第3節 最後の部屋
幹部会議室を出たあと、シャーロットは支給品を返す前に、寮棟の一番奥へ戻った。
扉は少し歪んでいる。取っ手を引くと、ぎ、と鈍い音がした。
中に入ると、細い窓から差し込む光が、湿気を含んだ壁をぼんやり照らしていた。
古いベッドは、寝返りを打つたびに軋む。机は片脚が短く、紙を広げると少し傾いた。椅子の背もたれには補修の跡があり、収納棚の扉は最後まで閉まらない。
シャーロットは、会議室で渡された包みを机の脇に置いた。
中に入っているのは、餞別のローブとウィッチハット、それからワンド。
外を歩くための、最低限の品だった。
最初から、この部屋だったわけではない。
銀翼の剣に入ったばかりの頃は、もう少し普通の部屋を使っていた。広くはなかったが、窓はもう少し大きく、机も傾いていなかった。
あの頃の銀翼はまだBランクで、誰もが忙しかった。足りないものを抱えながら、それでも前へ進もうとしていた。
評価が下がるにつれ、シャーロットの周りのものも少しずつ変わった。
支給品の修理は後回しになる。
新しい備品は、別の誰かへ回る。
部屋も、寮の端へ移された。
「空いている部屋だ」と言われただけだった。
シャーロットは文句を言わなかった。
部屋の中を見回し、小さく息を吐く。
「今日で、お別れですね」
広くはない。鞄を広げるだけで足の置き場に困るほど狭い。
それでも、何年もここへ帰ってきた。
棚から私物を取り出す。
手入れ用の櫛。安い髪紐の予備。何度も縫い直した手袋。古い手帳。少しだけ残った軟膏。小さな裁縫道具。小銭の入った巾着。
シャーロットは手持ち鞄を開き、一つずつ詰めていった。
鞄は、冒険者学校を卒業した時から使っているものだ。革は柔らかくなり、留め具には細かな傷がある。
まだ、ずいぶん余裕があった。
棚の奥から、古い布で包まれた長いものを取り出す。
学校時代から持っている、私物のスタッフだった。
銀翼の支給品ではない。
この部屋に置いたまま、ほとんど使う機会はなかった。新人訓練にも、低ランク班の補助にも、大げさすぎたからだ。
シャーロットは布の上から、そっと触れた。
「あなたも、一緒に行きましょう」
返事はない。
けれど、手に馴染む重さだけは変わらなかった。
手持ち鞄には入らないため、布で包んだまま肩に掛けられるよう紐を整える。
部屋の隅には、共同浴場へ行く時に使っていた薄いタオルが掛かっていた。
シャーロットはそれを畳みかけて、少しだけ手を止める。
遅い時間のぬるい湯。
湿った床。
急いで髪を拭いた夜。
乾いた毛先を指で押さえ、彼女はタオルを鞄に入れた。
荷物を詰め終えると、部屋は驚くほど空っぽになった。
手持ち鞄が一つ。
布に包んだスタッフが一本。
餞別として渡されたローブとウィッチハット、ワンド。
シャーロットは少しだけ困ったように笑った。
「少ない方が、運びやすいですね」
鞄の留め具を閉じる。
餞別のローブに袖を通し、ウィッチハットとワンドを鞄に収めた。
今まで使っていた支給品のローブ、帽子、ワンドは別にまとめる。これから管理部へ返すものだ。
最後に、部屋を軽く掃除した。
床に落ちた糸くずを拾い、机の上を拭き、ベッドの毛布を畳む。曲がった椅子を、机の下へ押し込む。
扉の前まで行き、シャーロットは振り返った。
遠征帰りで、足が痛くて座り込んだ夜。
新人達が無事に帰ってきて、力が抜けた夕方。
評価が下がった通知を受け取った朝。
壊れかけたワンドを、膝の上で何度も直した日。
雨漏りの音を聞きながら、明日の訓練内容を書き直した夜。
シャーロットは、ゆっくり頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
誰に向けた言葉なのかは、考えなかった。
扉を閉める。
歪んだ扉は、最後まで少しだけ引っかかった。
管理部へ向かい、支給品の返却手続きを済ませる。
担当者は古い帳簿に印を押し、ローブ、帽子、ワンドを棚へ戻した。
一つずつ。
音もなく。
廊下へ出ると、数人の団員とすれ違った。
荷物に気付いて首を傾げる者はいた。けれど、声をかける者はいなかった。
玄関近くで、若い魔法使いが慌てて走ってきた。
「シャーロットさん、すみません! 昨日、見せてもらった結界の張り方なんですけど、あの、また今度教えてもらえますか?」
シャーロットは立ち止まった。
「ごめんなさい。私は今日で銀翼を離れることになりました」
「え……?」
若い魔法使いは固まった。
荷物を見る。
シャーロットの顔を見る。
「や、辞めるんですか?」
「はい」
「どうして……?」
シャーロットは、すぐには答えられなかった。
評価のことを話しても、目の前の新人を困らせてしまうだけだ。
「私の力不足です」
そう言うと、若い魔法使いの顔が歪んだ。
「そんな……」
シャーロットは、少しだけ笑う。
うまく笑えたかは分からなかった。
「結界は、最初から強くしようとしなくて大丈夫です。薄くても、相手の力の向きをずらせれば役に立ちます」
「……はい」
「怖い時ほど、正面から受け止めようとしないでください。少し横へ流すだけで、前衛の人が楽になります」
若い魔法使いは、唇を噛んで頷いた。
「練習、続けてくださいね」
「はい……」
シャーロットはそれ以上言わず、玄関へ向かった。
扉を開けると、外の光が差し込む。
いつも依頼へ出る時と同じ景色のはずなのに、今日は少し遠く見えた。
門の前で、彼女は振り返る。
銀翼の剣の本部。
白銀の翼を刻んだ大きな紋章。
十年前、ここへ来た時は、胸が弾んでいた。
ここで頑張ろうと思った。
誰かの役に立てるようになろうと思った。
シャーロットは、深く一礼した。
「お世話になりました」
門番は気まずそうに視線を逸らした。
事情を知っているのか、知らないのか。
どちらにしても、門は開いたままだった。
シャーロットは顔を上げ、手持ち鞄の紐を握り直す。
布に包んだスタッフが、肩で小さく揺れた。
行く場所は、まだ決まっていない。
次の仕事も、次の部屋も、何もない。
彼女は帽子のつばを少し下げ、銀翼の剣に背を向けた。
門の外へ一歩出る。
背後で、蝶番が小さく軋んだ。




