第5節 五キロ先の帰り道
一層障壁講習の翌日。
訓練場では、探知魔法の講習が行われた。
「今日は、探知範囲を無理に広げる訓練ではありません」
講師役の魔法使いが、新人達へ向けて言う。
「大切なのは、必要な範囲を正確に見ることです。足元、曲がり角、背後、天井、魔力の濃い場所。半径五十メートルでも、見落とさなければ十分に役に立ちます」
新人達は真剣に頷いていた。
探知は、広げればいいものではない。
範囲を広げれば、拾う情報も増える。
敵の位置、数、移動方向、魔力の濃淡、罠の気配、地形の違和感。
それらが一度に流れ込めば、魔力より先に頭が疲れる。慣れていない者は、頭痛や吐き気を起こすこともある。
「普通の魔法使いが安定して使える範囲は、半径三百メートルほどです。上級者でも、五百メートルを正確に維持できれば十分に優秀です」
黒板に、二つの数字が書かれる。
通常、半径三百メートル。
上級者、半径五百メートル。
シャーロットも、新人達の横で同じように頷いていた。
講師役の魔法使いは、それを見て少しだけ不安そうな顔になる。
「……シャーロットさん」
「はい」
「念のため確認しますが、今日は一般基準の講習です」
「はい。分かっています」
「本当に?」
「はい」
ガルドが訓練場の端で小さく笑った。
「信用されてないな」
「どうしてでしょうか……」
シャーロットは少し困った顔をした。
アメリアは腕を組み、レオンは記録板を持っている。
昨日の一層障壁講習で、シャーロットの実演をそのまま基準にしてはいけないことが分かったため、今日は最初から監視役がついていた。
講師役は気を取り直して続ける。
「まずは半径五十メートルからです。目を閉じて、魔力を薄く広げる。強く押し出すのではなく、水面に布を浮かべるような感覚です。反応があっても、いきなり種類を決めつけないでください。まずは位置だけ拾います」
新人達が目を閉じる。
エルンの魔力がふわりと広がった。
少し揺れているが、昨日よりは安定している。
ミナは魔法職ではないが、斥候として気配を拾う訓練を受けているため、感覚の向け方が上手かった。
リリは補助役らしく、周囲の味方の位置を丁寧に拾っている。
「右前方、三十メートルくらいに反応があります」
エルンが言った。
講師役が頷く。
「正解です。訓練用の魔石ですね」
エルンの肩から、少し力が抜ける。
「次は左後方。足元に近い位置を探してください」
新人達が少しずつ反応を拾っていく。
最初は曖昧だったが、繰り返すうちに位置が合ってきた。
「では、次は半径百メートル。情報量が増えます。全部拾おうとしないこと。まず大きな反応、次に動いている反応、最後に足元です」
シャーロットは隣で見守っていた。
口を挟みたいところはいくつもある。
エルンは外側へ広げる時に少し力みすぎている。
ミナは前方に意識が寄りやすい。
リリは味方の反応に集中しすぎて、地形の違和感が少し薄い。
けれど、今は講師役の時間だ。
シャーロットは口を閉じ、必要な時だけ小さく頷いた。
講習が進み、半径二百メートルまで広げたところで、新人達の額に汗が浮かび始める。
探知魔法は、見た目より疲れる。
体を動かしていないのに、頭の奥を使い続ける。
「ここまでで十分です」
講師役が手を叩いた。
「無理に広げない。疲れた状態で範囲を維持すると、かえって危険です。休憩を入れます」
新人達がほっと息を吐いた。
その時、トマが何気なくシャーロットを見る。
「シャーロットさんは、どのくらい探知できるんですか?」
訓練場の空気が止まった。
アメリアが額に手を当てる。
「その質問、昨日も似た流れを見た気がするわ」
ガルドはもう笑っていた。
「聞きたくなる気持ちは分かるけどな」
シャーロットは少し考えた。
「普段は、必要に応じて広げるくらいです」
「必要に応じて、というと?」
レオンがすぐに聞く。
「王都の中では、人が多いのであまり広げません。森やダンジョンなら、情報を絞れば半径五キロくらいまで使えます」
沈黙。
新人達は、すぐには意味を理解できなかった。
講師役の魔法使いが、ゆっくりと顔を上げる。
「……五キロ?」
「はい」
「五百メートルではなく?」
「はい。五キロです」
レオンの筆が止まった。
アメリアが低く聞く。
「シャーロット、それは普段の範囲?」
