ドレスコード、ありがとう
翌週の水曜日、昼休みにスマホを見ると、蓮くんから写真が届いていた。コンビニの杏仁豆腐だった。
『買った』
私はお弁当を飲み込んでから笑った。
『焼肉屋さんで食べなかったから?』
『うん』
『おいしい?』
少しして、また返信が来た。
『おいしい。でもあっちも気になる』
ずいぶん心残りらしい。
『じゃあ、今度は最初から頼んでおこうね』
『それは最後にして』
返信を見て、また笑ってしまった。
*
その週末は、家の掃除をして、友達とランチをした。
翌週は仕事が少し忙しかった。帰って、ご飯を作って、お風呂に入ると、もう寝る時間になる。
蓮くんとは、ときどき連絡を取り合った。映画の話が続いた日に連絡先を交換してからは、そちらを使うようになっていた。
映画の配信が始まったとか、前に話していた店が休みだったとか。返事が翌日になることもあれば、何往復か続く日もある。金曜日の夜、洗濯物を畳んでいると、通知が出た。
『おねーさん、来週忙しい?』
私は手に持っていた靴下を揃え、スマホを取った。
『平日はちょっと。土曜なら空いてるよ』
『ご飯行かない?』
来週の土曜日。ちょうど、そろそろ誰かを誘おうかと思っていたところだ。
『いいよ。何か食べたいものある?』
『おねーさんは?』
私はカレンダーからブラウザに切り替えた。
しばらく前に保存したままのお店がある。料理の写真を眺めてから、店内の写真を開いた。落ち着いた照明に、白いテーブルクロス。窓際の席もよさそうだ。ここ、一緒に行ってくれるかな。
『気になってるお店があるんだけど』
お店のページを送ると、少しして返事が来た。
『おいしそう』
『ここにする?』
私は、もう一度お店の案内を確認した。
『うん。ただ、ドレスコードがあるから、少し綺麗めの格好でお願いしたいんだけど、大丈夫?』
『ジャケットあればいい?』
『うん。それなら大丈夫』
返信を送ってから、予約画面を開いた。土曜日、二名。希望の時間に、まだ空きがあった。
*
当日、待ち合わせ場所に着いて、私は一度足を緩めた。蓮くんがいた。
黒のタートルネックに、チャコールのジャケット。すっきりした黒いパンツに革靴を合わせ、髪もいつもより少し整えている。襟元まで黒いせいか、顎のラインがよくわかった。
……そう来たか。
柱のそばに立っていた彼が、こちらに気づく。ジャケットのポケットから手を出して、軽く上げた。
「おねーさん」
いつもの声だった。
私は近づきながら、どうにか普段どおりの顔を作った。
「お待たせ」
「俺も今来た」
そう言って、蓮くんは自分の服に目を落とした。
「これで大丈夫?」
大丈夫。非常に、大丈夫です。
「うん。素敵。似合ってる」
「よかった」
口元が緩む。ああ。今日のお店、ここにしてよかった。
まだ入ってもいないけれど。
「おねーさんも、いつもと違うね」
私は自分のワンピースを見下ろした。
「お店に合わせてみた」
「似合ってる」
リップサービス、リップサービス。
「ありがとう」
お礼を言って、歩き出す。隣に並んだ彼を、もう一度見たい。
でも、今さっき褒めたばかりだ。あまりじろじろ見るのもどうだろう。信号待ちで、向こう側のお店の看板を見るふりをした。
蓮くんは、横断歩道の先を見ていた。黒い襟の上に、顎のラインがくっきり見えた。前髪の下の目元。ジャケットの肩も、綺麗に合っている。
「何?」
視線だけが、こちらに動いた。
見つかった。
「ジャケットも似合うなと思って」
「さっきも言った」
「うん。もう一回思ったの」
彼は私を見たまま、少し笑った。信号が青になる。
「行こ」
私は頷いて、隣を歩いた。
お店に入ると、窓際の席に案内された。
蓮くんが椅子を引いて座る。ジャケットの前を軽く整え、テーブルに置かれたメニューを開いた。それだけのことなのに、つい見てしまう。
*
デザートのお皿が下げられてからも、しばらく話していた。
蓮くんが今度見ようと思っている映画のこと。私が最近、帰りの電車で読んでいる小説のこと。
コーヒーを飲みながら相槌を打つ彼を、私はときどき眺めた。
「そんなに気になる?」
カップを置いた蓮くんに聞かれて、私は笑った。
「似合うなと思って」
「それ、三回目くらい」
「じゃあ、もう言わない」
彼は口元を少し上げた。
「言わなくていいとは言ってないけど」
私も笑って、コーヒーを飲んだ。
*
お店を出ると、通りの植え込みに小さな明かりが灯っていた。
「おいしかったね」
「うん。あのソース、パンにつけて全部食べたかった」
「食べてたでしょう」
蓮くんが笑う。
「もうちょっと」
私も笑った。駅までの道を並んで歩く。ガラス張りのお店の前を通ると、ジャケット姿の彼がちらりと映った。
今日は、いいものをたくさん見た。
「おねーさん、来週は?」
隣から聞かれて、顔を上げる。
「あー、約束あるから、ごめんね?」
「友達?」
「ううん。蓮くんみたいな?」
彼の足が、ほんの少し遅くなった。
「……ああ」
私も歩調を緩める。
「その次の週も、ちょっと予定があって。もう少し先でもよければ」
「うん」
蓮くんは前を向いたまま頷いた。
「また連絡して」
「わかった」
そう答えると、彼がこちらを見た。何か言うのかと思ったけれど、口元が少し緩んだだけだった。




