第2節 上位ワンド、砕ける
バルドが作業台に置いたワンドは、シャーロットにも上等なものだと分かった。
軸には黒檀に似た硬質な魔樹材が使われている。握り部分には細かな滑り止めが施され、先端の魔石は澄んだ青をしていた。装飾は控えめだが、安物には見えない。
「うちで予備として置いているワンドだ」
バルドは指先で軸を軽く叩いた。
「新人用じゃねえ。幹部や上位の魔法使いが、緊急用に持つこともある水準だ」
「そんな良いものを、私が使っていいんですか?」
「いいから出してる」
「でも、壊したら……」
「普通に使って壊れるもんじゃねえよ」
バルドの声に迷いはなかった。周囲の魔導具職人達も頷いている。
ガルドは腕を組んだまま言った。
「ようやくまともな道具だな」
「まともどころか、かなり上等な品よ」
アメリアが静かに訂正する。
シャーロットはおそるおそるワンドを手に取った。
握りやすい。重心も良く、手に変な引っかかりがない。軽く触れただけで、魔石から軸へ伸びる魔力の通り道が分かった。
銀翼で使っていた古いワンドは、いつも違った。
魔石の濁りを見て、軸の軋みを聞いて、壊れないところまで魔力を細くする。調子を見るというより、怖がりながら隙間を探す作業に近かった。
けれど、今手の中にあるこれは違う。
「……すごいですね。魔力が流れやすそうです」
「だろう。試しに軽く流してみろ。術式は組まなくていい。通りを見るだけだ」
「はい」
シャーロットは頷いた。
軽く。
本当に軽く。
攻撃魔法を撃つつもりもない。結界を張るつもりもない。ただ、魔石と軸に魔力を通して、流れを見るだけ。
いつものように、壊れないように怯えて絞る必要はないはずだった。
シャーロットはワンドを両手で持ち、ほんの少しだけ魔力を流した。
ピシッ。
澄んだ青の魔石に、細い白い線が走った。
「……え?」
最初に声を漏らしたのは、シャーロットだった。
バルドの顔から血の気が引く。
「止めろ!」
その声と同時に、シャーロットは魔力を止めた。
だが、遅かった。
魔石の亀裂は枝のように広がり、軸の奥からミシリ、と嫌な音がした。
ピキ、ピシッ、パキンッ。
ワンドの先端が、乾いた音を立てて割れた。
工房の中が静まり返る。
炉の音だけが、低く鳴っていた。
シャーロットは割れたワンドを両手で持ったまま固まった。
「……私、また壊しました」
声が小さく震えた。
バルドがすぐに手を伸ばす。
「そのまま台に置け。破片で指を切る」
「す、すみません」
「謝るな。今のはこっちの見立てが甘かった」
バルドは割れたワンドを受け取り、魔石の断面を確認した。外から叩かれた割れ方ではない。亀裂は内側から細かく走っている。
魔導具職人が口を開けたまま、しばらく動かなかった。
アメリアは額に手を当て、ガルドは深く息を吐く。
「……やっぱりか」
「やっぱり、とは?」
シャーロットが不安そうに聞く。
ガルドは低く言った。
「お前ならやる気がした」
「壊すつもりはなかったんです」
「知ってる。だから困ってる」
バルドが魔石の欠片を作業台に並べた。
「嬢ちゃん。今、どのくらい流した?」
「えっと……調子を見るくらいです」
「本気で魔法を使う時と比べてだ」
シャーロットは少し考えた。
「本当に少しです。魔法を使うつもりではなかったので、戦闘で使う時よりかなり抑えました」
「だから、どのくらいだ」
「……本気で攻撃魔法を使う時と比べれば、一割にも届かないと思います」
工房に、二度目の沈黙が落ちた。
バルドがゆっくり顔を上げる。
「一割未満?」
「はい」
「魔力残量の一割じゃなくてか?」
「はい。使った量ではなく、流した強さの話です」
「術式なし?」
「はい」
「ただ通しただけ?」
「はい」
魔導具職人が、ようやく息を吐いた。
「……あり得ない」
バルドは割れた魔石を指で押さえた。