「安全確認が必要な時の範囲です。ただ、人や魔物が多い場所だと情報が多くなるので、必要なものだけ拾うようにしています」
「負担は?」
「対象を絞れば大丈夫です。ただ、情報が多い場所だと少し疲れます」
「少し」
アメリアはその言葉を繰り返した。
ガルドが笑う。
「出たな、シャーロット基準の少し」
講師役は黒板を見る。
通常、半径三百メートル。
上級者、半径五百メートル。
その横に、ためらいながら新しい数字を書き足した。
シャーロット、半径五キロ。
新人達が黒板を見て固まる。
「桁が違う……」
「五百メートルでもすごいって話でしたよね?」
「五キロって、もう地図じゃないですか……?」
シャーロットは慌てて言う。
「でも、広げればいいわけではありませんよ。情報が多くなりますし、負担も増えます。無理をすると頭が痛くなります」
エルンが恐る恐る聞いた。
「頭が痛くなる程度なんですか?」
「無理をすれば、です。普段はそんなに無理しません」
アメリアがすぐに反応した。
「普段は、ね。では、無理をした時は?」
シャーロットは少しだけ黙った。
ヴェガに触れようとして、やめる。
「……一度だけ、十キロくらいまで広げたことがあります」
訓練場が完全に沈黙した。
ガルドの笑いも止まる。
「お前、それ初耳だぞ」
「本当に緊急時だけです。それに、危なかったので、それ以上は試していません」
アメリアの表情が変わった。
「負担は?」
「鼻血が出ました。手も震えました。頭もかなり痛くなって、魔力回路も熱を持ちました」
シャーロットは少し視線を落とす。
「数日は、探知を控えた方がいい状態でした」
講師役の魔法使いが息を呑んだ。
「十キロ……。上級者が五百メートルを維持するだけでも、かなり集中が必要です。十キロとなると、魔力消費より情報処理の方が危険です」
「はい」
シャーロットは小さく頷いた。
「見える範囲が広がるほど、入ってくるものも増えます。魔物だけではなくて、地形、風、魔力の濃淡、動いているもの、止まっているもの、味方の位置、逃げ道……全部が一度に来るので」
「それ以上は?」
アメリアが低く聞く。
シャーロットは首を振った。
「試していません。十キロで危ないと分かったので」
「正しい判断ね」
「……怖かったです」
その一言で、アメリアもガルドも黙った。
シャーロットは自分の手を見る。
「見えているのに、手が動かなくなりそうで。探知できても、動けなくなったら意味がないと思いました」
ガルドが低く言う。
「だったら、今後も絶対に一人で試すな」
「はい」
シャーロットはすぐに頷いた。
「十キロは、もう一人ではやりません」
アメリアも頷く。
「五キロを超える広域探知は、原則として幹部承認。十キロ級は通常任務では使用禁止。緊急時でも、団長か幹部が必要と判断した場合に限るわ」
「そこまでですか?」
「そこまでよ。鼻血が出て、手が震えて、数日探知を控える必要がある魔法を、本人判断で使わせるわけにはいかない」
「……はい」
「守るための探知で、あなたが倒れたら意味がないでしょう」
シャーロットは言葉に詰まった。
それから、小さく頷く。
「分かりました」
レオンの筆が動き始める。
「記録します。五キロ超過は幹部承認。十キロ級は通常任務での使用禁止。使用後は医務確認必須」
「また禁止事項が増えましたね」
シャーロットが小さく言う。
アメリアは即答した。
「あなたが増やしているのよ」
講師役は頭を抱えたが、せっかくなので実演を頼むことになった。
「では、無理のない範囲で。半径三百メートル程度を、一般講習用に見せてもらえますか?」
「はい」
シャーロットは星帽ポラリスのつばに触れ、目を閉じた。
探知を広げる。
三百メートル。
彼女にとっては、広げるというより、足元に薄い布を敷くような感覚だった。
訓練場の外周。
倉庫の裏にいる整備係。
食堂から運ばれてくる荷車。
屋根の上に止まった鳥。
北側の道を歩く団員。
南の小道を横切る猫。
全部が、静かに並ぶ。
「北の倉庫裏に二人。片方は金属工具を持っています。西側の木陰に訓練用魔石が三つ。南の通路を猫が一匹。東の門の外に荷車が近づいています。あと、訓練場の屋根に鳥が三羽います」
講師役が固まった。
「……細かすぎます」
「三百メートルですよね?」
「三百メートルですが、そこまで拾う必要はありません」
「そうなんですか?」
「はい」
ガルドがまた笑い始めた。
「猫まで拾うなよ」
