キャンプは「遊び」じゃない
翌日。
決闘を翌朝に控えた春のある日。雲一つない深い青色の空に、太陽が低く昇っている。清々しい晴れだった。
午前六時。
まだ誰もがベッドから出たくないような時間帯に、少女は一人朝早くからてきぱきと活動を始める。
パジャマを脱ぎ、ストレッチ性のあるチュニックに着替える。銀髪は後ろで結び、手にはレザーの手袋を。
雇われた調理人たちが仕込みをしている厨房に侵入し、お水の入った水筒を拝借。普段なら絶対に貸してくれない厚めのシースナイフも、調理人たちの目を盗んで持ち出す。
二時間後、シーファははち切れそうなほど中身の詰まったリュックを背負いながら、玄関に座って靴ひもを結んでいた。
「シーファ、気を付けて行ってくるんだよ」
「はい、お父様」
「明日の昼頃には必ず帰る事ね。……じゃあミュリス、シーファを頼むよ」
シーファの父が欠伸をしながら言うと、シーファの隣で大樽のような大きさのリュックを抱えた黒髪のメイドが、「承知しました」と答える。
ミュリスはカルルフォル家のメイドで、主に長女シーファのお世話を任されていた。
本来なら白いエプロンのメイド服を身に着けているが、今日はシーファと同じく動きやすい麻の服を着ている。表には出さないが、幼い頃から可愛いもの好きなミュリスは、この粗雑で素朴な服があまり好きではなかった。
しかし、当の本人のお嬢様がその服になんの抵抗感も抱いていない様子なので、従者であるメイドは何も言えない。
「まったく、好き好んで野宿とは、我が娘は妙な趣味を見つけたもんだ」
シーファの父が呆れたように呟く。
「あら、意外と楽しいものですわよお父様」
「そうは言ってもね。家のベッドで寝るほうが何倍も気持ちよくないか?」
「それとは別の趣がありますわ。カルルフォル家は農民の成り上がり貴族……こう、なんというか、先祖の血が騒ぎますのよ」
「はは、どうだかね。……ミュリスがいるから安心だと思うけど、野犬や蛇には気を付けるんだよ」
眠そうな眼で心配そうにシーファを見つめる父。
ミュリスはメイドではあるが武術の名家の出であり、護衛としても腕が立つ。
これまでのシーファの一人野宿には金で雇った傭兵を護衛として付き添わせていたが、「ミュリスに代わりが務まるならお願いしよう」ということで、今回初めてミュリスが付き添い人となった。
「ミュリス、荷物は持った?」
「はい、しかと」
「ありがとう。ではお父様、行って参ります」
「いってらっしゃい。……のキスは?」
父が冗談交じりに求めると、シーファはうげえ、と舌を出す。
「そういうのはやめて下さい。――野宿は『遊び』じゃない」
「えぇ……はい」
「……行って参ります」
父に挨拶して、家を出る二人。
「さあ、出発しますわよミュリス――! 戦場が、私達を待っていますわ!!」
鼻息荒く言うシーファ。ミュリスは呆れながら「はい……」と返事した。
……ちなみにシーファの父は、愛娘が翌日にカルルフォル家の威信と未来を賭けた「決闘」に挑む事を知らない。
シーファが出掛ける理由も、ただの野宿だと思っている。
もし決闘を控えていると親に知られれば、家中が大騒ぎになってキャンプが出来なくなる……シーファが身勝手に、そんな事を危惧しているがために。
* * *
午前九時。馬車に揺られ、テンペスタ公爵領南部ファウセンの森に到着した。
「見晴らしも良く、そよ風も心地よい……川と木々との距離も十分…………よしミュリス、ここを拠点としましょう」
「え……は、はい?」
ミュリスは周りを見渡す。辺りは何の変哲もないただの森だった。
「お、お嬢様……ほ、本当にこのような場所でお休みになられるのですか…………?」
「ええ、そうよ」
「……山小屋のような所は無いのですか?」
「あるわけないじゃない。ここが私達のリビングであり、ダイニングであり、寝室になりますのよ」
シーファはそう言ってリュックを地面に下ろし(ドスン!と音が鳴った)、内容物を丁寧に草の上に並べた。
調理室からかっぱらったシースナイフと水筒。薬草と香草。革のケースに入れられたカトラリーセット。黒い鉄のフライパンが三枚。
刃沓のついた斧。火打ち石。包帯に石鹸。
手持ちのランタン。ストールとブランケット。etc……。
「ミュリス、貴方も背負っている荷物をお下ろしになって」
「……はい」
(待ってお嬢様……本当にここで寝るんですか!?)
