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96:過去と現在(いま)と未来 (9)

 白銀の様子は明らかにおかしかった。

 突然高笑いをしだしたのも今までにはないことだ。

 無理矢理に呪縛から逃れた代償に裂けた皮膚からは止めどなく血が流れ続けているというのに、彼は笑い続ける。

 瞳に狂気の色をにじませて。

 自我を保っていられないのだという風に見える。

 考えてみれば不思議な事ではないはずだった。

 無数に刻まれた痣はそれだけ妖怪を喰らったということ。

 それだけ力を手に入れたということ。

 代償も大きい。

 力を手に入れる事はできても、狂わない妖怪はいない。

 だから呪いなのだと叶斗は言っていたではないか。

 だったらもはや彼は白銀であって白銀ではない。

 

「遊びはここまでだ。もう人間も妖怪も必要ない。全て無に()してくれる」

 

 呪いに精神までも蝕まれ、自らの願望すら見失っている。

 茜を王にするためにこれほどの危険を冒したのだということを。

 今の彼はただこの世の全てを憎み、破壊を望む存在だった。

 口元に笑みを張り付けたままで白銀は翼を広げた。

 いや、広げようとしたがその片方を力無く地に垂らしたままでよろよろと立ち上がった。

 真っ白な翼は所々が赤く染まって痛々しい。

 傷ついた翼にはもはや空を翔る力は残されてはいないようだった。

 それどころかまともに歩くことすらままならないほどに傷を負っている。

 それほどまでに弱っているならもう一度呪縛することは可能かもしれない。

 しかし、私も叶斗もまた地に膝を着き術を破られた反動に何とか耐えている状態だった。

 特に主となり術を発動させた叶斗はその反動も大きく、ほとんどうずくまっているような状態だ。

 白銀の、自嘲めいた笑みの凄惨さが背筋を寒くさせる。

 不気味な低い地鳴りが聞こえ始めた。

 とてつもなく嫌な何かが地の底から近づいてくるような、そんな音が。

 けれど私はそれを気にする余裕をすぐに失う。

 白銀に支配された蔦が足元に迫っていた。

 叶斗が床に符を投げて結界を作るが込められた力はいつもよりずっと弱いものでしかない。

 いつ破られるかわからないそれに追い打ちをかけるように白銀は弓を取り出した。

 結界はもたないかもしれない。

 普段ならどうということはなくても、結界を破られた反動は今の叶斗には大きなダメージになりかねないのに。

 私が術を唱える余裕もなく、矢は放たれる。

 空中で数を増したそれは、結界に触れるよりも早く切り刻まれた。

 白銀と私たちの間に飛び込んだのは蒼だ。

 切り傷は更に増え、シャツの腹部に血がにじんでいた。

 小さな身体が素早く距離を詰めて切り込む。

 白銀は石化した腕でかろうじてそれを受け止めた。

 茜は少し離れた場所で膝を着いている。

 致命傷とまでは見えないが、腹部には蒼よりも深い裂傷があった。


「白銀!止めろ!もう力を使うな!」


 自暴自棄ともいえる白銀の行動を茜は止めたかったのだと思う。

 狂気を宿した瞳が彼女をちらりと見た。

 けれどそれだけ。

 ただ一べつを投げただけだった。

 彼にとって従うべき己の主も、大切なひとももう存在しないのだ。

 蒼の刃を高質化した白銀の腕が弾き、一瞬の隙を狙って弓を引く。

 けれど接近戦なら剣の方が有利だ。

 ぶつかり合う度に床を血が濡らしていく。

 ほとんどが白銀のものだった。

 二人の動きが止まる。

 石と化した白銀の腕を半ばまで切り込んだ形で、刀は押すことも抜くこともできなくなっていた。

 身を切らせて隙を作り出した白銀の元に茜が走り寄る。

 私がそれに気づいた時には叶斗は片手で印を結んでいたが間に合わない。

 血の赤が鮮やかに散った。

 白い天狗の胸を刺し貫いて。

 蔦が動きを止めた。

 もう白銀の力は及んでいない。

 また、彼は笑った。

