92:過去と現在(いま)と未来 (5)
息さえ詰まりそうなその濃い妖気がもし目に見えるなら黒くてどろっとしたものだろう。
空気は肌に張り付くような冷たさがあった。
遙か前方の屋敷に続く道の両脇の木々が何本も焼け焦げていいて、夜稀との戦いの激しさを物語っている。
未だ立ち込める焦げ臭さが鼻を突く。
目の前には誰の姿もなかった。
けれどじわじわと肌を焼くような気配が迫ってくるような気がする。
これをきっと殺気というのだろう。
それがまるで研ぎ澄まされた刃のような鋭さで突如として降り注いだ。
ガキッという異音は刃と歯が噛み合った音。
蒼の刀に噛みついている物は恐ろしい形相の生首のような妖怪だった。
「あはは!いい勘してるね!」
何匹もが飛び交いそのうちの一匹が楽しそうに笑う。唯一少年めいた顔のそいつは挑発するようにひらりひらりと宙を舞う。
蒼が刃に食らいついた首だけの妖怪をそちらに打ち払った。
そいつは長い髪を尾のようになびかせて宙返りをして避ける。
左右から迫ってきた別の二匹を蒼は鮮やかに切り捨てた。
地に落ちて煙のように消える仲間を見ても少年の生首は笑っている。
殺気の主はそればかりではなかった。
岩のごとき巨体が地を揺るがす。
黒い牛のような妖怪だった。
血走った眼がこちらをひたと見据える。
「最早この先に行くことも退くことも叶わぬわ」
私達の命はここで終わるのだと言いたげだ。
人語を操る時点でここに至るまでに対峙した妖怪とは違う。
比べ物にならないほど強大な妖気が感じられる。
怒号と共に持ち上げた前足には鋭い爪が生えていた。
振り下ろされようとしたそれを叶斗の放った符がはじく。
そこに更に別の殺気が襲う。
「可愛いぼうや。あたしとも遊んでおくれ」
赤い唇が笑みの形に裂けた。
上半身は和装の女だが下半身は人ではなく、足が何本も生えた長い虫のような胴体。
地面からは手のひらに余るほどの大きなムカデが這いだしてきた。
鳥肌が立ったがなんとか真言を唱えて放つ。
ムカデ達は呆気なく溶けて消えた。
しかし後からまた別のが地面から出てくる始末だ。
あとどれだけいるのか考えたくもない。
「小娘!邪魔をおしでないよ!」
襲いかかってくるムカデを今度は叶斗の術が一掃した。
胸をなで下ろしたのも束の間。
後方から聞き覚えのある足音が押し寄せていることに私は気付いていた。
見れば街で見たのよりも一回り大きな骸骨の妖怪達がぎくしゃくとした動きで近付いてくる。
最後に巨大な骸骨が姿を現した。
きっとこれが骸骨の親玉だろう。
叶斗が投げた符が張り付き、燃え上がったかと思うとその巨体は地に伏した。
けれどぎくしゃくと立ち上がる。
その間に蒼が牛の妖怪を相手にしていた。
どうやらそいつには再生能力があるらしく、切り落とした腕がすぐに生えてくる。
私は迫る生首をなんとか結界で防いだ。
様々な妖怪が入り乱れて。
私達はいつしか背中合わせにそれらと対峙する格好となっていた。
「我等が王の邪魔はさせないよ」
「観念するがいい」
首だけの少年が言い、牛の化け物が言った。
じりじりと輪が狭まる。
各地に封じられていた妖怪達。
封じを解かれ、自由を得て、自らの意志で茜に従っているのか白銀の妖術か。
彼らはこの戦いを楽しんでいるようですらあった。
だから一気には攻めてこない。
少しずつ、じらすように。
このままでは消耗戦だ。
そうなれば数で勝る相手の方が間違いなく有利だった。
蒼の額には珍しく汗がにじんでいる。
やはりいくら回復したように見えても本調子ではないのだ。