躊躇なく地面に膝をつき、荷物を置きならべるお嬢様に面食らうミュリス。
「よし、天幕は問題ないようね……ミュリス、頼みがあります」
「は、はい。何でございますか」
「そこらへんの森の中から、太くて簡単には折れなさそうな枝を五、六本見つけてきてほしいのですわ。高さはあの灌木ぐらいかしら」
「え――枝ですか?」
「そう、枝ですわ」
ミュリスは内心混乱しながら、言われた通りの枝を探しに行った。
その間、シーファはポケットから愛用の片手杖を取り出し、キャンプサイトの傍に直径2m弱の魔法陣を描いた。陣はつつがなく起動し、薄紫色の光を宿して回り始めた。
続けざまにリュックから薄いカーペットのような布を取り出し、地面に敷く。四隅に重い石を乗せて固定するのも欠かさない。
その上にブランケットやストール、制服の着替えなど、衣類を置いてまとめる。
「お嬢様、これでよろしいですか?」
「ええ、ありがとう」
ミュリスの見つけてきた枝をシーファは嬉々として受け取り、ロープで先端を縛りあげた。
枝で出来た骨組みに天幕を括り付け、端々を木の杭と槌で留める。
ものの数分で、天幕で出来たテントが完成した。
「よし――完成ですわ! とても良い出来になりましてよ! 回を重ねるごとにより格好良くて――よりワクワクする家が作れるようになるのは、野生派テントの醍醐味ですわね!」
「これが……家……?」
飛び跳ねてきゃっきゃと喜ぶ野生派お嬢とは対照的に、目の前のあばら家に愕然とする箱入りメイド。
「どうかしらミュリス、貴方もワクワクしてきたでしょう!」
「失礼ですかお嬢様……この――布と枝だけで作られた……モノに……今晩私達は宿泊するのですか?」
「ええ。楽しくなってきたわね」
「……」
ミュリス・オルトレート。
現カルルフォル家専属メイド兼護衛。生まれは東の武神と名高い武術の名家オルトレート家である。
貴族でないと言えど、彼女は幼少期から武術英才教育を受けていた富裕層の子だ。父や母から過保護なほどの愛情を受け、ここまで健康に、貞淑に育ってきた。
生まれてから今まで豪邸の中で育ち、純白のリネン以外の寝台で寝たことなど一度もない。
故に、シーファの立てたテントを――「家」と認識することが出来なかった。
「お嬢様。――私はここいらでお暇を頂こうと思います。一足先にお屋敷で待っていますね」
「そんなことより、問題ですわミュリス」
「え?」
「今の私達には全くもって足りていないものがありますわ。何だと思われます?」
ミュリスは咄嗟に答えられなかった。
なぜなら――暖房にベッド、燭台に水差しにアフタヌーンティー、可愛い熊のぬいぐるみ――足りないものが多すぎて、何を言えばいいのか分からなかったから。
「わかりません。……強いて言えば、家、ですかね」
「家なら今作りましたではありませんか。正解は食べ物です」
「ああ……。確かに何も持ってきてませんでしたね。どうしましょう。街の方に行って買い出しでもいたしましょうか?」
ミュリスは脳内で、テーブルに並べられる豪勢な肉・魚・高級ランチを想像しながら尋ねた。しかし、シーファは土まみれの両手でリュックをごそごそ漁りながらその提案を跳ねのける。
「いえ、この場で調達します!」
* * *
「釣れましたわ! 丸坊主脱出ですのー!」
子爵令嬢が、川魚のかかった釣り竿を思いっきり振り上げながら叫んだ。
拠点付近の川。シーファの狙い通り、その川は透明度の高い清流だった。
