ジブラルタルのデチマ・マス
1942年の夏、プエンテ・マヨルガ。
海に面した白い邸宅に暮らす基地司令官ミゲルは、軍上層部の方針に従い、中立国でありながら、ドイツとイタリアへの便宜を図ることを日常業務の一環としていた。
彼らのスパイ活動を黙認し、沈黙のうちに謝礼を受け取る。
湾内にそびえるジブラルタルの岩山は、まるで街の隣の区画のように近くに感じられる。
その周囲に夜ごと浮かぶ英国艦の影は、潮の満ち引きとともに揺れていた。
この岩山『ジブラルタル・ロック』を含む半島の南端は、1704年のスペイン継承戦争で英蘭連合軍が奪取して以来、イギリスの海外領土として『地中海の鍵』と呼ばれ、重要任務を担い続けてきた。
海峡を擁するそこは古くから大西洋と地中海を結ぶ生命線であり、第二次世界大戦下、連合国の補給路と艦隊の拠点として、枢軸側にとっての喉元の棘となっていた。
ドイツは1940年から41年にかけて『フェリックス作戦』としてスペインを縦走、この要塞を奪取する計画を練ったが、フランコ政権の多大なる見返り要求と中立堅持策のため実行には至らなかった。
それでも、ドイツの諜報機関アプヴェーアとイタリア軍の諜報部隊は、スペイン側の周辺地域を拠点に、破壊と諜報の網を張り巡らせ続けていた。
イタリア海軍特殊部隊『デチマ・マス』(第十MAS艦隊)は、地中海の海岸から次々と出撃していた。
その最前線基地の一つが、ミゲルの務める基地と住居のすぐ近くの海岸に建つ、一見無人の屋敷『ヴィラ・カルメラ』であった。
丘の上の乾いた川筋に面したこの別荘を、スペイン人の妻コンチータの病気療養を口実に借り受けたのは、イタリア工作員アントニオ・ラモニーノ。
そして、デチマ・マスの工作員たちを統括し、初期のジブラルタル攻撃で潜水艦『シレー』を指揮したのが、『黒い皇子』と称される元貴族ジュニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼであった。
深夜、マリヤたちの住む屋敷の窓は厳重に戸締りされ、分厚い上質のカーテンが閉められた。
夜間の仕事がない夜は、父のミゲルがママと一緒に娘の部屋に現れ
「安心しておやすみ」
と優しく声をかけ、リリー・アンナを寝かしつけた。
だが娘は、夜の間に何が行われるかを知っていた。
両親が立ち去ったあと、彼女は寝巻のままベッドを抜け出し、椅子を窓辺に運び、カーテンを細く開けて表の様子を覗き見る。
屋敷の近くにある『ヴィラ・カルメラ』の小屋から、全身を暗色のダイバースーツに包んだ男たち——ガンマ(戦闘泳者)——が、磁力機雷を携えて静かに海へ滑り込む。
月明かりさえも避け波音に紛れて水中へ消えていく姿は、まるで影そのものだった。
呼吸音一つ漏らさず、足先で水面を裂く水音すら聞こえない。
やがてジブラルタルに停泊中の船から鈍い爆発音が響き、火に包まれる船体が夜闇の裾を赤く染める。
また、破損して動けず大きく傾く姿も浮かび上がるのだ。
夜明け前の闇が最も濃くなる頃、男たちは岸に戻り、湿ったスーツのまま小屋に消え、やがて暗闇に紛れて姿を消した。
リリー・アンナは息を殺し、カーテンの隙間からそのすべてを見つめていた。
心臓の鼓動が激しく打ち、自分の耳にまで響く。
彼女は、知らぬふりをしてベッドへ戻り朝を迎えた。
ジブラルタル・ロックの地下には、イギリス軍が掘り進めた無数のトンネルが網の目のように広がり、病院も兵舎も弾薬庫も岩の内部に隠されていた。
表向きは静かな港町に見えるプエンテ・マヨルガからでも、時折昼夜を問わず、対空砲火の閃光や、イタリア爆撃機のエンジン音が聞こえてくる。
ジブラルタルはすでに単なる軍事拠点ではなく、ヨーロッパ南部を左右する象徴となっていた。
早朝、リリー・アンナが着替えて庭に駆け出ると、母のマリヤが花壇で花を切っていた。
その自然な動きに紛れて、静かに小型のスパイカメラが作動する。
レンズはジブラルタルの岩山の輪郭、湾内の艦影、波間に漂う残骸の位置を正確に捉えた。
母はカメラを、ママと笑って抱き着いてきた娘の、エプロンドレスのポケットに滑り込ませ、フィルムは切ったばかりのカボチャの花の中に手早く隠した。
膨らんだつぼみの柔らかい隙間にフィルムを差し込む手つきは、まるで日常の庭仕事そのものだった。
母は海辺の庭で花やハーブを育てていたので、よく摘みに出ていたのだ。
誰もが疑わない、完璧な隠蔽だ。
だが、その指先には、わずかな緊張が残っていた。
「おはよう、かわいい子。今日のランチはフィオール・ディ・ズッカの詰め物よ」
「嬉しい。イタリア料理ね」
「そうよ。こんなきれいな空と穏やかな海の日だもの。
教会のミサから帰ったら、パパと一緒にベランダでランチにしましょう。
この摘んだカボチャのお花でね」
家族三人は、毎週末近くの教会のミサにあずかった。
参列する人々の中には、ミゲルの部下や地域のスパイたちが大勢混じっている。
母も娘もおそらく父も、それを知っていた。
