ハポネスがいた地
1937年1月、大西洋を越えてスペインに上陸した男がいた。
アメリカで結成された国際旅団に籍を置く小柄な日本人。
皆は彼を「ジャック」と呼んだ。姓が白井というより他は分かっていない。
1900年頃北海道函館生まれと自称していた。
すぐに両親に捨てられ、函館近郊の修道院付属の孤児院で育ったという。
12歳で孤児院を脱走し、人足や港の沖仲仕を経て外国船の下働きとして船に乗った彼は、主にヨーロッパ航路に従事し、やがて貨物船のコックとなった。
大恐慌の1929年ニューヨーク港で船から抜け出し、密かにアメリカの土を踏む。
日本人経営のレストランでコックとして働きながら現地の労働運動に身を投じ、アメリカ共産党に連なる『日本人労働者クラブ』に入党した。
外国船で鍛えられた小さな身体には、困難を笑い飛ばす柔軟さと、資本家層による経済独占を憎む意志が宿っていた。
ニューヨークには他に官僚や経済人などエリート層が参加する『日本人会』、国粋者義者や軍部の大陸進出を支持する者たちによる『報国団』という二つの団体があったが、団体間の抗争では腕っぷしの強いジャックが積極的に立ち回った。
平時には穏やかで、経済的に困窮もしておらず、アメリカ人の恋人がいたという説がある。
1936年12月、約100人のアメリカ人義勇兵とともに、船でニューヨークを発ったジャックは、1937年1月初めスペインに到着した。
第15国際旅団エイブラハム・リンカーン大隊に配属された彼は、前職での経験を買われ炊事兵となった。
しかし
「ファシストを殺すために来たのであって、料理をするために来たのではない」
と不平を漏らし、平時は炊事、戦闘時は武器を手に前線に立つことを許された。
戦争後アメリカに帰国したらニューヨークで自分のレストランを開く、という夢を仲間たちと語った。
スペインの人々は彼を「ハポネス・ジャック」と囁いた。
約400年前、セビリヤの地を訪れローマに渡り教皇パウロ5世に謁見したサムライの使節団、その子孫は今もハポンの名のもとに続いている、と言い伝えられているのだ。
ジャスミンの白い花が揺れ、オレンジの木々が実をつけ始めた季節、ジャックは戦闘の隙間をぬって、現地の女性と逢瀬を重ねていた。
陽に焼け薄い褐色の肌と長い黒髪を持つ彼女は、異国から来た義勇兵ジャックの静かな瞳に心を奪われ、ジャックもまた胸に湧き上がる不安や郷愁を彼女の中に溶かした。
やがて娘の腹がふくらみ始めた頃、二人の姿は忽然と消えた。
ジャック自身は1937年7月11日、マドリード近郊のブルネテの戦いで倒れた。
弾雨の中で立ち往生した車両を動かそうと陣地を飛び出した直後、頭部を銃弾に貫かれ即死したという。
同志たちは夜のうちにオリーブの木の下に彼を埋葬し、木片に簡単な墓標を記した。
一方同じ地中海の空の下には、別の人生が流れていた。
マリヤの夫ミゲルは、前線に赴くことはなかった。
北アフリカ、モロッコの先端に位置するスペインの飛地メリリャ。
地中海に面したその街で、フランコ将軍がクーデター軍の本部を構えたとき、ミゲルは知り合いの縁で本部付の将校となった。
白い家並みと青い海、エキゾチックな美しさをたたえるメリリャの港町。
将校の妻となったマリヤは大勢のメイドに囲まれ、何不自由のない日々を送った。
娘はまだ幼く、地中海の陽光の下、緑あふれる中庭で屈託のない笑い声をあげ、メイドや高級官僚の子供たちと遊んでいた。
だが海を挟んだスペイン本国の内戦は地獄の様相を呈していた。
ソビエト政府とコミンテルンの息のかかった勢力が、義勇兵の属する『国際旅団』内部で分裂させ同士討ちが相次ぎ、拠点が一つまた一つと落ちていった。
1936年9月、モスクワから派遣されたNKVDのアレクサンドル・オルロフ(本名レフ・ラザレヴィッチ・ニコルスキー)が、共和国政府の内務省に潜り込み、防諜と治安の実権を握った。
彼の任務は表向きフランコ軍への対抗だったが、真の狙いはトロツキストやアナキスト、POUM『マルクス主義統一労働者党』(カタルーニャ語でPartit Obrer d'Unificació Marxista)など『スターリンに従わぬ勢力』の根絶だった。
バルセロナやマドリード、バレンシアには秘密監獄が次々と設けられ、『味方』による拷問と強制自白、即決裁判、処刑が日常となった。
1937年5月の『バルセロナ五月事件』では、共産党系勢力とCNT『全国労働組合』(Confederación Nacional del Trabajo)・POUMが市街戦を繰り広げ数百人に及ぶ死傷者を出し、オルロフ指揮下の工作が本格化した。