 自分の身が刺し貫かれていることがとても愉快な事のように。


「もう遅い。私が死んでも…もう止められはしない…」


 闇色の血がごぼりと吐き出されて、彼の身体に変化が起こりだした。

 頭から徐々に岩のような色に変わってゆく。

 それが足先まで及ぶと、今度は頭のてっぺんからざらざらと崩れだして。

 やがて彼の生きた証は床に積もった砂だけになった。

 いや、私はまだそれには気づいていなかっただけで、本当は彼はもう一つ生きた証を残していたのだが。

 私は茜のことが気がかりだった。


「茜さん…どうして…」


「もし私のことがわからぬほどに狂ったら、殺してくれと言っていた。私は約束を守っただけだ」


 ただそれだけのことで、なんでもないこと。

 そんな口調で言う茜の頬は涙で濡れていた。

 この世で最も大切なひとの残した望みを叶えて。

 その命を自らの手で終わらせて。

 彼女は泣いていた。


「もう、止めましょう」


 私はそう言わずにはいられなかった。

 けれどきっと彼女がそう望まないだろうことは蒼にはわかっていたのだろう。


「続きをやろう」


 そう言った彼女に、蒼は静かに刀を構えた。




 急激に気温が上がっている事に私は気付いた。

 蒼と茜の戦いを私と叶斗は見ていることしかできずにいる。

 その激しい攻防に割って入る事はあまりに難しく、また、手出しをしてはいけないという空気でもあった。

 そうしていくらかたった頃、気温の上昇を感じたのだ。

 先ほどまでは妖気が身を切るほどに冷たかったのに、今は汗がにじむ。

 熱に耐えかねたように爆発音に似た轟音が大地を割った。

 這うようにして建物の端へ移動し、地上を見下ろしてみる。

 街に異変はない。

 恐る恐る覗き込めば赤く煮えたぎる物が見えた。

 

「あれって…」

 

「溶岩だ!」

 

 叶斗も同じように身を乗り出す。

 噴火というにはすこし不完全だったと思う。

 しかし割れた地面からは赤く燃える溶岩が見える。

 それは屋敷をゆっくりと飲み込み始めていた。

 いずれは流れ出して山を下るだろう。

 街が飲み込まれるのを想像して――その前に自分が飲み込まれることを想像して――足が震える。

 

「あんなの…どうすれば」

 

 思わずかすれる声。

 

「現実世界に影響が出るまでにはまだ時間がある」

 

 叶斗は立ち上がろうとしていた。

 彼はあきらめるつもりなんて少しもない。

 私達があきらめるということは人間と妖怪の未来を捨てるということ。

 まだ溶岩の流出は止められるかもしれない。

 ここで食い止めなければ!

 私は叶斗に頷きを返して再び共に印を結ぼうとした。

 けれど指が触れ合おうかという瞬間、足元が不安定に傾いだ。

 倒れたまま床を滑る。

 近くの柱に背中から叩きつけられて一瞬目の前が暗くなった。

 意識を失いそうな衝撃が打ち付けられた痛みに変わって。

 なんとか床はほぼ水平を取り戻したが。

 かすむ目が床を滑ってくる何かを捉えた。

 ようやく焦点が合ってわかる。

 床を転がったのは日本刀だった。

 仰向けに倒れている茜。

 突きつけられた白刃。

 見下ろして立つ蒼はゼエゼエと肩を上下させている。

 

「お前の勝ちだ。やるがいい」

 

 茜は静かに言って目を閉じる。

 茜は独りになってしまったことで初めから死を選ぶつもりだったのだろうか。

 蒼は刀を逆手に持ち直した。

 刃は振り上げられる。

 本当にこれでいいのだろうか。

 茜を殺してしまうことで終わるのだろうか。

 そんな終わり方でいいのだろうか。

 蒼を止めようと伸ばした腕はここからでは届くはずもなく虚しく空をつかんで、叫びたいのに何かが詰まったかのように声にならない。

 無情にも刃は振り下ろされた。


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