ミサのあと、ベランダでのランチで花カボチャのチーズ焼きを楽しむ親子。
デザートをいただいていると、遠くから砲声と飛行機の風切り音が聞こえてきた。
パパの部下が走り寄ってきて、ミゲルは食卓を離れ、静かに立ち去った。
その背中には、すでに次の『便宜』の匂いが漂っていた。
平日の午前中、リリー・アンナは町の上流子女向けの小さな私立学校に通っていた。
白いブラウスに紺のスカート、リボンを結んだ髪で、将校や富裕な商人の娘たちと並んで授業を受ける。
教室ではフランス語の詩を暗唱し、庭では優雅なテニスや読書サークルが繰り広げられた。
同じクラスのソフィアはアルヘシラスの銀行家の娘で、いつも最新のドイツ製のリボンをつけていた。
イサベルはサン・ロケの地主の家の子で、スペイン語とイタリア語を混ぜて話すのが得意だった。
休み時間、彼女たちは庭のベンチに集まり、あたりを憚る小声でおしゃべり交わした。
「昨夜、また湾の方で大きな音がしたわよ」
とソフィアが目を輝かせて言った。
「パパが言ってたの。イタリアの人が何かしてるんだって。黒い服を着た人が海に入っていくのを見た人がいるらしいわ」
イサベルが身を乗り出して続けた。
「うちの使用人がね、市場で『ハポネッサ』がまた変なものを運んでたって噂してた。黒い目のあの子よ。孤児なのに、どうしてあんなにいろんなところに出入りしてるのかしら」
ソフィアが肩をすくめた。
「庶民の子はいろいろ知ってるものよ。
でも、あの子、東洋人みたいな顔してるでしょ。 リリー、あなた見たことある?」
リリー・アンナは首を振り、微笑みを浮かべたまま、ただ耳を傾けていた。
彼女たちの無邪気な噂話の中に、時折、危険な真実が混じっていることを、彼女は知っていた。
学校から帰る道すがら、ソフィアが腕を組んできて
「今度の日曜日、うちの別荘に来ない?」
と誘うと、リリーは
「ママに聞いてみる」
と答えた。
その笑顔の裏で、彼女は母から教わった通り、余計なことは決して口にしなかった。
帰り道、市場の端でリリーはふと車を停めさせた。
ジャスミンとオレンジを売る小さな屋台の前に、黒い目に黒い髪、どこか東洋風の顔立ちをした少女がいた。
ローザ・ガルシア——人々が『ハポネッサ』と呼ぶ、日本人の血が混じっているという孤児の少女だった。
彼女は自分でまとめた花束と果物を丁寧に並べ、時折、誰かに小さな包みを渡しては、すぐに視線を伏せた。
リリーが近づくと、ローザは一瞬驚いたように顔を上げ、すぐに控えめな笑顔を浮かべた。
「お嬢さま……今日もご機嫌麗しく何よりです」
「ローザ。その白い聖母の百合、ママが好きなの。少しだけもらえる?」
ローザは頷き、一番きれいに咲いた花を選んで渡した。
その同じ茎についた細長いつぼみの隙間に、小さく折りたたまれた紙片が瞬時に滑り込むのを、リリーは感じ取った。
母から教わった合図だった。
彼女は自然に花を受け取り、紙を上着のポケットに滑らせた。
「ありがとう。また来るね」
ローザは静かに頭を下げ、すぐに別の客の対応に戻った。
二人の間に交わされた言葉は、ただの日常会話にしか聞こえなかった。
だが、その一瞬の触れ合いは『情報』の鎖の最も繊細な環の一つだった。
マリヤと娘のリリー・アンナは、度々おしゃれをしてジブラルタルに出かけていた。
家族が好きなイギリスのお茶やお菓子を買うため、という名目だ。
その実、買い物がてらのお散歩を装って、小型カメラで方々を映し、娘の靴下や襟の裏に隠し家に帰るのだった。
街角で立ち止まり、紅茶の缶を眺めているように見せかけて、停泊中の艦船の配置や対空砲の位置をレンズに収める。
帰路の国境検査では、娘の無邪気な笑顔が最も効果的な隠れ蓑となった。
検査官の視線が、一瞬娘の足元に向いたとき、マリヤの指がわずかに震えたが、すぐに笑顔を取り戻した。
そして現像したフィルムは、出入りの生ハム屋やチーズ屋に託し、彼らはハムやチーズに隠してエージェントに届けた。
あるとき、いつものハム屋の小僧が代っていた。
メイドが
「前の小僧はどうしたの?」
と尋ねると
「市場で酔っ払った外国人同士のけんかがあって、やつは運悪く流れ弾に当たって死んだ」
と答えが返ってきた。
小僧はばれて殺されたのだと、マリヤは静かに悟った。
彼女は表情を変えず、いつものようにハムを選び、支払いを済ませた。
だがその夜、彼女は次の連絡経路を、頭の中で組み立て始めていた。
その夜も、ヴィラ・カルメラの闇の中で、黒い影たちが再び海へと消えていった。
1704年以来イギリスが守り続けたジブラルタルの岩山は、今もなお、表と裏の二つの顔を持ちながら、海峡の風に晒され続けている。
スパイたちの足音は、波音に紛れてどこまでも静かに続いていた。
誰もが仮面を被り、誰もが誰かを監視し、誰もが誰かに監視されている。
上流子女たちの無邪気な笑い声の向こうにも、市場の片隅で花を売る孤児の静かな眼差しの向こうにも、同じように影が潜んでいた。




