カンヌでの出会い
パリに住み着いて以来、毎年夏になると、マリヤ・オルロフスカはカンヌにやって来た。
ロシア革命の嵐を逃れヨーロッパの各地を転々とした彼女にとって、南仏の避暑地は数少ない安息の地だった。
パーク・パラス・ホテルの白い壁は、太陽の光を柔らかく反射し、青い海と空が故郷オデッサの記憶を呼び起こす。
そこでは、彼女はただの亡命ロシア貴族の娘ではなく、輝く美貌と洗練された物腰の女性写真家で、避暑客の間でたちまち人気者となった。
南仏の食べ物もまたマリヤの口にあった。
パリでよく出るクリームやチーズ、バターのこってりした素材が分からなくなるほどの濃厚な味付けは影を潜め、ホテルの夕食では名物ブイヤベースをはじめとした新鮮な魚料理が食卓を彩り、デザートにはアーモンドと特産の蜂蜜を使った焼き菓子やフルーツのジェリーが供された。
この地はまた香料となるジャスミンや薔薇、ラベンダーの名産地で、石鹸や香水には、近郊の畑や庭に咲き乱れる花々の香りが閉じ込められていた。
マリヤはそれらに包まれながら、しばし現実を忘れた。
ヨーロッパ全体がファシストと共産主義の激突で騒然としていた時代——スペインでは内乱の予感が、ドイツではヒトラーの影が濃くなり、パリでも極右勢力と社会党・共産党勢力の衝突で流血事件が起こり、緊張が高まっていた——それでも南仏の太陽と海は、変わらぬ輝きを保っていた。
ホテルでは支配人の息子の幼いジェラール、通称ジェジェがマリヤたち暇な避暑客の目を引いた。
チェコ系の母方の血を引いたのだろう、柔らかな茶色の髪と、深い青い瞳を持つ天使のような美少年だった。
はにかみ屋で、挨拶をするとすぐに母親のスカートの後ろに隠れてしまう。
後にフランスを代表する美男スターとなる彼は、まだこの頃はただのホテル支配人の息子に過ぎなかった。
しかし、連日のパーティーとダンスに飽きが来たマリヤは、妹のシュタージを呼び寄せた。
ベルリンで図書館に勤めていたシュタージは、パリで文学を学び、今は大きな出版社に籍を置いていたが、姉と違い華やかなことを嫌う、質実剛健を絵にかいたような娘だった。
カンヌにはまた、ヨーロッパ各国の軍人たちも多く集まっていた。
夏用の軍服姿の若者たちは、土地の娘たちや避暑客の心をざわつかせたが、なぜ南仏に軍人たちが集うのか、当時は少しも不思議に思わなかった。
ヨーロッパ中の富裕層が訪れ、スペインやイタリアにも近く、また海路でギリシャ、トルコ、そしてロシアやアジアにも繋がっている平穏な地だからだろうか。
何週間かの滞在の後シュタージがパリへ帰ると、再び退屈がマリヤを襲った。
モンパルナス仲間の年上芸術家集団は、かつてはおんぼろの車を駆りブリュターニュの海岸でバカンスを過ごしたというが、彼らの過ごした時代はとうに過ぎてしまった。
とはいえ20代のマリヤはまだパリに戻りたくない。
ある夕暮れ、彼女は愛用の小型カメラを手に、港へと散歩に出かけた。
あちこちでシャッターを切りながら歩くうち、タバコが吸いたくなった。
ヘビースモーカーの彼女はハンドバッグの中にライターを探したが、見つからない。
通りかかった軍服姿の美青年に、彼女は自然に声をかけた。
「失礼。火をくださらない?」
青年は丁寧にライターを灯し、火を差し出した。
その瞬間、二人の視線が交差した。
抜けるように白い肌のマリヤの美しさに、軍人は一瞬で心を奪われたようだった。
彼は迷わず言った。
「お嬢さん、ご一緒に食事でもお付き合いくださいませんか」
マリヤもまた、実直そうなその青年の眼差しに惹かれるものを感じ、承諾した。
レストランでは食前酒から始まり、食事と会話が花開いた。
別れがたく、彼は自分のホテルへと彼女を誘った。
南仏の酒パスティスを手にベランダに出ると、夜の海は港街を取り巻き静かに波を打っていた。
二人はそこで互いの身の上を語り始めた。
彼の名はミゲル。スペイン、セビリアの名家に生まれ、代々軍人を輩出する旧貴族の家柄だった。
彼もご多分に漏れず士官学校を優秀な成績で卒業し、軍のパイロットとして勤めながら、将軍フランシスコ・フランコの知遇も得ているエリートである。
彼の家系は、代々軍人を出し、スペイン王室に仕えてきた名家だった。
レコンキスタの時代から続く貴族の血を引く一族は、19世紀の植民地戦争やカルリスタ戦争でも武勲を立て、20世紀に入っても将校を多数輩出していた。
セビリアが位置するアンダルシア地方は保守的な気風が強く、教会と貴族、軍人の結びつきが特に固かったが、1931年に王政が倒れ第二共和政が成立して以来、彼らの世界は激しく揺らいでいた。
共和国政府は貴族の特権を剥奪し、大土地所有者から農地を強制的に取り上げようとした。
教会財産の没収、反教権主義の嵐、左翼勢力によるストライキや暴動——古都が多い南部では反発も激しく、市中で焼き討ちにを伴う衝突も相次いだ。
ミゲルの屋敷も広大な農地一部を失う危機に瀕していた。
ミゲルの父は
「共和制はスペインを滅ぼす」
と憤り、兄たちは密かに右翼組織と連絡を取り合っていた。
表向きは『最新の航空技術の勉強』という名目でフランスに滞在していた彼は、マリヤの話に耳を傾け、驚嘆を隠さなかった。
ロシア革命で親や家を失いながらも、己の力で生き抜こうとする彼女の気概——貴族のお嬢さんらしからぬ強靭な精神に深く惹かれたのかもしれない。
二人は同じ『失われた世界』を背負う者同士だった。
海岸の人ごみが消え夜が深まり、まもなく日が変わろうとする頃、ミゲルはマリヤに向かって静かに言った。
「マリヤ、私と結婚してください」
出会ってわずか数時間後のプロポーズだった。




