第3節 ワンドクラッシャー
保管庫の奥へ向かったバルドを待つ間、工房には妙な沈黙が落ちていた。
作業台の上には、割れた高級貸与ワンドが置かれている。澄んだ青だった魔石は白く濁り、中心から蜘蛛の巣のような亀裂が走っていた。軸の内部にも歪みが出ており、外側から叩き折られたのではなく、内側から押し広げられて壊れたことが分かる。
魔導具職人はそれを何度も確認し、眉間に深い皺を寄せていた。
「……本当に、軽く流しただけなんですよね?」
「はい。魔法は使っていません」
シャーロットは申し訳なさそうに答えた。壊してしまったことが気になっているのだろう。さっきから視線が割れたワンドへ何度も向いている。
「弁償は……」
「いらないわ」
アメリアが即答した。
「でも、私が壊してしまいましたし」
「普通に確認しただけで壊れたなら、それは弁償の話じゃないの。装備があなたに合っていなかったという話よ」
「でも、高級品なんですよね?」
「そう。だから問題なのよ」
アメリアの言葉に、シャーロットは首を傾げた。高級品が壊れたなら、なおさら自分が悪いのではないか。そんな顔だった。
ガルドは腕を組んだまま、深く息を吐いた。
「懐かしいな」
「何がですか?」
「ワンドクラッシャー」
その言葉に、シャーロットの表情が固まった。
「……その呼び方、まだ覚えていたんですか?」
「忘れるわけないだろ。学校中で有名だった」
「恥ずかしいので、あまり言わないでください」
シャーロットは少し頬を赤くした。
アメリアが興味を持ったように顔を向ける。
「ワンドクラッシャー?」
「ああ。こいつの学生時代のあだ名だ」
「ガルドさん」
「事実だろ」
「事実ですけど……」
シャーロットは困ったように視線を落とした。ガルドはそんな彼女を横目で見てから、工房の職人達へ向き直る。
「冒険者学校にいた頃、こいつは練習用ワンドを何本も壊した」
魔導具職人が目を細めた。
「練習用ワンドを壊す学生は、珍しくはありますが……絶対にないわけではありません。乱暴に扱ったり、魔力の流し方を間違えたりすれば」
「違う」
ガルドはすぐに首を振った。
「普通の学生が壊す壊れ方じゃなかった。外から叩いて折ったわけでも、暴発させて破裂させたわけでもない。今のこれと同じだ。魔力を通しただけで、内側から割れてた」
工房の空気が変わった。
魔導具職人は割れた高級貸与ワンドを見る。練習用ワンドならまだしも、今壊れたのは一流魔法使いでも使えるプロ用の予備品だ。それと同じ壊れ方を、学生時代からしていた。
「当時、教師達は何と?」
アメリアが聞く。
「最初は、制御が下手だと思われてた。魔力の扱いが雑だからワンドが耐えられないんだ、ってな」
「実際は?」
ガルドは短く笑った。
「逆だ。今なら分かる。あれは制御が下手だったんじゃない。制御が細かすぎたんだ」
シャーロットは目を瞬かせた。
「そうなんですか?」
「お前が一番分かってないのが腹立つな」
ガルドは呆れたように言った。
「普通、魔力が多い奴は流し方が太い。強い水流を無理やり通すみたいなもんだ。だから練習用ワンドが壊れる時は、もっと雑に割れる。だが、お前のは違った。魔力量が多いのに、制御が細すぎる。高密度の魔力を、細い線にして通す。ワンドの制御線に沿って魔力が入り込みすぎて、内側から耐えられなくなる」
魔導具職人が低く呟く。
「高出力を精密制御していた……?」
「そういうことだろうな」
「学生時代から?」
「そうだ」
アメリアはシャーロットを見た。
「あなた、学校時代にそのことを説明しなかったの?」
「説明、ですか?」
「ワンドが勝手に壊れるのではなく、自分の魔力が合っていないのかもしれない、とか」
シャーロットは少し考えた。
「私が壊してしまっていたので、私の扱いが悪いのだと思っていました」
ガルドが天井を仰いだ。
「ほらな」
「だって、他の人は壊していませんでしたし」
「他の奴とお前を同じ基準で考えるな」
「同じ学生でしたよ?」
「そういう意味じゃない」
ガルドの声には、懐かしさと苛立ちが混ざっていた。
冒険者学校時代、シャーロットはよく練習場の端で教師に謝っていた。ワンドを壊してしまったから。魔石に亀裂を入れてしまったから。周囲の学生達は、あいつは魔力制御が下手なのだと笑った。あんなに魔力があるのに細かい扱いができないのだと、勝手に決めつけた。
だがガルドだけは、ずっと違和感を覚えていた。
シャーロットの魔法は、荒くなかった。
むしろ、異常なほど正確だった。
模擬戦で彼女が放つ魔法は、大剣を握る自分の指先だけを狙って弾いた。足元の土をほんの少しだけ沈め、踏み込みをずらした。炎で視界を塞ぐ時も、熱は肌を焼く手前で止まった。光魔法は目を潰さず、一瞬だけ視線を奪う角度で差し込まれた。
雑な魔法使いに、そんなことはできない。
「俺は何度もこいつに挑んだ」
ガルドは静かに言った。
「大剣で距離を詰めれば勝てると思った。魔法使いは近づかれたら弱い、ってな。でも一度も届かなかった。足場をずらされ、視界を切られ、剣筋を読まれ、こっちが本気で踏み込む前に止められる」
シャーロットが慌てる。
「でも、ガルドさんは毎回すごく強かったですよ。私、近づかれたら危なかったですし」
「近づけなかったんだよ」
「でも、あと少しでした」
「その“あと少し”を毎回潰してたのがお前だ」