桶と釣り竿を持って川辺に移動したシーファとミュリスは、今日のご飯を得るために釣りを始めていた。
「す、凄いですお嬢様……。っあ! わ、私も――って! 逃げられましたぁ!」
哀れにも餌を食い逃げられるミュリス。なお、彼女は餌のミミズを川辺の礫下から探す過程で一度失神している。
「何をなさっているのですミュリス! 待ちが足りませんわよ待ちが!」
「ま、待ち!? それは――武術でいう『待ちの見切り』や『後手の極意』と一緒ですか!?」
「んん? よく分かりませんが、通ずるものはあるはずですわ!」
それを聞いてミュリスの目の色が変わる。
「それなら話は違う――! ハッ!!」
ミュリスの手が閃き、凄まじい速度でエメラルドグリーンの魚が一匹釣り上げられた。
「どうです! 釣れましたよお嬢様!」
「わあ! やるじゃないミュリス!! 私も負けていられませんわね!」
従者の突然の成長と釣果に、熱が入るシーファ。
ミュリスは少し得意気になりながら、足元でぴちぴちと跳ねるエメラルドグリーンの魚を木桶の中に入れた。
「ふふふっ。こ、こんなにも大きいお魚を……私が……!」
初めは「本来なら食卓で待っていれば出てくる物を、わざわざ自分で調達する」行為に意味を見出せなかったミュリス。しかし、今は言い表せないような妙な達成感を抱いていた。
「おお、それはコウテイサーモンの親魚ですわ。こんなに大きいのは珍しいですわねー」
シーファがミミズを針に新しく通しながら、ミュリス木桶の覗き込む。ミュリスは一歩下がった。
「とても肉厚で美味しそうな魚ですわ。やるじゃないミュリス!」
「いえ、これしきの事、お嬢様のためなら朝飯前でございます」
「あー……でもこれは……逃がすべきね。えいっ」
ポチャン。
シーファが桶の中のサーモンをおもむろに掴んで、川へぶん投げる。サーモンは見逃されたことに歓喜するかのように、凄まじいスピードで上流へ逃げて行った。
「――ちょぉっ!! 何やってんですかお嬢様ぁ!!」
ミュリスが絶叫し、その声に驚いた小鳥たちが木々から一斉に飛び立った。
「折角釣った魚を――何ですかこれは! 新手のメイドいびりですか!?」
「お、落ち着いてくださいましミュリス。これは川のためですのよ」
「か、川?」
「ええ。私は釣りをする際、川の自然を守るため、大型魚の親魚は釣ったら川に戻すようにしているのですわ」
大型魚――特にミュリスの釣ったコウテイサーモンは回遊魚であり、川で生まれた後、海でぶくぶくと育ち、そして再び母川に戻って産卵する習性がある。
よってこの時期の川で釣れるコウテイサーモンは、大量産卵を控えた親魚である可能性が高い。
そんな魚は今獲るよりも、産卵のために逃がしてやる方が良い。その方が来期の魚の繁栄につながるし、川の自然の豊かさも守られる。
「私達は結局、農業や狩猟などを通して自然に生かされてるに過ぎない。だからこそ自然を尊ぶ必要があるのです」
「な、なるほど……」
自然に生かされているのだから、自然を尊ぶ。
ミュリスには初めての発想だった。
「――さ、これでミュリスはまだ0匹で、私は1匹。釣り対決は私の勝ちになりそうね」
シーファが釣り竿を振りながら言う。
「あっ。もしかしてお嬢様、最初からそれが狙いでございましたか? この……だったら負けませんよ」
「ふん。ミミズにも触れないようなアマチュアさんに、私が負けるはずもありませんわ」
もはや食料調達の目的も忘れ、数を競うために釣り糸を垂らし続ける二人だった。
* * *
食料調達の旅は一日中続いた。
