母と娘は『国境』を渡る
ある晴れた午後、マリヤは娘のリリー・アンナを連れ、プエンテ・マヨルガの邸宅の門を出た。
運転手の操る車は、スペインとイギリス(ジブラルタル)国境の検問所まで彼女たちを運び、そこに二人は降り立った。
「三時間後に戻ってきて」
マリヤがそうとだけ告げると、車はスペイン側へと引き返し、乾いた砂塵を残して消えていった。
『ジブラルタル』は一見、狭く窮屈な岩しかない半島に見える。
だが実際には縦に七キロ近く延びる街なのだ。
片側には威圧的なジブラルタル・ロックがそびえ、その背後には統治特有の自然が保護された山岳丘陵が連なる。
両脇には港が広がり、埠頭には現地スペインで雇われた港湾労働者や船員、軍人と通関士たちの姿がちらほらと見える。
戦火を逃れて他国やイギリス本土へ疎開した一般市民の姿はほとんどなく、街はがらんとしていた。
石畳の上を風だけが吹き抜ける、空疎な静けさは戦争真っただ中とは思えないが、これが死と生の際だと思えば、これほどふさわしい無音状態はない。
海辺を臨む古い石造りのレストラン街で、二人はランチをとった。
魚のグリルの焦げた匂いが漂う店内でマリヤが注文したのは、イギリス風のフィッシュパイだった。
オデッサで育った彼女の記憶には、ピロークという魚のパイがある。
だがここイギリス領のそれは、パイ皮ではなく熱々のマッシュポテトで覆われ、中身は白ワインと香草で蒸し煮した白身魚をほぐしたものに、みじん切りのゆで卵と干したキノコが混ぜ込まれている。
素朴で、どこか郷愁を誘う味だった。
「お魚はね、ママのいたフランスやドイツでは主に金曜日に食べるのよ」
「そうなの、私は美味しいものは毎日でも食べたいわ」
表向きは、娘を連れてイギリスのお菓子や紅茶を買い求めるだけの、ただの小さな旅。
マリヤは食後のプディングをゆっくりと楽しみながら、娘の身なりを整えてやるふりをして、街中の風景を何枚か写真に収めた。
レンズの奥で、がらんとした石畳と港の様子が静かに切り取られる。
商店でイギリス菓子や文房具、小物類をいくつか買い求めると、二人は埠頭へと歩を進めた。
リリー・アンナと笑い戯れながら、マリヤはそっと海側へカメラを向けた。
二日前、イタリア海軍の特殊部隊が、ほぼ完膚なきまでに吹き飛ばしたという、船舶用の燃料タンクを確認するためだ。
手早くその、残骸のような光景をフィルムに焼き付けると、娘のスカートを直してやるふりをして、カメラを彼女の小さなブーツの中に滑り込ませた。
「ほら、大事なぬいぐるみさんを落としているわよ」
娘のバッグに、さも拾った態をして小さなマスコットのぬいぐるみを押し込みながら、マリヤは素早く抜き取ったフィルムを、自分のなめし皮の手袋の内側に隠した。
桟橋から離れようと歩き出したそのときだった。
身なりの良い老紳士が、折りたたんだ新聞を小脇に抱えて近づいてきた。
彼はベンチに腰を下ろすとタバコをくわえ、ライターを何度もカチカチと鳴らした。
火はつかない。
「すみませんがマダム。ライターをお持ちなら火を分けてくださいませんか。そして、あなたも一服いかがですか?」
マリヤは静かに自分のライターを差し出した。
紳士はそれを受け取り、注意深く眺める。
「これは素敵な細工ですね」
「家族の数少ない形見の一つなのよ」
「それはとても大事なものなんでしょうねえ。東欧風の意匠がとても良い」
紳士は自分のタバコに火をつけ美味そうに一服吸うと、マリヤのタバコにも火をつけようとした。
何度か試みるが、風向きのせいかうまくつかない。
やがて彼は顔を上げ、尋問するようにマリヤの瞳をじっと覗き込んだ。
「どうやらマダムは、火をつけるための『燃料』を残しておいてくれなかったようですな」
マリヤは表情ひとつ変えず、穏やかに答えた。
「ああ、なんのことかしら。もしかしたら『イタリア人』の仕業なのかもね」
紳士は静かに微笑み軽く会釈を返すと、そのまま去っていった。
終始まわりに人影はない。
ただ風だけが、空っぽの桟橋を吹き抜けていた。
スペイン側とイギリス領ジブラルタル国境の検問所には、午後の陽が容赦なく照りつけ、そこかしこに張り巡らせた鉄条網が太陽の熱を帯びて鈍く光っていた。
脇に黒い車が一台。
スペイン軍の制服を着用した、夫の部下の運転手がハンドルに手を置いたまま、待機している。
マリヤは娘リリー・アンナの手を引き、検問所へ続く道を踏んでゆっくり進んだ。
ふと、娘の耳にだけ聞こえるほど、小さな囁き声がした。
「あら、どうしよう。困ったことになったわ。ママはここを無事に通してもらえないかもしれない」
「ママ……」
ママは連れていかれてしまう。危険な目に遭ってしまう。
娘は『戦いの周辺』で動いていた自分が、一気にその渦の中に引き込まれた気がした。
肉屋の小僧みたいに、市場で殺された子供たちみたいに、ママも、もしかしたら私もひどい目にあわされる。
「もしママが連れていかれて、貴女が車で待っていても帰してもらえないようだったら、車を出して家に帰って、パパを呼んで。
ママがジブラルタルの国境検問所に囚われていると伝えて。
ランチと買い物の帰りに捕まったって」
リリー・アンナの指が、マリヤの手袋の上から掌を握る。
しまった、カメラは娘に託したけれど、フィルムは私の手袋に隠したままだわ。
二人は何事もないように楽し気に歩いた。
出国ゲートにさしかかる直前、突然詰所から兵士が現れた。
イギリス軍の軍服を着て、冷たい青い目をした彼は、躊躇なくマリヤの細い腕を掴んだ。
「奥さん。我々とご同行願えますか」
母と子を包む空気が、一瞬で張り詰めた。
イギリス兵の視線が、母親に鋭く刺さる。
いつまでも国境を越えてこないのを不審に思ったのか、送迎車の運転手がわずかに顔を上げた。