「動いていたので」
「鳥もいらねえ」
「屋根にいましたので」
アメリアは深く息を吐く。
「シャーロット、探知の精度を落とす訓練も必要ね」
「精度を落とす訓練……?」
「全部拾うと情報量が多すぎるでしょう。普通は、目的に合わせて拾う情報を絞るの」
「絞っていますよ?」
「猫と鳥を拾っている時点で、今の講習用には絞れていないわ」
シャーロットは真剣に考え込んだ。
講師役は気を取り直し、新人達に向き直る。
「今のは上級どころではない例です。皆さんは真似しないでください。探知は、必要な情報を拾う訓練です。全部拾おうとしないこと」
黒板に、新しい項目が増えた。
探知は広さより正確さ。
必要な情報を絞る。
シャーロット式を基準にしない。
猫と鳥まで拾わない。
新人達は真面目に頷いたが、最後の項目で少し笑いが起きた。
シャーロットは不思議そうに首を傾げる。
「猫も危険を知らせてくれることがありますよ?」
「それはそうですが、今の訓練では不要です」
「はい……」
レオンは淡々と記録を続けた。
「探知範囲、通常運用上限は半径五キロ。精度は小動物識別可能。情報過多傾向あり。訓練項目として、情報選別能力の一般化が必要」
「一般化って何ですか?」
「他の人にも教えられる形に分解することです」
「難しそうですね」
「難しいです」
レオンは即答した。
講習の最後、シャーロットは新人達の前に立った。
少しだけ迷ってから、口を開く。
「探知は、広ければいいわけではありません」
新人達が顔を上げる。
「広げるほど、頭も体も疲れます。拾った情報を間違って判断すると、かえって危険です。まずは自分の周りを正確に見てください」
シャーロットは指を折る。
「足元。仲間。逃げ道。曲がり角」
そこで一度、言葉を切った。
「私は、遠くを見るより、帰り道を見たいです」
訓練場が静かになる。
「誰がどこにいて、どこから逃げられて、どこに危ないものがあるか。それが分かるだけで、生きて帰れることがあります」
エルンが自分のワンドを握り直した。
ミナは足元を見てから、訓練場の出入口へ視線を向ける。
リリは隣にいる仲間の位置を、もう一度確認していた。
講習が終わった後、アメリアはシャーロットを医務室へ連れていった。
三百メートル程度の探知では負担はなかった。
けれど、十キロ級の探知の話を聞いた以上、放置はできない。
「五キロを超える広域探知は、一人で判断しないこと」
「はい」
「十キロ級は通常任務では使わないこと」
「はい」
「鼻血が出るほどの探知を、できるからという理由で使わないこと」
「はい」
「手が震えたらすぐ報告」
「はい」
「数日間の静養が必要になる可能性があるなら、任務計画に影響する。隠さないこと」
「……はい」
最後の返事だけ、少し遅れた。
アメリアはそれを見逃さなかった。
「シャーロット」
「はい」
「守るために無理をするのと、無理を隠すのは違うわ」
シャーロットは静かに目を伏せた。
報告すれば、迷惑になるかもしれない。
足手まといだと思われるかもしれない。
昔なら、そう考えていた。
けれど、今はアメリアが目の前にいる。
ガルドも、壁際で腕を組んでいた。
「……隠しません」
シャーロットは小さく言った。
アメリアが黙って待つ。
シャーロットは顔を上げた。
「先に言います。手が震えたら、頭が痛くなったら、ちゃんと」
「約束ね」
「はい」
ガルドが壁際から言う。
「お前、強いのはいいが、壊れるなよ」
「壊れませんよ」
「その言い方も信用できねえんだよ」
シャーロットは困ったように笑った。
レオンが記録板を差し出す。
そこには、新しい項目が短くまとめられていた。
五キロ超過の広域探知は幹部承認。
十キロ級は通常任務で使用禁止。
使用後は医務確認必須。
本人申告は低めに出るため、周囲の確認を要する。
シャーロットは最後の一行を見て、少しだけ眉を下げた。
「低めに言っているつもりはないんですが」
「そこが問題なのよ」
アメリアが言った。
シャーロットは記録板をもう一度見る。
それから、小さく頷いた。
「分からない時は、聞きます」
「そうして」
シャーロットはヴェガに触れた。
「次の講習までに、猫と鳥を拾わない練習もしておきます」
ガルドが吹き出した。
アメリアはため息をつき、レオンは無言で記録板の端に一言だけ書き足した。
情報選別訓練、追加。




