98:過去と現在(いま)と未来 (11)
数秒のうちに床は立っていられないくらい傾いている。
「蒼くん!!」
「蒼!!」
叫んでみても返事はない。
這うような体勢で叶斗が蒼の日本刀を拾おうと手を伸ばした。
その刀を失えば本当にもう蒼は戻ってこないのだというように。
必死に伸ばした指先は抜き身のままの刀の柄を何とか掴み取る。
しかし安堵してはいられなかった。
今度は私が床を滑る番だったのだ。
今までよりも大きく床が傾く。
屋敷の崩壊が始まっていた。
人間が創ったならとっくに溶岩に飲まれていただろう建物も、ついには下方から燃え始めている。
逃げ場がない。
蒼だけを死なせてしまう結果にならなくてむしろ良かったかもしれない。
なんてどこか安堵感すら覚え始めていた私だったが、傾いた部屋から落ちかけて恐怖に思わず目を閉じた。
しかし私は炎の海に投げ出されはしなかった。
落下しなかったからだ。
かといって足元には床の感覚もない。
私は腕を掴まれて宙ぶらりんの状態だった。
「人間ってやつは本当に世話が焼けるな」
掴んだ影雉の腕には傷があったけど、力強く羽ばたいて私を支えている。
仕方なくだからな、と顔に書いてあった。
近くに羽ばたくのは壬紫。
そちらも服が裂けている。
支え合って飛ぶ鴉天狗達もいる。
そして叶斗もまた屋敷の崩壊から救い出されていた。
琥珀によって。
天狗達は戦いにからくも勝利した様子だ。
無傷ではないにせよ、一人も欠けることなく無事でいる。
その事実がただただ嬉しい。
空を統べる一族には並の妖怪では適わなかったのだ。
一族を率いてきた琥珀は、いつもの軽めの表情ではなく、別人のように鋭い視線を自分が掴んでいる相手に向ける。
「それは、蒼の刀だよな?蒼はどうした!?茜と白銀はどうなったんだ!?」
状況が飲み込めずに――あるいは自らの推測を簡単に信じたくないのか、琥珀は叶斗を自分の目線まで持ち上げて詰め寄った。
「白銀は死んだ。その後茜が身を投げて…助けようと蒼も飛び降りた」
「馬鹿な!下は火の海だぞ!なぜ止めなかった!?」
琥珀の怒りは八つ当たりに近くて、間に合わなかった自分へのものが大きかったんだろうけど。
「僕だって止めれるものなら止めていた!止めたかったに決まっている!!」
叶斗だって気持ちのやり場困っているのだから、言われっぱなしとはいかなかった。
「空の一族の長をみすみす死なせるようなマネを…」
「うるさい!あいつが死ぬなんて簡単に言うな!」
「ち…ちょっと!やめてください!喧嘩してる場合じゃありません!」
影雉の迷惑そうな舌打ちが聞こえる。
掴まれているだけなので叫ぶと不安定に揺れるのだ。
私の言葉に叶斗と琥珀は口を閉ざしたが、そのまま睨み合って動こうとしない。
「琥珀様。あまり時間がないようです」
壬紫が言った直後にドンという音が鳴り響いた。
火柱みたいに溶岩が吹き上がる。
本格的な噴火が起ころうとしているのかもしれない。
今はまだ眼下に見える屋敷も、全てが飲み込まれるのにそう時間はかからないだろう。
上空に留まっていることすら危険だ。
睨み合いを続けるわけにもいかず、私たちは木々の立ち並ぶ道を、その先の人の世界へ繋がる扉を目指して空を翔けた。
「そんな…このまま封じてしまうなんて…」
地に降ろされたのは人の世界へ続く扉をくぐってすぐだった。
扉であるゆらゆらと揺れる白い幕は幻想の世界をいっそう儚く見せていた。
封じなければならない。
噴火の影響がまだ現実世界に表れていない今のうちに。
それはわかっているけど。
でも、封じたら道は閉ざされる。
「蒼さんはどうなるの?蒼さんが生きてるって信じないんですか!?」
叶斗は唇を噛み思案している様子だ。
しかし選択の時間は迫っていた。
「これ以上悠長に待っていれば間に人の街に被害が及ぶだろう」
言ったのは壬紫だ。
この場にあって彼が優先すべき物に蒼の命は入っていない。
あるいは人間の命だって彼らには無関係といえるかもしれないから彼は客観的に言ったのだろう。
「…わかっている。封じるぞ。水穂、手を貸してくれ」
どこか感情の欠落した表情で叶斗は言う。
一番つらいのは叶斗だって本当はわかっている。
いつまでだって蒼を待っていたいはずだけど、人間の住む世界を守る役目がある。
だから感情を押し殺して決断したに違いない。
指先が触れ合って、印を結ぶ。
「伏して願い奉る!!」
自らの思いを断ち切る宣言のようだった。
真言が紡がれる。
体の奥から力が引き出される感覚。
私も叶斗もすでにかなり消耗しているけど、二人分の霊力を使って、術は無事発動した。
少しずつ扉を形作るカーテン状のものが白い光を失っていく。
薄く薄く、輪郭を崩して。
もうすぐこちらとあちらは完全に切り離されてしまう。
扉が閉ざされようというその時。
風が、駆け抜けた。
そして扉は光を完全に失い、閉ざされた。
一陣の風と化してそこから飛び出してきた黒いスーツ姿の青年の背には濃紺色の翼。
腕の中に小さな少女を抱えている。
「蒼さん!!」
翼が風を捉えて羽ばたき、やがてゆっくりと地に降り立った。
空が飛べる。
ということは風を操ることが出来ているということ。
呪いの力が消え去りでもしなければありえないことだ。
もし、呪いが消えるなんてことがあるとしたら…。
蒼の腕の中の少女は人形のように動かない。
その頬に浮かんでいた鱗状の痣が消えている。
その呪われた魂は消え去ったのだということ。
本当はそうあってほしくないけど。
おそらくもう目を開けることはないのだろう。
幻舞山の異界への扉は封じられ、蒼は無事に戻ってきてくれた。
それは戦いの終結と勝利を意味するけれど、虚しさと寂しさが入り交じった自分がいた。




