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第3節 最後の部屋

シャーロットに与えられていた今の部屋は、銀翼の剣の寮棟の一番奥にあった。


そこは、部屋というよりも、かつて物置として使われていた場所に近い。扉は少しだけ歪んでいて、開ける時にぎ、と鈍い音がする。中に入ると、細長い窓から差し込む光が、湿気を含んだ壁をぼんやり照らしていた。


ベッドは古い。板の一部が沈み、寝返りを打つたびに軋む。机は片脚がわずかに短く、紙を広げると傾いた。椅子の背もたれには補修の跡があり、収納棚は扉がきちんと閉まらない。


最初から、この部屋だったわけではない。


銀翼の剣に加入したばかりの頃、シャーロットにはもう少し普通の部屋が与えられていた。広くはなかったが、窓はもう少し大きく、机も傾いていなかった。あの頃の銀翼はまだBランクで、皆が忙しく、皆が足りないものを抱えながら、それでも前に進もうとしていた。


けれど評価が下がり、CからDへ、そしてE評価の対象になった頃から、シャーロットの扱いは少しずつ変わっていった。


修理の順番が後ろになる。支給品が古くなる。食事の量や質が最低限になる。共同浴場を使う時間にも、何となく遠慮が必要になる。


そして、部屋も移された。


「低評価者用の空き部屋だ」と言われたそこは、寮の端にある小さな部屋だった。明確に罰だと言われたわけではない。けれど、そこがどういう意味を持つのかは、周囲の視線で分かった。


シャーロットは、それでも文句を言わなかった。


評価が下がったのだから、仕方がない。自分の数字が足りないのだから、良い部屋を使えないのは当然だ。そう思っていた。


「今日で、お別れですね」


小さく呟いて、彼女は部屋の中を見回した。広くはない。むしろ、鞄を広げるだけで足の置き場に困るほど狭い。けれど、評価が下がってからの数年間、ここは彼女が戻ってくる場所だった。


壁際の棚から、私物を取り出す。手入れ用の櫛。安い髪紐の予備。何度も縫い直した手袋。古い手帳。少しだけ残った軟膏。小さな裁縫道具。どれも高価なものではない。むしろ、最低限と言っていいものばかりだった。


銀翼の剣では、衣食住は保証されていた。けれど、それは「充分に暮らせる」という意味ではなかった。少なくとも、低評価者にとっては違った。食事は出る。部屋もある。支給品もある。だから問題ない。表向きには、そう処理される。


しかし実際には、食事は最低限。部屋は寮の端。装備修理は後回し。給料は低く、身の回りの物を整える余裕はほとんどない。


シャーロットはそれを不満として口にしたことがなかった。自分は評価が低いのだから、仕方がないと思っていた。高評価の人達が良い部屋を使い、良い装備を持ち、良い食事を取るのは当然だと考えていた。


だから、自分の髪紐が安物でも、櫛が欠けていても、ローブの補修糸の色が少し合っていなくても、気にしないようにしていた。


いや、気にしないようにしていた、という自覚すら薄かった。


「鞄は……これで大丈夫ですね」


手持ち鞄を開き、私物を一つずつ詰めていく。鞄はシャーロットのものだ。銀翼から与えられたものではない。冒険者学校を卒業した時から使っている、丈夫だが飾り気のない鞄だった。革は柔らかくなり、留め具には細かな傷がある。それでも、彼女にとっては十分だった。


棚の奥から、布に包まれた長いものを取り出す。学校時代から大切にしている私物のスタッフだ。銀翼の支給品ではない。ほとんど使わず、長い間この部屋で保管していた。


シャーロットは布の上から、そっとスタッフを撫でた。


「あなたも、一緒に行きましょう」


小さな声でそう言ってから、鞄の横へ丁寧に置く。さすがに手持ち鞄には入らないため、布で包んだまま肩に掛けられるよう紐を整えた。


部屋の隅には、共同浴場へ行く時に使っていた薄いタオルが掛かっている。けれど、シャーロットはそれを見て少しだけ苦笑した。


銀翼の寮には共同浴場がある。設備としては存在する。だが、D評価やE評価の者が使うには、どこか気まずい場所だった。明確に禁止されているわけではない。けれど、高評価の冒険者達が戻る時間帯に入れば視線を向けられる。遅い時間に行けば湯はぬるく、備品もほとんど残っていない。自然と、短く済ませる癖がついた。