シーファは頭にバンダナ、手に革の手袋、足に藍色のオーバーオール、背中に木の籠という、もはやご令嬢とは思えない身なりで森の中へ歩いていく。その後ろ姿に貴族オーラは見られない。屈めば落穂でも拾っていそうだった。
「食べられそうな山菜や茸があれば、どしどし採ってくださいまし」
木々の隙間から、泥のついた顔を覗かせるシーファ。
「採れた分が、そのまま私達のご飯になるのですから」
「は、はい……」
ミュリスは躊躇していた。
子供の頃から屋敷と武道場を行き来するだけの生活を送っていたミュリス。外に遊びに行くとしても、大抵は市場や中心街でのお買い物だった。
生涯、泥や虫、草などの自然に触れる機会など無かったのだ。
「ひ、ひっ! お――お嬢様! 虫が! 虫がッ!!」
「え? ただの天道虫じゃないですの。ほら、しっしっ」
シーファが天道虫を振り払いながら、「嘘だろ……」とでも言いたげな目つきをして言う。
「ミュリスってば、相手が人だったら誰にも負けないのに……相手が虫になった途端――」
「それ以上は仰らないでください。それ以上はオルトレート家への侮辱と受け取ります」
「ずるいですわ……」
愚痴りながら作業を続けるミュリスとシーファ。
正午を過ぎると空は更に蒼く澄んで、薄い木漏れ日が二人を照らしだした。
途中で挟んだ休憩中に、シーファは鳥や虫の鳴き声を自然の奏でるオーケストラだと見なして耳を傾ける。一方ミュリスは、虫の耳障りな鳴き声の何が美しいのか心底理解出来なかった。
一時間ほど採取を続けると、二人の背負った籠は山菜と茸でパンパンになった。
「ふむ。茸、山菜、果実、木の実……割と集まりましたわね」
「お嬢様、私の籠もここに置いておきますね」
シーファはミュリスが置いた籠に手を伸ばし、入っている物をシーツの上に仕分け始めた。
(ふふ……結構いい仕事しましたよ……!)
その作業を見ながら、ミュリスはニヤケ顔で額の汗を拭う。
ミュリスにはこの採取時間で、お嬢様が集めた食料の約二倍の量を集めていた。
果実や樹の実はとにかく集めまくったし、茸はなるべくカラフルになるように選んだ。レアそうな山菜もゲットした。
「…………」
胸を張るミュリスの横で、シーファの顔色がどんどん悪くなっていく。
「毒草、毒草、弱毒草、麻痺毒ツタ、死の果実、毒茸、猛毒茸、コカトリスカブト……ミュリス貴方! 私の事を殺そうとしていらっしゃるんですの!?」
「え――えぇ!?」
「もしかしてテンペスタ家の手の者でございますか!? 明日の決闘の前に、私に毒を盛って辞退させようと――!」
「わあ! 違います! 違います!」
平謝りしつつ、ミュリスは心の中で「虫がついて無さそうな物だけを集めた」事を後悔した。
* * *
その後も、彼女のご令嬢とは思えない行動は続いた。
「よっ! ほっ!」
「お、お嬢様! 私がやります!」
白く細い指で柄を握り、リズムよく振り下ろす。
シーファは額に汗を浮かべながら、木を割って薪を作っていた。
「うらっ! ミュリス! 次の木を持ってきて!」
「自分で薪割る貴族なんてどこにいるんですか!」
ミュリスはシーファから斧をぶん取り、切り株に向き直った。
「こういう力仕事は私がします! お嬢様の棒のような腕では力不足です!」
「え……」
ミュリスは目の前の獲物を注視する。
斧を上段に構える。
イメージは刀剣による両断。木の繊維の一本も残さず、全てを一太刀でぶった斬る。
(今まで、父に教えられてきた事を……!)
