Mediterraneumのこどもたち
1929年秋、世界を再び暗い影が覆い始めたことは、もう誰の目にも明らかだった。
ファシズムの嵐がヨーロッパの空を渡り、大西洋の向こうではウォール街の株価が深淵の底へと崩れ落ちた。
『大恐慌』の波が瞬く間に世界を飲み込み、パリの通りを彩っていた華やかな季節も、音もなく終わりを告げた。
アメリカから、そして世界各地から流れ着いた「恐るべき子供たち」――自由を求めてフランスの土壌に根を張ろうとした異邦人たちは、失望の色を濃くして次々と故国へと帰っていった。
だが、すべての者が去ったわけではない。
フランスが与えてくれた自由と尊厳を胸に、この地に留まり続ける者もいた。
黒いミューズと称され、夜のパリを熱狂の渦に巻き込む歌手ジョセフィン・ベイカーもその一人であった。
写真家マリヤの顧客でもある優れたパフォーマーの彼女の輝きは、黄昏つつある時代の中にあってなお、パリの街灯のようだった。
1931年。
避暑地カンヌでスペインの将校ミゲルと出会ったマリヤにとって、地中海の香草とレモン香る夜風の中で交わされた言葉は、彼女の人生を大きく変えた。
ミゲルの故郷セビリヤへ渡ったマリヤは、壮麗な大聖堂の祭壇の前で婚姻の秘跡を受けた。
ロシア正教からカトリックへの改宗も、新たな人生の始まりを象徴するものであった。
1932年、可愛らしい女の子が生まれた。
聖母の百合になぞらえ「リリー・アンナ」と名付けられたその娘は、父母の愛に包まれすくすくと成長していった。
何の不自由もない平穏な暮らしが、彼女たちの間を流れた。
だが、スペインの赤土の大地は揺れ始めていた。
1930年代、王制から移行した左派共和国政府と右翼陣営の対立は深まるばかりで、政策は滞り国民は疲弊していった。
左翼諸派から成る政権も一枚岩ではなく、内部の亀裂が国の基盤を蝕んでいた。
1936年7月、その危うい関係がついに決壊する。
モロッコ内に在るスペイン海外都市メリリャにて、呼応する将軍たちの反乱と歩調を合わせ、フランシスコ・フランコが軍事クーデターを起こした。
当時スペイン最年少の将軍として出世街道を驀進していた男が挙兵したのだ。
スペインの空に戦火の煙が立ち昇った。
特に中央部マドリッド周辺と北部では、国内外のリベラル勢力を中心に『人民戦線軍』が結成され、『共和国』を守るべく戦いの場へと赴いた。
ソビエトコミンテルンと呼応した各国の労働者や文化人が檄を飛ばし、『自由と平等主義の理想を胸に、異国の若者たちが『国際旅団』としてスペインの土を踏んだのである。
同年8月1日から16日まで、ドイツのベルリンではオリンピックが開催されていた。だが不安定なヨーロッパにあり、ナチ独裁政権のプロパガンダ色が濃すぎる大会運営は警戒され、必ずしも世界からの歓迎一色で迎えられたわけではない。
同じ頃スペインのバルセロナでは『人民オリンピック』が計画されていたが、内戦の激化によって幻と消えた。
1937年4月26日。
バスク地方の小都市ゲルニカは、いつものように市場のたつ日を迎えていた。
近隣の農村から家畜や作物を携えて集まった農民たちと、反乱軍の攻勢を受けたビルバオ方面から逃れてきた難民やその家畜たちも加わり、街には平時の人口のおよそ倍の一万人前後の人々がひしめいていた。
通りには牛馬や鶏豚の鳴き声が響き、広場には露店で売り買いする商人の声が交錯する。
午後四時二十分頃、街の鐘が急を告げた。
最初に姿を現したのは、ドイツ空軍コンドル軍団のハインケルHe 51戦闘機であった。
低空を旋回した後50キロ爆弾を投下し、直ちに飛び去る。
人々は防空壕や地下室へと逃げ込んだ。
しかし、これは序章に過ぎなかった。
しばらく後、本格的な攻撃が始まった。
ブルゴスやビトリア=ガステイスの基地から飛び立った爆撃機群――ユンカース爆撃機を主力に、ハインケル、ドルニエ、そしてイタリア空軍のサボイア・マルケッティ機などが、次々と波状攻撃を仕掛ける。
総勢数十機の編隊が、三時間以上にわたってゲルニカの上空を支配した。
攻撃は3段階で進められたと言われている。
まず、高威力の250キロ爆弾と50キロ爆弾を落とし、建物の屋根を貫通、内部で炸裂させる。
北部の豊富な木材で作られた街の家屋は次々と倒壊し、瓦礫の山と化した。
続いて戦闘機が低空から機銃掃射を浴びせ、防空壕から逃げ出した市民や家畜を狙い撃つ。
逃げ場を失った人々は再び街の中心部へと押し戻された。
そして彼らの頭上に焼夷弾が滝雨のように投下された。
弾は瓦礫の隙間に食い込み、爆発すると炎を一気に広げる。
火が町の中心部を飲み込み、数日にわたって燃え続ける大火災を生み出した。
投下された爆弾と焼夷弾の総量はおよそ50トン近くと推定されている。
この絨毯爆撃の戦術は、北部アストゥリアス州の州都オビエドにて、実戦で試されたばかりの新手法であった。
空爆の主たる目標は、公式には街外れの橋や兵站を遮断することとされたが、実際に破壊されたのはもっぱら住宅街と広場であった。
コンドル軍団参謀フォン・リヒトホーフェンの日記には、この攻撃が『完全な技術的成功』と記されている。
午後7時40分頃、最後の爆撃編隊が飛び去ったとき、ゲルニカの中心部は炎と煙に包まれていた。
建物の7割から8割以上が全壊または甚大な被害を受け、通りにはナパームの高温の火で黒焦げになった遺体と、瓦礫の下、生き埋めになった人々のうめき声が溢れた。
バスク自治政府は死者1654人、負傷者889人と発表した。
近年の研究では死者数を200人から300人程度とする見方が有力だが、数日後に国民戦線軍(共和国側)が進駐し瓦礫の下を充分に捜索できなかったこともあって、正確な数字は今なお判明していない。
空襲を目撃したイギリス『タイムズ』『ロイター』、フランス『ス・ソワール』等の外国特派員たちは、黒い煙が空を覆い逃げ惑う市民が機銃に倒れる光景を報じた。
特に最初に世界に打電したロイター通信の一報と、南アフリカ出身のイギリス人ジャーナリスト、ジョージ・スティアのロンドン・タイムズ紙の記事は世界に広がり、『ゲルニカ』の名は、無差別都市爆撃の象徴として国際社会の記憶に刻まれた。
南部アンダルシア地方都市マラガに生まれた画家パブロ・ルイス・ピカソが、パリで描き始めた巨大な壁画は、この惨劇を永遠に告発するものとなった。
そのころ、マリヤとミゲルたち一家は北アフリカのもう一つのスペインの海外都市メリリャにいた。
フランコ派閥の将校であるミゲルは、当地での挙兵後イベリヤ半島に攻勢に出たフランコの留守を預かり、少なくない兵力と共にメリリャに留まっていた。
どこまでも青い空の下、波の音に紛れて幼い娘リリー・アンナの笑い声が響く一方、海と大陸を挟んだ遠い北部のバスクの空は、すでに新しい戦争の形態が、世界に残酷な姿を示していたのである。