髪をしっかり手入れする余裕も、いい香りのする油を使う余裕もなかった。だから毛先は乾き、ところどころ不揃いだ。それでも彼女は、毎朝きちんと梳かしていた。汚く見えないように。だらしなくならないように。


自分が惨めに見えないように、ではない。


冒険者として、できる範囲できちんとしていたかった。


荷物を詰め終えると、部屋は驚くほど空っぽになった。銀翼に十年いたはずなのに、持っていくものは鞄一つと、布に包んだスタッフだけ。あとは餞別として渡された古いローブ、古いウィッチハット、粗末なワンド。


それが、シャーロットが今の部屋から持ち出せる全部だった。


彼女はそれを見ても、怒らなかった。


ただ、少しだけ困ったように笑った。


「少ない方が、運びやすいですね」


そう呟いて、鞄の留め具を閉じる。肩に掛けると、重さはそれほどでもなかった。


最後に、部屋の中を軽く掃除した。床に落ちた糸くずを拾い、机の上を拭き、ベッドの毛布を畳む。もう自分の部屋ではなくなるのだから、次に誰かが使う時に困らないようにしたかった。


扉の前まで行き、シャーロットは振り返る。


この部屋で眠った夜を思い出す。遠征帰りで足が痛かった日。新人が無事に帰れたことにほっとした日。評価が下がった通知を受け取った日。壊れかけたワンドを何とか補修した日。雨漏りの音を聞きながら、明日の訓練内容を考えた日。


良い思い出ばかりではない。


けれど、ここで過ごした時間も、自分の時間だった。


「今まで、ありがとうございました」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。部屋にかもしれない。銀翼にかもしれない。ここで使ってきた道具達にかもしれない。


シャーロットは静かに扉を閉めた。


廊下へ出ると、数人の団員とすれ違った。誰も深くは見ない。中には、彼女が荷物を持っていることに気付いて首を傾げる者もいたが、声をかける者はいなかった。低評価者の異動や退去は珍しくない。そういうものだと思われている。


玄関近くで、昨日の新人とは別の若い魔法使いが慌てて走ってきた。


「シャーロットさん、すみません! 昨日の結界の張り方なんですけど、あの、また今度教えてもらえますか?」


シャーロットは立ち止まった。


「ごめんなさい。私は今日で銀翼を離れることになりました」


「え……?」


若い魔法使いは固まった。荷物を見る。餞別の古いローブを見る。シャーロットの顔を見る。


「や、辞めるんですか?」


「はい」


「どうして……?」


シャーロットは少し考えた。評価のことを言うべきか、除名のことを言うべきか。でも目の前の新人にそれを話しても、困らせてしまうだけだ。


「私の力不足です」


そう言うと、若い魔法使いは何かを言いかけて、結局何も言えなかった。


シャーロットは穏やかに微笑む。


「結界は、最初から強くしようとしなくて大丈夫です。薄くても、相手の力の向きをずらせれば役に立ちます。怖い時ほど、正面から受け止めようとしないでください」


「……はい」


「練習、続けてくださいね」


若い魔法使いは、泣きそうな顔で頷いた。


シャーロットはそれ以上言わず、玄関へ向かった。扉を開けると、外の光が差し込む。いつも依頼へ出る時と同じ景色のはずなのに、今日は少しだけ遠く見えた。


門の前で、彼女は振り返る。


銀翼の剣の本部。白銀の翼を刻んだ大きな紋章。十年前、ここへ来た時は、胸が弾んでいた。ここで頑張ろうと思った。誰かの役に立てるようになろうと思った。


十年後、その場所を出ていくことになるとは思わなかった。


それでも、彼女は恨み言を口にしなかった。


「お世話になりました」


深く一礼する。


門番は少し気まずそうに視線を逸らした。事情を知っているのか、知らないのか。どちらにしても、止めることはなかった。


シャーロットは顔を上げ、手持ち鞄の紐を握り直した。布に包んだ私物のスタッフが、肩で小さく揺れる。餞別の古いローブと帽子とワンドは、鞄の中に丁寧に収めてある。


行く場所は、まだ決まっていない。


次の仕事も、次の部屋も、何もない。


けれど、誰かを責める気持ちはなかった。


自分にできることを、また探せばいい。


そう思って、シャーロットは銀翼の剣に背を向けた。


その背中を、誰も追わなかった。誰も引き止めなかった。誰も、今この瞬間に何を失ったのか分かっていなかった。


銀翼の剣は、静かに彼女を手放した。


十年間、自分達の戦場を見えない場所で支えていた魔法使いを。


まるで、古い書類を一枚処分するように。

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