空飛ぶ男と誘う男
1940年6月、北部モロッコのセウタ。
地中海の強烈な陽光は、容赦なく街の白壁を焦がす。
港の空気は、潮風では吹き飛ばしきれない船舶燃料の匂いが混じっていた。
遠く沖合では、連合国の船舶が、ジブラルタル海峡を息をひそめて通過しているのだろう。
ドイツの潜水艦や航空機がそのコンボイを狙い、イギリスの情報網がドイツに対抗するという、地上の岸壁からは見えない『戦い』は既に始まっていた。
北アフリカの空と海は、まだ大規模な地上戦には至っていないものの、はっきりと諜報と偵察の舞台になりつつあった。
パーティーで知り合ったイタリア女性アンジェリーナ・コロンバは、高級ホテルのテラスで涼しげに扇を使いながら、マリヤに言った。
「タンジェに行ってみない? 友人から内輪のランチに誘われているのよ。あなたの話をしたら、ぜひご一緒にって」
タンジェ——セウタからそう遠くない、タンジールとも呼ばれるモロッコ北部の古い港湾都市である。
19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツとフランスが支配権をめぐって争い、近年はフランス、スペイン、そして英米ソ他9か国による国際管理下にあるが、ヨーロッパの文化人たちが趣ある別荘やホテルに長期滞在し、社交が華やかに繰り広げられる街だ。
だがその華やかさの下で、フランコ将軍が侵攻占領の機会を窺っている、という噂が街を巡っていた。
実際、その数日のうちにスペイン軍はタンジェを占領し、国際管理を事実上終わらせることになる。
ドイツ国防軍の諜報機関アプヴェーアはスペイン軍の動きを好機と見て、船舶監視網を張り巡らせ始めたが、イタリアがそのドイツ軍の行動を、『鋼鉄協約』のもとに支えていた。
イギリスの秘密情報部SISもまたジブラルタルに拠点を構え、ドイツ側の動きを執拗に探る。
1940年6月10日に、対英仏宣戦布告したばかりのイタリアは、地中海の覇権を握るべく、軍情報部(SIM)の工作員たちをスペイン領モロッコの主要都市に多数潜り込ませ、ドイツのアプヴェーアと共同で海峡監視所を設置した。
セウタやテトゥアン、タンジェなど都市の高台から、連合国船舶の船名、積載量、進路を逐一記録し、ベルリンとローマの双方に無線報告を送っていたのだ。
洒落たイタリア軍の軍服を着た男たちが、ドイツ人将校と肩を並べて双眼鏡を覗き、イタリア語とドイツ語が入り混じる会話が飛び交う。
イタリア空軍と海軍は、ドイツのUボート作戦支援のため、偵察飛行や補給を約束し、北アフリカ全体を枢軸側の情報網でカバーしようとしていた。
ローマはベルリンと密接に連携し、既に英領ジブラルタルの首を絞めるべく、共同作戦を始動させていたのである。
マリヤにとって、女友達からの、タンジェ行きのドライブの申し出は魅力的だった。
スペイン軍人との結婚以来、内戦に夫ミゲルの出征、子育ての日々。
実際には社交界に出入りし、パーティー三昧の生活ではあったが、パリで世界各地からの芸術家たちと過ごした日々に比べれば、地味に感じられるのも仕方がない。
少しでも刺激のある外の空気に触れたい——その欲求が、彼女を動かした。
アンジェリーナの滞在する高級ホテルから、運転手付きの黒い高級車が出発した。
海沿いの幹線道路を走ると、地中海の絶景が広がる。
対岸にはイベリア半島の陸地が霞んで見えた。
あの乾いた土地の奥には、結婚式を挙げた、夫の一族の本拠地セヴィリヤがある。
マリヤは窓に額を寄せ、しばらくその方向を見つめた。
そして、空を見上げた。
薄い雲の切れ間を、銀の機体がゆっくりと横切っていく。
フランス空軍の偵察機だろうか。
祖国が二分され、占領と支配の元に在る今も、彼らは飛び続けている。