工房の職人達は、黙って二人のやり取りを聞いていた。
ワンドを壊す学生。
その言葉だけなら、未熟な魔法使いの笑い話に聞こえる。
だが実際には違った。練習用ワンドでは耐えられないほどの魔力量と魔力密度。それを暴発させずに扱う精密制御。模擬戦で近接戦闘科の優等生を寄せつけない判断力。学生時代から、その片鱗は出ていたのだ。
ただ、周囲が測れなかった。
今の銀翼と同じように。
アメリアは小さく息を吐いた。
「ワンドクラッシャー、ね。ひどいあだ名だけど、実態はまるで逆だったわけね」
「ええ」
魔導具職人が頷く。
「制御が下手で壊したのではなく、普通のワンドが彼女の制御負荷に耐えられなかった。そう考える方が自然です。学生用の練習ワンドならなおさら」
シャーロットは困ったように割れた高級貸与ワンドを見る。
「でも、道具を壊していたのは事実なので……」
「そこは否定しねえ」
ガルドが言う。
「だから、あだ名自体は間違ってない。お前はワンドを壊してた」
「やっぱり……」
「だが理由が違う。周りは、お前が未熟だから壊したと思っていた。実際は、道具の方がお前についてこられなかった」
シャーロットはすぐには返事ができなかった。
道具の方がついてこられなかった。
そんな考え方を、したことがなかった。
自分が悪い。自分の扱いが下手。だからワンドを壊す。だからもっと抑えなければいけない。もっと丁寧に、もっと小さく、もっと道具に負担をかけないように。
ずっと、そう思ってきた。
「……私、抑えすぎていたんでしょうか」
小さな声だった。
ガルドは即答しなかった。アメリアも黙っていた。工房の職人達も、すぐには何も言わない。
その沈黙の中で、バルドが保管庫から戻ってきた。
両手に、黒い金属で縁取られた小さな箱を持っている。箱にはいくつもの封印符が貼られ、魔力を遮断する布で包まれていた。工房の空気が一段重くなる。
「抑えすぎてたかどうかは知らねえ」
バルドは箱を作業台に置きながら言った。
「だが、少なくとも今のお前さんは、道具に合わせて魔力を曲げてる。魔法使いが道具を労るのは悪くねえ。だが、道具の限界に合わせて自分の仕事を狭めすぎるのは違う」
シャーロットはバルドを見た。
「違う、んですか?」
「ああ」
バルドは割れた高級貸与ワンドを指した。
「普通の高級品では足りない。それはもう分かった。なら、足りるものを作る。職人の仕事はそこだ」
魔導具職人が力強く頷く。
「彼女の魔力を増幅する必要はありません。むしろ抑制と整流、余剰排出が中心になります。制御線も通常構造では駄目です。魔力密度に耐えるだけでなく、細い流れを潰さない設計にしなければ」
「受け口が一つだと割れる」
バルドが続ける。
「だから三つに分ける。受ける核、整える核、逃がす核。ワンド全体で魔力を分散させる」
アメリアが箱を見る。
「それに、その星脈晶を使うのね」
「使えるならな」
バルドは封印符に手をかけた。
「ただし、一つ問題がある」
「何?」
「星脈晶は、一つの石として強すぎる。このまま使えば、今度はワンドじゃなくて魔法使い側が石に引っ張られる可能性がある。普通の奴なら、魔力を持っていかれて立っていられなくなる」
シャーロットは目を丸くした。
「そんな危ないもの、使わない方がいいのでは?」
「普通ならな」
バルドは笑った。
「だが、お前さんは普通じゃない。むしろ一つのまま使う方が危ない。だから砕く」
工房の職人達が息を呑んだ。
「砕くんですか?」
魔導具職人が震える声で聞く。
「代々伝わってきた魔石を?」
「ああ」
バルドの声に迷いはなかった。
「一つの宝石として飾るために残してきたんじゃねえ。いつか、本当に必要な道具に使うために残してきた。今がその時かもしれねえ」
シャーロットは慌てた。
「そんな大切なものを、本当に私に使うわけには」
バルドは彼女をまっすぐ見た。
「嬢ちゃん。職人の家に素材が残る理由は二つだ。一つは、誰にも扱えねえから。もう一つは、扱うべき相手を待ってるからだ」
「待っている……」
「この石がどっちだったのか、今日分かる」
バルドは封印符を一枚剥がした。
その瞬間、箱の隙間から淡い光が漏れた。
青でもなく、白でもなく、銀でもない。夜空に細い星脈が走るような光。魔石というより、空の奥にある星の流れを小さく切り取ったような輝きだった。
シャーロットの古いワンドが割れた時とは違う。
高級貸与ワンドが壊れた時とも違う。
その光を見た瞬間、工房の全員が理解した。
これは普通の素材ではない。
そして、普通の魔法使いのための素材でもない。
バルドは箱に手を置き、低く言った。
「これが星脈晶だ」
シャーロットは息を呑んだ。
胸の奥で、自分の魔力がわずかに反応したのが分かった。暴れるのではない。引っ張られるのでもない。まるで遠くから呼ばれた星の光が、ほんの一瞬だけ返事をしたような感覚。
バルドはそれを見逃さなかった。
「……反応したな」
「少し、だけ」
「なら、試す価値はある」
ガルドが静かに言う。
「ようやく、お前に道具が追いつくのかもしれないな」
シャーロットは、まだ困った顔をしていた。けれど、その目の奥には、ほんの少しだけ違う光があった。
壊さなくていい道具。
遠慮しすぎなくていい道具。
自分の魔力を、受け止めてくれるかもしれない道具。
そんなものが本当にあるのなら。
初めて、そう思ってしまったのだ。