ミュリスは今日一日……虫に気絶したり、毒草を献上したり……まるで役に立たなかった。
けれど、力仕事は彼女の得意分野。かつてないほどの名誉挽回のチャンス。
(オルトレート流戦斧秘術――『雷撃落とし』!!)
「――破ッ!!」
凄まじい速度で振り下ろされた斧は、割るべき薪を粉々に砕き――そのまま、土台の切り株まで破壊した。
「……あ、あれ?」
「ちょっとミュリス!! 力が強すぎですわよ!!」
* * *
「あの眩い青緑色の羽根は――幻の怪鳥ツァルケーですわ! 追いかけますわよミュリス!」
「ま、待ってください!」
今度は焚き付けを探しに森の中を歩いている最中だった。唐突にそう叫んで駆け出すシーファ。
「まさか――お目にかかれるなんて――なんて運のいい事でしょう!」
シーファは興奮しきった様子で森の中を爆走する。ミュリスは護衛対象であるお嬢様が凄まじい速度で樹海の奥へと突き進んでいるのを見て、心臓が爆発しそうな思いだった。
「お嬢様! 走らないでください! 転んでしまいますよ!」
「何を言っているんですかミュリス! こんなまたとないチャンス、逃したら貴族として恥ですわ!」
「貴族は森林を爆走したりなどしません!」
シーファのランニングフォームは、「貴族令嬢が王子様に可愛らしく駆け寄る」類のものというより、「山賊が狩りの獲物を見つけた」時のものに近かった。
「だいたい、その怪鳥とやらを見つけてどうするんですか! 捕らえてお売りになるんですか!?」
「私は密猟などしません! ただ一秒でも長く、その幻の姿をこの目に収めたいの――……」
言葉の最後はよく聞き取れなかった。
理由は単純。言い合っている間に、シーファとミュリスの距離がどんどん離れていくせいで、声が届かなかったから。
(速い――!!)
ミュリスは内心驚愕しながら目を細める。
追い付けない。
お嬢様が山を駆けるスピードが、恐ろしく速い。
無論、身体能力や運動神経でいうとミュリスの方が圧倒的に優れている。腕力や脚力は言うまでもなく、足の速さだってミュリスの方が上のはずだった。
(平地――では、の話ですか……!)
ミュリスは高速で過ぎ去る足元に目を向ける。
凹凸のある地面。踏み外しが起きやすい泥。躓きそうな枝や太い根。進路を塞ぐ木々のせいで真っ直ぐに走れない。
草。茂み。石。岩。低木の枝葉。森という自然のフィールド。武道場やよく整備された中庭だけを走っていたミュリスにとって、走りづらい事この上なかった。
遠ざかっていく小さい背中を見る。
どれだけの経験を積んだら――どれだけの日々を森で過ごしたら――あのような足の運びを身につける事ができるのだろうか。
何かがミュリスの顔に飛んできた。
反射でそれを掴み取ると、それは小銅貨サイズの羽虫だった。
「――うぷっ」
ミュリスは卒倒しそうだった。
* * *
そんなこんなで日が落ち、夜が訪れる。
夜は流石に宿泊先として山小屋を用意してるのではないか、というミュリスの期待もむなしく、キャンプ前で焚火に火を起こすシーファ。
水桶で保管しておいた川魚を枝に差し火に当て、家から持ってきた腸詰や野菜、採れたての山菜や茸を金網の上で焼く。
「塩胡椒だけで割とイケるものですわ。ミュリス、お皿を取って」
「は、はい、お嬢様」
辺りは静かで、パチパチと焚火が燻る小さな音だけが響いていた。
意外にも虫の音は聞こえない。お嬢様が虫よけの魔法をかけたのかもしれない、とミュリスは密かに胸をなでおろした。
「……今日は一日中付き合わせて悪かったわね、ミュリス」
シーファが呟く。
「……え?」
「虫も嫌いで、本当なら今日もふかふかの寝台で寝れたはずなのに……私の趣味に付き合わせて、申し訳ありませんわ」
「そ、そんな、とんでもない! 私は貴方に仕える身なので、そのような事を気にされる必要も無いというか――む、むしろ、あまり役に立てなくて申し訳ございませんでした」
ミュリスは慌てて首を振る。
しかし、口ではそう言いつつも、心の中にもやもやした部分が有る事に気付いていた。
(お父様、あの人たちは何をしているの?)