マリヤには知る術もないが、その中に世界的な作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリがいた。
かつてモロッコの砂漠で郵便機を操り、西部タルファヤの砂丘の上を飛び、サハラの星空を独りで見つめていた男である。
『人間の大地』を書いた飛行士は、1940年の春以来ブロック174の狭い操縦席で、偵察業務に従事していた。
護衛の戦闘機が次々と墜ちる中、彼は高射砲の弾幕をかいくぐり、ドイツ軍の戦車縦隊を低空から撮影する。
燃料タンクに被弾したのか機体が震え、冷たい風がコクピットに吹き込む。
それでも彼は帰還する。
サン=テグジュペリは知っていた。
空からの視線こそが、地上の誰よりも正確に戦争の正体を暴くことを。
1万メートルの高みから見下ろす大地は、人間の愚かさと、ごくまれなちょっぴりの美しさを同時に映し出す。
敗走するフランス軍にとって、彼の持ち帰る写真は、数は多くないが貴重な情報源だった。
1940年、北アフリカの空にはそんな飛行士たちの影がいくつも落ちている。
命を賭けて『見つめる』男たちが翼を広げているのだ。
さて、1時間半後、マリヤとアンジェリーナの二人のご婦人は、タンジェ港近くメディナ地区にたたずむ白亜のホテル・コンチネンタルに到着した。
話は通じていたらしく、ホテルマンは彼女たちを木陰のテラスへと案内した。
そこには、北ヨーロッパ系の、きちんとスーツを着こなした紳士が二人、待っていた。
ドイツ訛りのフランス語で丁寧に挨拶してくる。
離れた席では、黒いシャツのイタリア人らしき男が、ドイツ語を交えながら低い調子で話しているようだ。
二国間の影が、この街にも濃く落ちていた。
イタリア領事館の職員を装った情報部SIMのエージェントが、ドイツのアプヴェーア所属の将校と定期的に会合を開き、船舶情報を共有し、スペイン当局への工作を分担しているという噂も、社交界の片隅でささやかれている昨今だ。
物おじせず男たちの挨拶に応じるマリヤに、アンジェリーナが微笑む。
「そんなに警戒することはないわ。この方たちは私の親しいお友達よ。とても真面目でいい人たち。あなたにお話があるんですって」
ヨーロッパ大陸の話題に飢えていたマリヤは興味を示し、ボーイの案内で4人は個室に移動した。
よく冷えたシャンパンのグラスが、四人の囲むテーブルにサーブされた。
軽い前菜の、チーズと地中海の海の幸のマリネも一緒だ。
モロッコ特産のミントの葉が、ライムとオリーブ油で和えた魚介の上にふんわりと盛られている。
「それで、どんなお話ですの?」
紳士の一人が、静かに口を開いた。
「パリに長く住んだあなたの国際的な感覚を見込んで、仕事を頼みたい。あなたの気になった情報を集めるのを手伝ってもらいたいのですよ」
マリヤは冷静に問い返した。
「何の情報を?」
当時のタンジェは国際管理都市でありながら、スペイン軍の動向がささやかれていたから、彼女は当然、それかと思った。
だが相手は、少し間を置いてから答えた。
「あなたは我々の提案に興味を示すはずですよ。美しいロシアの貴婦人」
もう一人が続けた。
「私たちはドイツの人間です。
近い将来、ドイツはロシアとぶつかることになると見ている。
私たちのために働いてくれたら、あなたの故郷での名誉回復に力を貸しましょう。
幼いころに故郷を追われた貴女の、残してきた財産を取り戻すお手伝いをします。
革命の最中にテロリストどものせいで命を落としたという、ご両親のお墓も見つけましょう。
あなたと一族が以前の暮らしに戻ることができるよう、尽力します」
「ロシアはあなたの祖国ですよね。故郷を追われた辛さは、お察しいたします」
彼らの言葉はマリヤの心を激しく抉った。
生まれ故郷ロシア——。
冬の森を埋める雪景色の静けさ、暖炉の炎に照らされた両親の優しい顔。
革命の銃声が全てを焼き払う前の失われた世界が、痛みを伴って蘇る。
