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酒とポートレートの日々・2

1920年代以降パリは芸術の坩堝だった。

モンパルナスの丘は画家、詩人、写真家、そして亡命貴族たちで溢れ、夜毎アブサンの強い薬草臭と煙草の香りが渦巻いていた。


行きつけのロシアン・キャバレー「蝙蝠座(La Chauve-Souris)」の薄暗い客席で、マリヤは初めて『マサオ』を紹介された。

何年も前からパリにいる『高等遊民』の友人に連れられた、上質ではあるが地味な三つ揃いを着た小柄な東洋の青年。

黒い瞳は好奇心に輝いていたが、周囲の喧騒と、大声で押しの強いフランス人たちに埋もれ、冴えない弱気な若者にしか見えなかった。

写真に情熱を傾け一旗揚げようと思っていたマリヤは


「今度の週末、レンズの研磨と買い付けに付き合ってくれない?私はあなたの知識と技術が必要なの」


と気やすく声をかけた。

小柄な青年は驚いたように瞬きをしたが、すぐ穏やかに頷いた。

東洋人の男などパリの街では珍しくもなく、吹き溜まりの民であるはずのパリの芸術家たちも軽く見くびる存在だった。

マリヤ自身も最初はそうだった。

荷物を運ばせ、暗室の支度を手伝わせ、時にはコーヒーさえ運ばせた。

小間使いのように引き回しながら、心のどこかで優越感を覚えていたのかもしれない。

しかし数週間も経たないうちに、その思いは粉々に砕かれた。

彼の本当の姿をマリヤはすぐに知ることになる。

マサオはただの留学生ではなかった。

パリ国立の技術学校で光学を学ぶ学生で、他に余力で、フランス演劇界の重鎮シャルル・デュランから直接演劇論の講義を受けられるほどの俊才だった。

昼は女優や男優の舞台写真を撮り、夜はサルバドール・ダリやココ・シャネルのもとでロシア語の通訳を務め、人脈作りにいそしんでいたマリヤは、静かな情熱を秘めた青年の能力に、いつしか敬意を抱くようになっていた。

なぜ私は、この男を「便利な小柄なアジア人」としか見ていなかったのか

。モンパルナスの急な石畳を上りながら、マリヤは自分の浅さを痛感し続けていた。


リー・ミラーというアメリカ人女性の存在が、この時期の肖像写真界では特に大きかった。

やはりアメリカから来た芸術家マン・レイとのカップルで革命的な作品を発表し続けていた。

ヴォーグのモデルを務め、自らもカメラを構え現実と夢の狭間を切り取る。

彼女のアトリエを訪れた日、マリヤは言葉を失った。

リーの瞳には野心と才能が燃えており、その前ではマリヤ本人の持つ情熱など、ただのちっぽけな自信とナルシチズムの欠片に過ぎないように思えた。

さらに、同い年の写真家ゲオルギイ・ゴイニンゲン=ギューネの影も重かった。

サンクト・ペテルブルク出身の彼は、既にフランスファッション写真の頂点に君臨していた。

マリヤの作品はまだ幼く、彼らの光の前に霞んで見えた。


ココ・シャネルに直接会った日のことは、長く忘れられなかった。

彼女はマリヤをじろりと見つめ、冷たい微笑みを浮かべた。


「世の中でのし上がっていくためには、自分の『すべて』を使うのをなぜためらうの? あなたはいったい何をしたいの? 自分を守るのに必死なお姫様」


オデッサの亡命貴族の娘として育った彼女の『甘え』を、シャネルは一瞬で見抜いていた。

プライドだけが高く、それに見合っただけの才能を伴っていない。

夜、アトリエの暗室で現像液に浸す写真を見つめながら、マリヤは何度もその言葉を反芻した。

脂汗が落ちて、薬品の臭いの中に溶けていった。


ある朝、マサオから手紙が届いた。


「母がギャラリーで生け花の個展を開きます。ぜひ、来てください」


彼は日本から母親を伴って渡仏していたのだ。

51歳という年齢を微塵も感じさせないマサオの母・鑑は、驚くほど若々しく好奇心に満ち溢れた日本女性だった。

フランス語はもちろんカタコトだが、不思議と意思の疎通が達者だった。

そのうえ彼女が花を活ける姿は、まるで一つの芸術作品だった。

細い指が茎を操り、花弁が静かな空気に溶け込むように広がる。

準備期間から会場入りしたマリヤは夢中でシャッターを切った。

母と息子の静かなポートレートも写した。光と影が織りなす瞬間を。

そこに写るマサオの眼差しは、パリに来て初めて彼女が出会ったような穏やかさと強さを持っていた。


大成功の個展の後、マサオたち母子が日本へ帰国する日が来た。

マリヤは二枚の写真を封筒に入れた。


「日本にお帰りになるんですって? これをお餞別として」


マサオは受け取り、眼鏡の奥で静かに微笑んだ。


「ありがとうマリヤ。あなたの眼は確かに『異国の中の日本』の美しさを捉えていましたよ」

自信をもって、マドモワゼル。


母子が日本行きの船に乗り遠ざかっていくのを見送りながら、マリヤは思った。

自分は彼の放つ『異邦人の磁力』に惹かれていたのかもしれない。

いや、それ以上に彼とその母を通じて、自分がまだ『見えていない』ものを教えられたのだ。


後年、『マサオ』は作家としてデビューした。

第二次世界大戦後、推理、ユーモア、歴史小説と多面的に活躍し、21世紀になっても文壇で「小説の魔術師」と称されている。

彼はあの日の写真を、生涯大切に持ち続けていた。

マサオこと久世十蘭は日本の戦後エンタメ小説の大巨人です。

その母親も好奇心の塊で、大変魅力的な人物。


この時代にとどまってもう少し書き込みたがったのですが、それはいずれ…

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