偽造文書でPOUMを「ファシストのスパイ(第五列)」に仕立て、6月16日には指導者アンドレウ・ニンを逮捕する。
ニン自身はレフ・トロツキーの革命の永続性に強く賛同し、影響を受けていたのでスターリン派にとっては『潰すべき対象』となる。
マドリッド近郊アルカラ・デ・エナーレスの隠れ家で想像を絶する激しい拷問を加えたが、ニンは自白を拒んだ末に惨殺された。
同時に彼の仲間多数も、バラバラ死体となって発見されている。
ニンの遺体の行方はいまだ分かっていない。
公式には『ゲシュタポによる救出』と発表されたが、義勇兵として参戦したイギリスの作家ジョージ・オーウェルによると『秘密監獄内で銃殺、遺体は路上に遺棄された』という。
数百人の支持者が消され、国際旅団内部でも『不穏分子』の摘発が続いた。
国際旅団は解散を命じられ、変名で参加していた赤軍やNKVDの士官たちもモスクワの指示でソヴィエトに帰国する。
帰国した軍人や諜報員たちを待ち受けていたのは、1938年に始まった『大粛清』である。
首席軍事顧問として共和国軍のテロルを指導したラトビア出身の労農赤軍情報局長ヤン・ベルジンは、1937年7月の帰国後11月に逮捕され、翌1938年7月に銃殺された。
バルセロナのソ連総領事で共和国軍軍事顧問、軍需物資の輸送に大きな権限を持っていたウラジーミル・アントーノフ・オフセーエンコも、同様に「人民の敵」として粛清の波に飲み込まれた。
マドリード航空防衛軍司令官で航空顧問のヤーコフ・ウラジミロヴィッチ・スムシケーヴィチをはじめ、多くの高位将校や外交官が、スペインで得た経験を活かすことなく『トロツキー主義による汚染』『祖国を裏切る軍事的陰謀に加担』と嫌疑をかけられ、処刑や収容所送りとなった。
アレクサンドル・オルロフ自身も間近に迫った粛清を恐れ、1938年家族と共にパリからアメリカへと亡命した。
猜疑心に満ちたスターリンの『影』は、遠いイベリア半島の戦場で戦った『共産主義者』たちをも容赦なく飲み込んでいく。
しかし、すべてが消えたわけではない。
生き残った者たちの中には、後の『大祖国戦争』で名を挙げた人物もいた。
スペインで『マリーノ大佐』の変名を使い、軍事顧問として戦ったロジオーン・マリノフスキーは後にソ連邦元帥となり、スターリングラード攻防や東欧解放という戦果を挙げ、ジューコフの後を継ぐ国防大臣にまで上り詰めた。
これまた後に元帥となる将軍キリル・メレツコフも、スペインでは『ペトロヴィチ』の名で共和国軍と共に戦い、第二次大戦中はフィンランド戦線、対日参戦といった複数の作戦を指揮した。
パーヴェル・バトフは国際旅団の顧問として傷を負いながらも生き抜き、二度のソ連邦英雄称号を受け軍司令官として活躍した。
独ソ戦を指揮しソ連邦英雄となったアレクサンドル・ロディムツェフもまた、スペインでの義勇兵経験を糧にスターリングラードで師団を率いた。
1939年3月31日、ファランヘ軍がスペイン全土を制圧した。
翌4月1日、指導者フランシスコ・フランコはラジオを通じて内戦の終結と自軍の勝利を宣言した。
銃声は止み、廃墟となった街に沈黙が降りた。
あとは共和国側に着いた国民への凄惨極まりない摘発と拷問、集団虐殺が続くのみであったが、モロッコの静かな海辺の都市で暮らすマリヤとリリー・アンナたち恵まれた母子は、そのことはついぞ知らない。
その頃アンダルシアの下町では、ハポンのミドルネームを持つ女の子が、母親の手に引かれて歩いていた。
オレンジの香りが漂う路地で、少女は時折、空を見上げた。
遠いどこかに自分の知らない『父』がいるのだろう、と。
母親は娘を連れて、日本人の祖先をもつハポン姓の一族として、見知らぬ土地に逃れてきたのだ。
共和国軍側の兵士を父に持つ、などと探り当てられたら、待つのは逮捕拘束と、拷問処刑だけだ。
彼らは数百年前にこの国を訪れた『日本人キリスト教徒たち』の末裔と名乗ることで、自分たちを護った。
アジア系の風貌は、時おり先祖の血が濃く出る一族の特徴なのだ、と言い逃れをして。
乾いた夜風の中で聞いた睦言の中で、ジャックもまたカトリックの修道院内で育ったと聞いた。
僭称ではあるが、彼も許してくれるだろう。
スペインのために渡来して戦った日本人の血は、静かにスペインの土に根を下ろした。
戦火が鎮まり次の炎が燃え上がる間、歴史のはざまに小さな命は続いていたのである。