ボリシェヴィキのテロリストどもに殺された街の人々、行方不明のままの両親、血の匂い、幼い自分が妹や祖母たちと夜の闇を逃げた恐怖。
故郷への郷愁はもはや甘い回想などではなく、胸を裂くような渇望だった。
戻りたい。取り戻したい。
たとえ永遠に叶うことのない願いだとしても、その想いだけは消えない。
そして、革命から逃れた自分を受け入れてくれたドイツ。
見知らぬ土地でようやく得た安息と庇護。
ドイツは、祖国を失った自分に手を差し伸べてくれた国だった。
その恩を、彼女は心中深く覚えていた。
だからこそ、今目の前のドイツ人たちが提示する『故郷への道』は甘く危うく、抵抗し難い毒のように彼女を誘う。
だがその甘さの裏側で、抑えきれない黒いものが、石炭のようにくすぶっていた。
自分が心から愛した街、パリ。
セーヌの川面の光、カフェの喧騒、芸術家たちの熱い議論、自由に息ができた空気——その全てをナチの軍靴が踏みつけた。
ドイツ軍の隊列が凱旋門をくぐり愛した街を占領した、という報せを聞いた夜、マリヤの胸に吐き気のような衝動が甦った。
ポリシェヴィキ革命で故郷オデッサを奪われ、今度はナチ・ドイツにパリを奪われた。
同じ国の名のもとに、恩人としてのドイツと、略奪者としてのナチ国家が激しく衝突し、分裂する。
相容れない感情が、胸の中でせめぎ合っていた。
また、その葛藤の中には妹シュタージの姿があった。
パリの雑誌編集部で、質実剛健を絵にかいたような服を着て、くせ毛のおかっぱ頭で、眼鏡の奥の真剣なまなざしで原稿を直している妹。
読書を何より好み、華やかな社交など縁遠く、ただ静かに本の世界に沈思黙考する思慮深い娘。
マリヤがパリを離れた後もシュタージは残り、編集の仕事を続けているはずだった。
今、ナチスに占領されたパリで、あの子はどうしているのだろうか。
ドイツの検閲に怯えながら原稿に向かっているのか、それとも、いつ思索と発表の自由を奪われるかと息を潜めているのか。
自分は遠い北アフリカで、ドイツ人たちの言葉に耳を傾けているというのに。
結果的に妹を占領地域に置き去りにした罪悪感が、郷愁と怒りと感謝の渦に、さらに鋭い棘を加える。
テラスの木陰から、地中海の風が吹き抜けた。
遠くで港の汽笛が響く。
海峡を監視するドイツの目とイタリアの工作員たち、そしてそれを潰そうとするイギリスの諜報員たちは、すでにこの街に潜んでいる。
空ではサン=テグジュペリのような飛行士がカメラのシャッターを切り、地上ではマリヤのような女が良家のご婦人の仮面を被る。
航空偵察がもたらす俯瞰の情報と、人間の口から漏れ出るささやかな秘密。
ドイツとイタリアの枢軸が張り巡らせる諜報網と、連合国の対抗工作が交錯する北アフリカの古都・タンジェの片隅で、その糸が絡み合っていた。
マリヤは二人の男——ドイツ軍の諜報員で間違いなかろう——の顔を交互に見つめ、ゆっくりと、しかし深く頷いた。
隣でアンジェリーナが、いつものように優雅に微笑んでいた。
その笑顔の奥に何があるのか、マリヤはまだ知らなかった。
この時から、マリヤはドイツの諜報員になった。
いつの時代にもどんな地域にも、諜報活動をする人々はいた。
男も女も、彼らはある特定の場所、ある特定の時期に、たまたま居合わせたというめぐり合わせでその役割を担う。
国同士の争いの狭間に身一つで放り出され、見つめ、そして行動した結果だ。
空を飛ぶサン=テグジュペリが、一万メートルの高みから祖国の命運を見据え翼を広げていたように、地上のマリヤもまた、この国際都市の片隅で、自らを時代の歯車のひとつとしたのだった。
イタリアがドイツに、そしてドイツがスペインに差し伸べる、組織的で執拗な手もまた、その歯車を静かに、しかし確実に回し始めている。
マリヤ・オルロフスカは、自分自身を後戻りできない道へと押し出していた。




