94:過去と現在(いま)と未来 (7)
「私が封じられていた間にこの国は様変わりしたものだ。よもや人間がここまで愚かだとは」
本の中の過去で聞いたのと同じ声だ。
凛としてよく通る声は、愛らしさの代わりに相手を射竦めるような棘を持っている。
「茜…人と妖の秩序を壊して何を望む?これ以上白銀に利用されてやることはない」
きっと少年の姿であったなら茜に向けられたその声もよく似ているはず。
今は青年の姿の蒼の声は怒りを含むでもなく、悲痛さを含むでもなく、いつか聞いたのと同じく抗いがたい力を持っていて、けれど静かだった。
「これは私の意志でやっている事だ」
だけど茜は蒼の言葉をはねのける。
「なぁ蒼、もどかしいと思わぬか?人間は自分たちの都合だけで全てを変えてしまう。人間はこの世に何をもたらす?人間は我ら妖に何をもたらす?人間にこそ道を示してやるのが我らの務めではないか」
淡々と語る声には秘めたる炎が垣間見えた。
妖怪こそが人間の上に立つべき。
そしてその妖怪を統べることこそ自らの役目であるのだと茜は信じている。
あるいはそれは邪龍の意志が人間を疎んじているが故なのかもしれないけれど。
羽ばたきの音がして、白い鴉が茜の傍らに降り立った。
すぐに白いコートを纏った青年へと姿を変える。
様々な模様の痣が刻まれた面で、冷たくこちらを見据える金色の瞳だけが元の彼を思い出させた。
「蒼…共に来い。人のはびこる世を終わらせて妖の国を作ろうではないか」
「茜様!?」
茜がそう言い出したのは突然だったらしく、白銀が抗議の声を上げる。
本当は茜も蒼も互いを失うことを望んではいない。
魂を分け合った片割れと戦うことを望む訳がない。
できるなら共にありたいと。
だから茜はここに私達を――蒼を導いたのだ。
「馬鹿げた話だ」
口を開いたのは蒼ではなく叶斗だ。
「人間までを支配できると本気で思っているのか?」
叶斗は一蹴する。
本当は人間を凌駕する力を持つ妖怪が何故人間を支配できないのか私にはちょっとばかりわからない。
でもきっと、それを望む妖怪が現れれば止めるのが私達の役目なのだ。
「茜様ならば可能だ。人間はこの国を踏みにじり過ぎたと思い知るだろう」
白銀の冷たい声と殺気が心臓に突き刺さるようだった。
彼は自らの役目を何と位置づけているのか。
ただ茜を王とするためだけに存在しているみたいに見える。
それだけが自分の存在価値なのだと。
ぞわりと床が動いたような気がした。
素早い動きで黒い地面が広がってくる。
「何これ…やっ…」
逃れられないくらいに近付いてやっとわかった。
虫だ。
蜘蛛のように足がたくさんある気味の悪い無数の虫が足の先から這い上がってくる。
払いのけようにも纏わりついて、悲鳴すら掠れる気味の悪さだ。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前」
九字を切った叶斗を見れば虫に登られつつもまるで観念したかのように立ちすくんだままでいる。
「どうしたんですか!?早く何とかしないと…」
「精神を統一しろ!九字を切るんだ!」
九字を切っても虫は何のダメージも受けていないように見えるのに何故そう言うのか疑問だったけど、私はこの状況からなんとか逃れたくて必死だった。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前!」
今出来る精一杯の精神力で集中する。
ただそれだけで虫の大群は嘘のように消えていなくなった。
それもそのはずだ。
だって虫なんて最初からいなかったのだから。
私はまた白銀の幻術に惑わされていたにすぎなかった。
わかってしまえばもう簡単に惑わされはしない。
しかし白銀は幻術が破られることなど予想していたようだ。
本当の狙いは別にあって、それは密かに迫っていた。
印を結ぼうとしていた腕に細い縄のようなものが絡み付く。
梁と柱を伝って伸びた蔦だ。
蒼がこちらに身を翻しかける。
「人間など捨て置け。いや…お前が人間を気に入っているなら従僕として生かしておいてもいい」
茜の言葉が終わらないうちに蒼の体が傾いだ。
「蒼!」
そちらに気を取られた叶斗の身にも蔦が巻き付いて動きを奪う。
印を結べなくてはこの蔦を払うだけの真言を放つことは出来ない。
すぐに命を奪うつもりはないらしいがその蔦によって捕らわれ、私達はもどかしくも場を見守るしかなかった。
刀を地面に突き立てて、がくりと膝を付いた蒼は自らの肩を掴んでいる。
首筋に流れる長い髪の隙間から見えたのは黒く光る鱗。
何度も大きく呼吸を繰り返す。
内側から湧き上がる衝動に耐えている、そんな感じだった。
「まだわからぬのか?抗うから苦しむのだと申し上げたはず」
冷たく見下すような白銀の言葉。
「お前は力を受け入れた。ならば全てを受け入れよ。もう苦しむ必要はない。こちらへ来い。蒼…」
茜の声がことさら優しくその名を紡げば、蒼は地に額が付く程にうずくまった。
茜の身に刻まれた痣もまた黒く光る鱗と化している。
互いの存在が互いの体を蝕む呪いの影響を高めているのは明らかだ。
「蒼さん!」
手足を絡め取った蔦からは逃れられない。
それでも声は、声だけは届いていて!
祈るような思いが通じたようで、頭が持ち上げられて、刀にすがって立ち上がった時には蒼は少年の姿に変わっている。
地面から刀を引き抜いて地を蹴った。
私と叶斗を捕らえていた樹木の枷が切り崩される。
そして彼は瓜二つの姿の自らの片割れへと刀を構えなおした。
「妖が人間を統べることなど出来はしないし、人間もまた妖を統べることなどできないんだ。互いがなくては存在できず、だが必要以上に干渉し合ってはならない。妖と人間とはそういうものだ!」
少年の姿のせいか珍しく感情を露わにして叫ぶ。
どちらかだけではダメで近付きすぎてもダメ。
相容れない存在とはそういうことだ。
それは長いこと人と妖怪の両方を見てきたからこその重みを持っていた。
叶斗が手近な柱にお札を張り付けて早口に真言を紡ぐ。
その力は蔦の接近を阻む力となった。
「どちらが必要だとかどちらが不必要だとか、この世の理はそんなに簡単には出来てはいない」
静かな怒りを湛えて、叶斗が印を結ぶ。
確かに妖怪からしたら人間は自然界を壊してしまう愚かな存在に思えるかもしれない。
逆に人間からしてみれば妖怪だって、自分たちの生活を脅かす危険な存在となりうるかもしれない。
でもそれは全てではないと、榊河の家を継ぐ叶斗も、それを見てきた私も知っている。
人間という存在と妖怪という存在がいてこそこの世界があるのだから。
それなのに、彼らとはわかり合えないのだろうか。
戦うしかないんだろうか。
蒼は人間の味方をしているというわけではない。
私も最初は式神だから人間を護って妖怪と戦ってくれているんだと思っていた。
でも彼が人間に力を貸すのは妖怪のため。
彼が護りたいのは妖怪なのだ。
蒼も茜も、覚悟を胸にこの場に臨んではいても、本当は傷つけ合いたくは無いはずなのに。
私はやりきれない気持ちを抱きながらも印を結ぶしかなかった。




