、怪我を確認することも、安全管理の一部なの。休息は贅沢じゃないわ」
「安全管理……」
「そう。疲れたまま寝れば回復が遅れる。空腹で翌日の訓練に出れば怪我をする。寒さを放置すれば体調を崩す。だから食べる。飲む。休む。必要なら医務室へ行く」
シャーロットは器を両手で包んだまま、静かに頷いた。
「銀翼では、そういうものだと思っていませんでした」
アメリアはすぐには返事をしなかった。
食堂の中では、帰還した団員達が軽食を取りながら報告をしている。誰かが笑い、誰かが靴を脱いで足首を確認され、別の団員が薬草茶をおかわりしている。派手な場面ではない。物語になるような勝利でもない。
けれど、こういう場所があるから、冒険者はまた明日動ける。
「シャーロット」
「はい」
「あなたも、これからは帰ってきたら食べなさい。遠慮しない。お金の心配もしない。疲れている時は疲れていると言う。いいわね?」
「はい」
返事は素直だった。
けれど、少しだけ声が震えていた。
アメリアは何も言わず、温かい飲み物を彼女の前にもう一つ置いた。
「それも飲んで」
「でも」
「含まれてるわ」
シャーロットは言い返せなかった。
小さく笑って、杯を受け取る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
食堂係が奥から声をかけた。
「パンも食べるかい?」
シャーロットは一瞬迷った。
それを見たアメリアが、静かに言う。
「食べなさい」
「……はい」
その夜、シャーロットは温かいスープと小さなパンを食べた。
たったそれだけだった。
けれど、彼女にとってはまた一つ、新しい普通が増えた日だった。
帰ってきたら、温かいものがある。
疲れていたら、座っていい。
お金がないからと遠慮しなくていい。
休むことも、食べることも、守られることも、クランの一員として当然の支援なのだと。
シャーロットはまだ全部を飲み込めないまま、両手で杯を包み込んだ。
温かかった。
スープも、薬草茶も。
それを当たり前のように差し出してくれる、この場所も。