「どうして…こうも…面倒なのばかり…」
苛立たしげに言う叶斗だって息が上がり始めていた。
相手は一朝一夕に調伏したり封じたり出来る妖怪ではない。
さっきから体全体が重いのは妖気が濃すぎて人間の身ではただここにいるだけでも体力を奪われているから。
このままだと私の限界が来るのはそう遠くないだろう。
みんながここに私達を導いてくれたのに、あと一歩のところで前に進めない。
目指す場所を目前にしての強敵の出現に焦りと疲労ばかりがつのっていく。
ここまできたのに…もう、だめかも。
弱気になりかけた時、一陣の風が吹き抜けた。
それは思いも寄らないものを運んでくる。
「琥珀!何故ここに!?」
蒼が目を見張った。
驚いたのは私も叶斗も同じだ。
「長のピンチに駆けつけるのは当たり前でしょ。遅くなって悪い」
天狗の長代理はいつもと変わらず軽めの笑顔で現れ、そしてわずかに表情を引き締める。
「これは蒼だけの問題じゃなく、俺達一族の問題だ。あの時から長いことお前にだけ背負わせて来ちまったものを分けてもらうからな」
前は軽い印象しかなかったけど、天狗の装束をまとった彼はなんだか少し神々しい。
扇を振りかざし、宙を薙げばたちまちに風が刃と化した。
天地を切り裂く風の刃は妖怪達に襲いかかる。
妖怪達はわずかに怯んだに過ぎなかったけれど。
そこに大きな翼がもう一つ舞い降りた。
紫がかった髪と翼の。
壬紫という名の天狗は手にした棒状の武器でまとめて骸骨達を薙ぎ倒した。
がっしりとしたその体躯に相応しい怪力だ。
その表情からは感情は読み取れない。
やはり蒼が長だという琥珀の言葉に釈然としないままなのか、ただ黙したままでいた。
それでも彼は側近として琥珀に従ってここに来たのだろう。
それは彼だけではない。
一羽の鴉が目の前に現れた。
人の姿になれば十七、八の少年。
一房の長い髪が翻る。
「じいちゃんが恩に報いろって言うから仕方なく助けてやる!お前を長と認める訳じゃねえからな!」
牛に似た妖怪を組み伏せながら影雉は念を押す。
兄よりも素直に感情を表して。
彼の後を追うようにたくさんの黒い羽ばたきが降ってきた。
「蒼様。我ら微力ながら力添えいたしたく参じました」
鴉から人型に姿を変えた黒い翼の天狗が言う。
こちらは好意的なようだ。
「どうしても付いて来るってきかなくてさ。鴉達が里で暮らすようになったのは蒼が身分の差を無くしたいと思ったからだ。感謝してるのさ」
昔は身分は低いとされた鴉天狗。
今は身分の差はない。
蒼の考えを尊重して琥珀がそうしたのだろう。
だから鴉天狗達は蒼に力を貸す事を惜しまない。
琥珀はそう言った。
次々に人型に変じ空中で生首達に向かい身構えた鴉天狗達。
それぞれの武器が手の中に現れた。
素早い動きの生首達が徐々に追いつめられていく。
道が開けた。
「さあ、今のうちに。俺達はこいつらを片付けたらすぐに追いかける」
琥珀は得意の魅力的な笑みを浮かべる。
「…わかった、任せる」
反して蒼はわずかに眉を寄せたけれど次の瞬間には進むべき方向に向き直った。
「叶斗!水穂!走れるか?」
「は…はい!!」
叶斗も決意の籠もった表情で頷く。
すでに満身創痍といえなくもない状態だけどこの機会を無駄には出来ない。
「ぼうやお待ちよ!」
並木の向こうに見えるお屋敷に向かい走り出した私達に、ムカデの女妖怪が追いすがろうとする。
「おっと、こっちにいい男がいるんだけどな。俺じゃ不足かい?」
そんな琥珀の冗談めかした言葉が割って入る。
きっと彼らは負けない。
今はただ前だけを見て私は懸命に走った。