「量だけじゃねえな。通した瞬間の圧で割れてる。密度が高すぎるんだ」
「密度、ですか?」
「ああ。しかも制御が細い。魔力が多いだけなら、もっと乱暴に割れる。この亀裂は、細い流れが一気に内側へ入って、制御線ごと押し広げた跡だ」
シャーロットは自分の手を見た。
「普通に流しただけなんですが……」
「その普通が普通じゃねえんだよ」
ガルドが即座に言った。
シャーロットの肩が小さく跳ねる。
アメリアが軽く睨んだ。
「ガルド」
「悪い。だが本当だ」
バルドは腕を組んだ。
「上位用なら何とかなると思ったが、甘かった。増幅なんてもってのほかだ。これを増幅したら、ワンドどころか周りまで危ねえ」
「周りまで……」
シャーロットの顔色が変わった。
「私、知らないまま使っていたんですね」
その声は、さっきよりも小さかった。
「壊れるのが怖いとは思っていました。でも、周りまで危ないかもしれないなんて、考えていませんでした」
アメリアがそっと肩に手を置く。
「だから今、調べているのよ」
シャーロットは割れたワンドを見た。
「……はい」
魔導具職人が紙を広げ、すぐに線を引き始めた。
「通常のワンドは、受け口が一つです。そこに集中するから割れる。最初から流路を分けるべきです。主受け、制御核、逃がし路。三点に分散できれば……」
「普通の魔石じゃ持たねえ」
バルドが低く言った。
「この魔石でも割れた。受ける石から変える必要がある」
アメリアが彼を見る。
「候補があるの?」
バルドはしばらく黙った。
視線が、工房の奥にある鍵付きの保管庫へ向く。
「星脈晶だ」
魔導具職人が顔を上げた。
「星脈晶って、あの?」
「ああ。うちの工房で代々預かってる。魔力の通りが良すぎて、普通のワンドには使えなかった石だ。下手に組めば、使い手の方が持っていかれる」
「それを、シャーロットさん用に?」
「まだ決めたわけじゃねえ」
バルドはそう言ったが、手はすでに鍵束へ伸びていた。
シャーロットは慌てて首を振る。
「そんな大切なものを使うわけにはいきません」
「嬢ちゃん」
バルドは壊れたワンドを指した。
「これ、うちの予備の中でもかなり良いやつだ」
「はい……」
「それでも守れなかった。良い道具を渡せば済む段階じゃねえんだ」
シャーロットは言葉に詰まった。
道具に遠慮することなら、ずっとしてきた。
魔石が濁っているから魔力を抑える。軸が軋むから術式を軽くする。壊れそうだから大きな魔法は避ける。
その癖が、手に残っている。
割れたワンドを見ると、胸の奥が冷たくなった。
「怖いです」
ぽつりと、声が落ちた。
「また壊すのも、知らないまま使うのも、怖いです」
ガルドが黙った。
アメリアも、何も急かさなかった。
少しして、シャーロットは顔を上げる。
「でも、必要なら……ちゃんと知りたいです。私の魔力が、何を壊してしまうのか」
バルドの目が、わずかに細くなった。
「いい顔になったじゃねえか」
「茶化さないでください」
「悪い悪い」
バルドは鍵束を手に、保管庫へ向かった。
「星脈晶を出す。まずは見るだけだ。適性がなければ使わん。そこは職人として譲らねえ」
「はい」
アメリアがシャーロットの肩から手を離す。
「遠慮で決めないこと。あなたが怪我をしたら、あなたを頼る人も困るわ」
「……分かりました」
シャーロットは小さく頷いた。
「見てもいいですか」
「もちろんだ。お前さんの道具になるかもしれねえものだ」
鍵が回る音がした。
重い保管庫の扉が開き、バルドが奥から小さな箱を取り出す。黒い布で包まれた箱を作業台に置くと、職人達が自然と一歩近づいた。
シャーロットも、少し遅れて椅子から立つ。
蓋が開いた。
中に収められていた石は、青でも黒でもなかった。
夜空を薄く閉じ込めたような奥行きの中で、星の粒に似た光が、静かに瞬いていた。