子供の頃。修練のため、オルトレート家の使用人たちと尊大なるお父様に連れられて来た辺境の農村。
畑で農作業をしている農夫を見て、ミュリスが言った言葉である。
(彼らは畑で野菜を育て、収穫しているんだ)
(なんでそんな事をしているの?)
(それか彼らの仕事であり、生きる術だからだ……ミュリス、お前は違う)
(……え?)
(彼らは農夫の生まれであり、我らは武家の生まれだ。――今も、これからも、彼らと交わる事は無いのだ。考えるだけ無駄であるぞ)
(…………わ、分かりました。お父様)
幼いミュリスはその言葉を信じ、農民たちを一瞥した後、振り返って小さく頷いた。
別に、何の心残りも無かった。
彼らを見下している訳じゃない。
知らなくてもいい。
気にならない。意味が無いなら、興味もない。
半ば忘れかけていたが、ミュリスは過去に父とそんな会話をした事を思い出していた。
父の言う通り、生涯「農業」や「自然」、「質素」、「高貴でない者」全てに関わる事のなかった彼女。今日、シーファの大暴走に付き合わされるまでの話だが。
「私達は、特に道を逸れない限り、今日触れたような自然に触れる機会がありません」
魚に塩を振りながら、ぽつりぽつりと話し始めるシーファ。
「――はっ、はい……」
「ミュリスは虫にも触れた事が無いようですし」
「も、もうその話はいいじゃないですか、お嬢様」
「ふふっ。でも、小さい羽虫くらいなら触れるようになったじゃない」
「……くっ」
ころころと笑うシーファを、頬を膨らませてジロリと睨むミュリス。
確かに夕食の準備をする頃には、小さい虫程度なら振り払えるくらいに彼女の虫耐性レベルは上昇した。
……その間、シーファは「これも食べれますわよ」といって特大芋虫を夕食に投入しようとしていたのだが。
「……大体、何故お嬢様はこのような事をなさるのですか?」
ミュリスが疲れ果てた声で尋ねると、シーファは首をこてっと傾げて「楽しいから」と答えた。
「まあ……そうですよね。お嬢様、傍から見ていてずっと楽しそうでしたもん」
「あら。私そんなにはしゃいでるように見えましたか? 少し恥ずかしいですわね」
頬を薄く染めて笑うシーファ。
そういうところは年相応だな、とミュリスは小さく息をついた。
「……ミュリスは、楽しくありませんでした?」
優しい声色で、シーファが問いかける。
「…………」
答えに詰まる彼女に、シーファがふっと微笑んだ。
「勿論、嫌いなら嫌いで構いませんわ」
「うう……すいません」
「まあでも、決めるのは夕食を食べてからにしてくださいまし」
そう言って焼き魚を手渡され、ミュリスはその香ばしい匂いに少し驚いた。
計算された香料や調味料の匂いでなく、炭と焦げ、野性的な香草の醸し出すワイルドな香り。意外にも悪くはなかった。
「さて、熱いうちに食べますわよ。火傷にはお気を付けて」
「お、お嬢様、これは……」
「噛り付くのです。嫌ならカトラリーもございますが、こうして品のない食べ方をするのも一興ですのよ? …………はぐっ」
豪快に噛り付くお嬢様の姿を見て、ミュリスも覚悟を決める。目をつぶって魚の腹に齧り付いた。
(……!)
