モロッコの熱く冷たい風
1939年の春、スペイン内乱はようやく終息を迎えた。
硝煙の匂いがまだ街に残るなか、マリヤの夫ミゲル・マルケス・ゴンザレースはモロッコのスペイン軍基地司令官に任命された。
フランコ将軍の義弟ラモンの古い友人かつ信頼できる男として、蜂起軍の本拠地であった北モロッコのメリリャを任されたのである。
妻マリヤと幼い娘リリー・アンナは夫に従い北アフリカの土を踏んだ。
メリリャはベルベル人の建てた古都の面影を残す、白い壁と青いタイルの街だった。
スペイン内戦前、王国時代の1920年代に起こったスペイン・モロッコ戦争での激戦地とは思えない。
少なくともスペイン人が住む地区は治安も日々の生活も良好だ。
海風が常に砂を運んで吹き付け、午後になると空気はあまたある香辛料、サフラン、カイエン、パプリカ、シナモン等と乾燥した土の匂いが混じり合う、独特のエキゾチックな重みを帯びる。
この地で、高級将校家族として、マリヤたち一家は特権的な生活を送った。
広々とした豪奢な邸宅の中庭でリリー・アンナを遊ばせ、夕方には軍関係者や隣国仏領モロッコのフランス人富豪、他欧州の貴族たちの集うサロンに顔を出す。
マリヤ・オルロフスカは既に三十歳を迎えようとしていた。
パリで写真スタジオを営んでいた頃の、華やかでふり切れそうに目まぐるしくスリリングな、芸術家たちと生き急いだ娘時代とは違う。
しかし元ロシア貴族という出自と、ベルリンやパリで磨かれた洗練された立ち居振る舞いが、ここモロッコでも静かな光を放っていた。
人々は彼女を『優雅な北の貴婦人』と称し、惹きつけられた。
翌年、ミゲルの転任により一家はセウタという都市へ移った。
メリリャと同じくスペイン領モロッコ(プラサス・デ・ソベラニア)の要衝である。
海峡を隔ててイギリス領ジブラルタルの絶壁そそり立つ山を望むことのできる、戦略的にも重要な港町である。
セウタの社交界はメリリャよりさらに活気に満ちていた。
富裕層のマダムたちが集うパーティーが昼も夜も頻繁に開かれ、マリヤは自然とその中心にいた。
華やかで品のある彼女は、よく目立った。
ドレスの裾をわずかに翻し、白い足首をちらりと見せて静かに微笑むだけで、ホールの空気が変わるのを感じる。
ついでに言えば、旧友シャネルのシンプルなイブニングドレスより、一世代前のともすれば古めかしく受け取られる、頑固親父デザイナーポール・ポワレの、民族的な意匠やデコラティブなレース使いのデザインのドレスの方が、マリヤの好みだった。
その頃、ヨーロッパを取り巻く空気は急速に暗転していた。
5月、ドイツ軍はベルギーとオランダを席巻し、フランス軍が誇る鉄壁と言われたマジノ線を越え、アルデンヌの森を突破しフランス本土へ雪崩れ込んだ。
文字通りの『電撃戦』である。
6月にはパリが陥落した。
フランスは壊滅を避けるため、速やかに降伏した。
スペインはドイツに協力的でありながら公式には「中立」を保ち、最南端のイギリス領ジブラルタルの自治も認めたままだった。
だが、表向きの中立とは裏腹に、スペイン領モロッコの港町にはドイツ軍人の姿が日増しに濃くなっていた。
ベルリンとの密接な関係を背景に、ドイツ軍は軍事顧問団や連絡要員の名目で、将校や技術士官を送り込み、スペイン軍の兵営近くに駐留させていたのである。
セウタの石畳を、灰色の制服に鉄兜のドイツ兵が規則正しい足並みで歩き、港の埠頭ではドイツの軍事機材や車両が荷揚げされていた。
兵営のゲート前ではスペイン兵と同様にドイツ兵も歩哨に立ち、夜になると将校クラブの窓からドイツ語の笑い声とドイツの音楽が漏れてきた。
彼らは北アフリカの地を、ジブラルタルを睨む戦略拠点として重要な足がかりと見なし、街の空気に鋭い緊張を染み込ませていた。
体面上は中立国スペインの海外県、モロッコ北部の古い港町は、高まる緊張感に比例して奇妙な活気を帯び始めていた。
ドイツ占領下のパリや、ベルリンで名を馳せた歌手やダンサーたちが、ここを『稼ぎ場』とするようになったのだ。
パリでマリヤの写真スタジオの顧客だった『褐色のヴィナス』、ジョセフィンもその一人だった。
カジノ併設の豪華ホテル、また高級ナイトクラブのステージの中央に立つと、彼女はまずゆっくりと長い指で黒い髪を耳にかけ、豊かな胸いっぱいに息を吸い、シルクのような低音で歌い始める。
深紅のドレスがスポットライトを受けて輝き、むき出しの脚がリズムに合わせて鋭く、しなやかに躍動する。
腰を柔らかく波打たせ、腕を差し伸べて客席を睨むように見つめ、コケティッシュに微笑むたび、軍服に身を固めた両軍の将校たちから、一斉に熱い視線と拍手が湧き上がった。
歌が終わると、彼女は軽く会釈し、舞台袖へ滑らかに消える——何もかも計算され尽くした動きだった。
しかし彼女は、パリにいた頃から既に、舞台の華やかさとはまったく別の、危険な役割を担っていた。
