『我々はどこにでもいる』と青年は言った
パリの初夏は街路樹がひときわ輝いて見える季節である。
思わず立ち止まってしまうほど清々しい香りを漂わせる菩提樹や、コーランクール通りのアカシア、路地の四つ辻に突然現れる名もなき広場の、定食屋のテラスに植えられた紫色の花の桐の木。
そしてコンコルド広場から凱旋門に至るシャンゼリゼ大通りに心地よい木陰をもたらすマロニエの木。
白い雪の束のような花色は良く知られているが、場所によっては赤い花房の個体が植えられていて、それはまたパリの夕暮れの娘たちの、入日に照らされた頬のように艶っぽい。
日本の『梅雨』のような湿気と気温差はないが、一年で一番心地よい季節だと初夏を好む住民も多い。
そんな『パリに住む異邦人たち』の気持ちに心から頷けるほどに、自分はこの都市になじんだのかもしれない。
「シュタージ!!! 見違えたわ」
パリ北駅に妹を迎えに来たマリヤは、思わず忘れかけていたロシア語で呼びかけた。
襟の詰まったきっちりとしたブラウスにクロッシェ帽、軽く波打たせたボブカットにひざ下スカートのスーツ姿のシュタージ(アナスタシア)・オルロフスカヤはすっきりと背も伸びて、すっかり大人の女性に変貌していた。
23歳にもなったのだから当然と言えるが、マリヤはこんなに長い間家族と離れて生きていたことに改めて驚いていた。
「マリヤ姉さんこそ大分大人になったわね。自立した女って感じがするわ」
「何を言ってるのよ。あなたこそすごく知的な、職業婦人に見えるけど」
いえいえこれからよ、ベルリンでの仕事も何もかも捨ててきたから、これからパリで探して足元を固めていかなきゃ。
シュタージの大きな旅行鞄を駅前で待つタクシーの荷台につめ、マリヤは妹とパリの街を駆け抜けた。
シュタージはベルリンを永遠に去るつもりで、パリにやってきた。
1935年初夏、パリの街路に花の甘く重い香りが風に乗って漂うたび、シュタージは胸の奥がわずかに疼くのを感じた。
この香りに似た街路樹の花の匂い。ベルリンの中心部を貫くウンターデンリンデン通りにも、郊外の森と湖一帯にもただようそれは、自由の匂いのはずだった。
3月16日、ドイツナチ党の指導者ヒトラーは、第一次世界大戦終結時に連合国側と結んだベルサイユ条約を一方的に破棄し、ドイツの再軍備を宣言した。
その日以来、ベルリンの空気は鉄と血の臭いを帯び始めている。
夜毎聞こえる路地から路地へと走りわたる大勢の靴音、突如として消える隣人。
シュタージはそれらから逃れるようにパリへやって来た。
しかし、心の底にこびりついた不安は容易に消えなかった。
「私は本当に逃げられたのだろうか」
シュタージは薄暗い天井に向かって自問した。
姉マリヤの立派なアパートでの同居の誘いを断り、自分で選んだモンパルナス近く、15区ヴォジラールの古びた共同住宅に落ち着いてはみたが、心の平安を得るには何日かかかった。
数日後の午後、シュタージは近くのカフェのテラスで眼鏡の青年と出会った。
ロベール・ブラジヤック。
保守誌『アクション・フランセーズ』で小説・文芸欄を担当する論客であり、極右雑誌『ジュ・スイ・パルトゥ』の編集者だという。
彼は自らを「僕は敵が多いんだ」と笑いながら自己紹介した。
6月、社会党・共産党・急進社会党の三派が手を結び『人民連合全国委員会』後のいわゆる『フランス人民戦線』Front populaireが結成された。
夏の日、シュタージが濃いコーヒーを飲みつつ本を読んでいると、ロベールは遠慮なく隣の席に腰を下ろした。
彼は頭脳明晰でたいそうプライドが高い。
それは少し言葉を交わせばすぐにわかることだ。
二人は自然と映画の話題にシフトしていった。
「アナスタシアさん、日本という国の映画をご覧になったことはありますか?」
ロベールは眼鏡の奥の丸い目を細め、唐突に切り出した。
シュタージは少し驚きながらも、静かに首を振った。
「いいえ、まだです。ベルリンでは上映されませんでしたから」
「なんと、もったいない。それは実に惜しいことです」
ぐっと身を乗り出したロベールは熱を帯びた声で叫んだ。
「日本の映画はすばらしい。小津安二郎や成瀬巳喜男、特に溝口健二という監督の作品は見事です。
『唐人お吉』や『瀧の白糸』
……ああ、言葉など必要ないほどの静けさです。
あの構図の美しさ。
欧米の映画が常に動きまわり、叫び、説明しようとするのに、日本人は沈黙と余白で語る。
雨に濡れた石畳、一輪の花、障子の向こうの影。
それだけで、人生の哀しみや無常が胸に迫ってくる。実に、幽玄だ」
ロベールの勢いに周りの客も顔を見合わせ、耳をそばだてている。
シュタージはあっけにとられ、コーヒーカップを指で軽く撫でながら、慎重に言葉を選んだ。
自分の知識と教養が試されているような、そんな苦しさが心に沸き立ってくる。
「幽玄……日本の伝統的な美意識ですね。
あなたはなぜそこまで、遠い東洋の映画に惹かれるのですか?