白身はほろっと崩れ、大胆な塩味が口内を満たす。皮はパリパリ、ところどころバリバリしていて、仄かな苦味もあった。
「どう、美味しい?」
炭を頬に付けて笑いかけるシーファ。
「…………おい、しいです」
「ふふ、でしょ!」
確かに、美味しかった。
目の前の焼き魚を見つめる。
材料も安価。調理の仕方もかつてないほど単純。野蛮で粗雑。普段食べている調理人の作る豪勢な食事とは比べ物にならないほど簡単な料理――のはずだった。
無論、美味しさでいえば普段の食事の方が五百倍美味しい。毎日食べたい程この焼き魚は美味しくない。
けれどミュリスは、この焼き魚にどこか無視できない魅力を感じていた。
「悪くないわよね、こういうのも」
「……はい…………びっくりです」
「……ふふっ」
「こんなの、食べた事無くて……初めての感覚です」
「喜んでもらえて嬉しいですわ。
……さっきも言ったけど、私達は普段自然に触れる機会が全くと言っていいほどございません。だから単純に気づかないのですわ。こういった――自然の魅力に」
シーファは魚を片手に、金網の上の野菜を箸で転がしながら話し出す。
「魅力に触れる機会が無いから、触れようともしなくなる。興味がないから、自分の好みにも気が付かない。それって結構、損をしてるんじゃないかと思いますの」
「損……ですか」
「ええ。お金のかかる娯楽と違って自然なんてそこら中に溢れてる。
それを本当は楽しいと思えるのに、無関心なまま手を付けないのは勿体ないではありませんか」
「……」
「ほら、南瓜が焼けましたわよ」
焦げのついた南瓜を皿で受け取りながら、ミュリスはシーファの言ったことについて考える。
「…………」
虫も、土汚れも、大変な作業も、全然好きじゃない。むしろ嫌いだ。
お嬢様が野宿に熱中する気持ちに、どうしても共感できない。
でも。
ふと上を見上げる。
暗い夜空には、無数の星々が連なって重なって、視界一面に目が離せないような星海を作り上げていた。
夜の修練や作業をよくしていたミュリスにとって、星空などさして珍しいものでは無い。
でも、こんなに綺麗なものであると認識した事はなかった。
釣りの奥深さも、山菜の採り方も、炭の味も。
……今日、シーファに連れられキャンプをしなければ、一生知ることは無かっただろう。
「あ、熱っ」
目の前ではシーファが焼きたての茸を頬張って悶絶している。
お嬢様も、こんな一面も。
野宿は好きじゃない。
普通に好きじゃない。好きじゃない――が、
「……来て、よかったです」
ミュリスが小さい声で呟いた。
「……あふっ、あ――え!?」
シーファがその言葉を聞いて目を光らせた。
「す、好きになってくれました!? ならミュリス、次の野営も一緒に――」
「次回は傭兵の方にお願いしてください。お嬢様一人なら、別の護衛メイドに頼むのもありでしょう」
「くっ、残念ですわ……。ていうか、次回は私一人じゃありませんのに……まあしょうがないですわ」
シーファか悔しそうに言って、火に新しい薪を放り込んだ。その勢いでバチ、と音を出して火が揺らぐ。跳ねっ返りの熱気を食らったお嬢様は「ぴゃっ」と声を上げた。
「え――くくっ」
「ひ……あ、今笑いましたわねミュリス! 主人を笑うとは、従者としてどうなんですの!?」
「し、失礼し……くくっ……あは、あはははっ!」
不思議と、笑いが堪えられなかった。
「……むう、もういいですわ。どうせ今日は無礼講です」
行儀悪く腹を抱えて笑うミュリスと、それに釣られて微笑むシーファ。
食事中に口を空けて笑ったとしても、それを注意をするマナー講師や貴族はこの場に居ない。
そうして、野宿の最後の夕食は意外にも、笑いに溢れる夕食となった。
「……ははっ……はぁ、ちなみにお嬢様、先程仰った野宿をする理由ですけど、『楽しいから』だけではありませんよね?」
笑い終わったミュリスが尋ねる。シーファはぎくりと、焼き茸串を口に運ぶ手を止めた。
「……ま、まあそうですわね」
「わざわざ決闘前日に、決闘場所でする必要もありませんしね」
「ええ。勿論本心は楽しいからですけれど……正直に言えば――」