1939年以降フランス軍の対独諜報部の士官からスカウトを受け、彼の下で諜報員として活動を始めていたのだ。
大使館や上流社交のパーティーに華やかに現れ、枢軸国の外交官や将校と談笑しながら部隊の配置や飛行場に関する情報を聞き出す。
聞いた内容を手のひらや腕の内側に走り書きし、袖で隠す。
楽譜の裏に不可視インクで詳細を記し、重要な写真は下着やドレスの布地に縫い込んで、次の公演へと国境を越えた。
検問で書類を求められても、相手は大抵「サインを」と群がってきた。
『誰がジョセフィン・ベイカーを、肌の裏側まで身体検査しようなどと思うだろうか』——彼女は有名人という特権を完璧なガードに使っていた。
パリ陥落後も、自身の所有する南仏の城館で難民やレジスタンスの同志を匿い、海外への逃亡を手助けし、危険を冒して得た情報をド・ゴールの『自由フランス』側へ届け続けた。
その二重生活のせいか、彼女は眼差しの奥に、常に緊張の影を落としているように見えた。
だがこの時代、軍の駐留地に生きる女たちは、多かれ少なかれ張り詰めた心のうちに生きることは必定だったのだ。
ある夜の催しで、マリヤは彼女と顔を合わせた。
戦闘で手足や背骨の自由を失った傷病兵のためのチャリティーコンサートだった。
全身でダイナミックに歌い踊った後、ジョセフィンはステージを降りた衣装のまま、額に薄く汗をにじませながらマリヤたちのテーブルに近づいてきた。
如才なく挨拶をし、唇の端だけをわずかに上げて微笑む。
しかしその笑みはよそよそしく、軍人家族の一角に座るマリヤと距離を置いているように見えた。
視線は一瞬だけマリヤの顔を捉えたあと、すぐに逸れて周囲のドイツ将校たちに送られた。
パリのスタジオでレンズ越しに見つめ合った日々は、すでに遠い過去になっていた。
「スペインでご結婚なさったと聞いたけど、ここで再開するなんて不思議なものね」
ジョセフィンが出会った頃よりさらに流暢な、英語訛りの全くないフランス語で話しかけてきた。
「ええ。夫の移動について、家族で引っ越したのよ」
「お子さんは、お嬢さんだったかしら」
「そうよ。でもなぜ知っているの?」
不思議がるマリヤに、現地の偉い人たちの様子は、新聞の社交面に載っているのよ、とジョセフィンは微笑んだ。
「旦那様とは南仏のバカンスで知り合ったんだっけ?」
「そうよ。突然の出会いからのプロポーズだったわ」
「バカンスの恋って素敵よね。羨ましいわ」
そういえば、愛するパリから離れて私も南仏の別荘に住んでいるのよ、とジョセフィンは囁いた。
愛するパリ、彼女に自由と尊厳を与えてくれたパリ。
その地を出ざるを得なかったということが、どんなに重く痛みを伴うものか。
「人生は行く先々でどう転ぶかわからないのが面白いところよ。私もこれから、スペイン、ポルトガルと巡業にまわるのよ」
ジョセフィンは明るく笑って、マリヤの両頬に別れのキスをした。
「あなたは幸せ? 純真なロシアの奥様」
皮肉めいたつぶやきを耳元に残し、ジョセフィンは優雅に去っていった。
ドイツ軍の駐留がもたらした異様な賑わいの中で、二人の間には見えない壁が生じていた。
マリヤは知らないが、ジョセフィンにはドイツとドイツ人に対する不穏な記憶があった。
まだパリで確固たる地位を築く前、アメリカからやってきた10代のアーティスト・ジョセフィンは、トランク一つを下げ、黒人ミュージシャン仲間とヨーロッパ諸国を公演して回った。
彼女たちに対する差別と迫害は厳しく、特にドイツでは苛烈だった。
ショーの最中下卑な罵声を浴びせられたり、汚物を投げつけられたりもした。
ホテルに留めてもらえなかったのも一度や二度ではない。
それだからこそ、黒人だと揶揄されたことが全くないとは言わないが、自分を認めてくれたフランスのために働こうと、腹をくくっていたのである。
連日のように続くパーティーの席で、マリヤはイタリア出身の女性と知り合った。
アンジェリーナと名乗ったその女はシチリアの富豪の娘とだけ言い、自らの身元を詳しく語ろうとはしなかったが、金髪に青い瞳が鋭く、話し方にフランス貴族のような柔らかなアクセントがあった。
彼女はマリヤの横顔をしばらく見つめたあと、静かに言った。
「あなたはまるで、お国の名バレリーナ、アンナ・パヴロワのようだわ。優雅で、そしてどこか寂しい美しさがある」
その言葉が届いた瞬間、暑く香料と砂の煙るモロッコの空気が、不意に変わった。
目の前に故郷オデッサの森と湖が広がり、地平線まで波打つウクライナの小麦畑が浮かび上がった。
風が麦穂を揺らす音、遠い教会の鐘、冬の朝の霜の匂い——忘れかけていた郷愁が、堰を切ったように心にあふれてきた。
「私はあなたともっとお友達になりたいわ。あなたのお話が聞きたいの。マダムマリヤ・オルロフスカ」
マリヤはグラスを握る手に力を込め、静かに目を伏せた。
暑く乾いたモロッコの夜、ドイツ軍の規則正しい靴音が石畳に響くこの街で、彼女の胸の奥だけに遠い北国の冷たい風が吹きすさんでいた。