異国趣味ではなく、何か魂の共鳴のようなものを感じていらっしゃる?」
この時代、遠くオリエントやエジプト、中東の遺跡の調査など、国際的な発見が相次ぎ、ヨーロッパにはにわかに『異国の文明熱』とでもいうべき熱が漂っていたのだ。
ロベールは一瞬、眼鏡の奥で目を輝かせた。
「鋭いですね、お嬢さん。
ええ、そうです。私は小賢しい近代の喧騒に憤っているのかもしれません。
ヨーロッパは今、叫び声と怒号ばかりだ。
左も右も、革命一派も保守も同じように下品に騒いでいる。
しかし日本映画は違う。
『死』さえも美しく、静かに受け入れる。
彼らは『無』の中にこそ真実があることを知っている。……私はそれを、尊いと思うんです」
シュタージは内心小さくため息をついた。
『この男は本当に危険だ』
思想の偏狭さは明らかだったが、その言葉の奥にはただの扇動者にはない純粋さと情熱が宿っていた。
彼女はロベール・ブラジヤックという年上の青年を『善良な人間』とは思えなかったが、少なくとも退屈ではなかった。
「あなたはご自分を、敵が多いと仰いましたね」
シュタージは静かに微笑んで言った。
「それでもあなたは自分の信じるものを堂々と語る。……少し、羨ましい気もします」
ロベールは肩をすくめ皮肉っぽく笑った。
「羨ましがることではありませんよ。敵が増えるたびに孤独も増す。
ただ孤独の中でこそ、本当の美がわかるようになる。それだけだと僕は思うんです」
そこへ、軽やかな足音とともに一つ年上の姉マリヤが現れ、白熱したテーブルを見るや目を丸くした。
「まあ、シュタージ。こちらの方は……?」
「紹介するわ姉さん。
ロベール・ブラジヤックさん。アパートのご近所の住人よ。作家で編集者で……映画ファン。
日本映画について詳しく教えてくださっているの」
その言葉にロベールは再び目を輝かせ、マリヤに向かって挨拶もそこそこに勢いよく話し始めた。
溝口健二の女性描写や、能の影響を受けた端正な画面構成について語る彼の横顔を、シュタージは静かに観察した。
『面白い人……』
心のどこかで、彼女は認めた。
『危険で偏っていて、きっと私とは相容れない思想の持ち主。
でも……嫌いにはなれない』
やがて本格的な夏が訪れた。
姉のマリヤはパリの友人たちと連れ立ってカンヌへバカンスに出かけた。
駅の南仏行き列車のホームで見送る姉たち芸術家一団の後ろ姿を眺めながら、シュタージは胸に小さな不安を覚えた。
25歳になった姉マリヤは、夏の陽光の下で輝くように笑っていたが、シュタージの心には、遠いドイツから忍び寄る暗い積乱雲めいた予感が、ますます濃く影を落としていた。
この夏は『長い夜』の序章に過ぎないのかもしれない。




