87:蒼と茜 (17)
夢から覚める感覚。
いつの間に眠ってしまったのだろう。
そこに悠璃の姿はなかった。
けれどイズミが戻ってきていないことを思えばほんの短い時間しか経過していないようだ。
夢を見ていたというにはあまりにリアルだった情景を思い出してみる。
現実にはほんの短い時間だったが、それはとても長い出来事だった。
多くの出会いがあり別れがあり、喜びがあり悲しみがあった。
行かなければ。
私は衝動的にベッドから降りた。
「ミ、ミズホ!?スグに先生が来マスヨ?」
ちょうど先生を呼びに行ったイズミが帰ってくる。
「ごめん、私、蒼くんの所に行かなきゃ!」
きっと彼はあの時と同じように苦しんでいるだろう。
だから行かなければ。
行って、一人で苦しむことはないんだと伝えなければ。
闇の中で独り耐え続けるのは難しい。
闇の中から抜け出すのはもっと難しい。
彼の心の暗い闇に光を灯した嵩波のようになれるかどうかはわからないけれど、琥珀のように信じ続けることは私にもできる。
困惑顔のイズミを残して私は駆け出した。
エレベーターを待つことすらもどかしい。
階段へと向かった視線の先に叶斗の姿があった。
「平気なんですか?」
顔色は少し良くなってはいるが倒れないか心配になる。
私たちはどちらからともなく、蒼の病室へと階段を登り始めた。
「いつまでも寝込むほどやわじゃない。君こそもう大丈夫なのか?霊気をかなりとられただろう?生気を奪われるのと同じようなものだ」
その先はためらいがちに言葉を継ぐ。
「けれど、これだけは言っておく。本来式は主が衰弱するほど無理に霊気を奪い取りはしないし、天狗はあんな風に生気を食ったりはしない。毒のダメージに加え茜の目覚めによって呪いの影響が強まっているせいだ。だからあいつを…」
「わかってます。大丈夫」
私は大きく頷いた。
蒼を恐れる気持ちはもうない。
主は自らの霊気を与え、式はそれを糧にする。
そういう契約なのだと嵩波は言った。
もちろん自分自身でも気付かなかったくらいだから普通なら式は主人に影響を及ぼすほどの霊気を必要とはしない。
私が倒れてしまったのはそのバランスが崩れてしまったから。
それほどまでに蒼が負ったダメージは大きく、龍介や叶斗を、過去には天狗達を襲ったのは深い傷を癒すための邪龍の本能的行動だ。
もしそれに私が恐れをなしてしまったら、その事が蒼を傷付けてしまったら。
それを叶斗は危惧していたのだろう。
「そうか、過去を見てきたんだったな」
振り返り、数段先から見下ろす叶斗はどこか寂しそうに視線をそらした。
「僕は全てを知っているわけじゃない。あれを見ることが出来るのは蒼と血の契約を交わした者だけだ。それに…あいつ自身は過去の事はあまり話したがらないからな」
叶斗には知りたくても知ることができない過去。
彼はもどかしげに眉をひそめていた。
何かを伝えるべきか、何から伝えるべきか迷う。
私が見てきたこと。
蒼と茜のこと。
茜と白銀のこと。
心に刻まれた様々な情景を振り返り、胸の奥が苦しくなった。
何が良くて、何が悪かったのか。
誰が良くて、誰が悪かったのか。
そんなの誰にも決められやしない。
小さなすれ違いが大きな歪みを生み出すことだってある。
誰かを憎むことに救いを見いだしたとしても、心の弱さだと責められるだろうか。
誰もが抱く可能性のある闇。
それはやがて復讐という名の凶器を生み出して。
ならば本当の敵は心の中にこそある。
そんなことは叶斗にもわかっているはずだ。
階段を登って真っ直ぐに伸びる廊下に出た時、向こうからポケットに手を突っ込んで歩いてくる態度のよろしくない白衣姿が目に入った。
着衣が上下に分かれた半袖の白衣なのは先刻とかわらないが、龍介ではなくリュウだいうことはさすがに私にもわかる。
首はすっかり治っているようで、いつものように近寄りがたい空気を放っていた。
叶斗の歩みが怒気をはらんで速くなる。
「リュウ!お前っ」
叶斗はリュウの胸ぐらをつかみかかった。
「撃つなんて何考えてる!?」
あわや殴り合いでも始まるのかと思ったが、リュウは面倒くさげに叶斗の手を払いのけただけだ。
「るせぇ。死ぬ気だったのかよ?自己犠牲なんてつまんねぇ傲慢な考えだ」
「っ……」
叶斗は言葉を返せなかった。
自分が命と引き換えに助けたとして蒼はどんな思いをするのか、叶斗にもわからないはずはない。
「別に…あれくらいの生気、くれてやったところで少し休めば回復するだろ…」
やっとそれだけ言った。
「そりゃあ運良く死ななかったから言える言葉だな」
リュウの嘲りの眼差しは叶斗から私へ。
「けど、お前はそいつに救われたな。お前の霊気だけじゃ追いつかなかっただろうぜ」
その通りだった。
叶斗が生気を分け与えなかったら、たぶん私の霊気は全部なくなって命すら危うかったのだろう。
けれど大事に至らなかったのは、私もまた叶斗に救われていたからだった。
「あの…ありがとう」
私は今更ながら叶斗に感謝の言葉を述べずにはいられなかった。
「別に…。一人分の霊気で足りないならもう一人分あればいいと思っただけだ。それで、蒼はどうしてる?」
煩わしげなのはあるいは照れ隠しか、叶斗は話をそらした。
「あんだけ食ったんだ。傷はとっくに塞がってるぜ。傷は、な」
意味深に廊下の先の扉に目をやったリュウは唇の端を持ち上げて暗い笑みを浮かべていた。
蒼の病室の扉に叶斗はノックもせずに手を伸ばす。
取っ手に指が触れるか触れないかくらいだった。
「開けるな!」
強い拒絶。
それは少年の蒼の声だった。
なのにいつものあどけなく可愛らしい印象とはまるで別物で、恐れたわけではないだろうけど叶斗は手を止めた。
「……あの…蒼くん」
「…ごめん。開けないでほしい」
打って変わって語気を弱めた声は、恐れている。
自分で自分を制することができないことを。
私が見てきた過去。
仲間を傷つけて苦しんでいた蒼。
そしてそんな自分が仲間である資格はないのだと里を出たのだ。
「あれは蒼くんのせいじゃ…」
自分を責めないで。
過去の蒼にも言いたかった事。
それを言葉にする前に、叶斗が今度は躊躇いもなく扉を開いた。
「蒼、勘違いするな。僕が大人しく喰われてやったのは借りがあったからだ。これであいこだ。次は簡単に生気をやるつもりはない」
白銀に操られて蒼を傷つけた事、叶斗もまた自分自身を責めずにはいられなかったのだろう。
だから互いにこれ以上自分を責めるのはよそう、そう叶斗は言っているのだ。
暗がりの中ベッドの上に身を起こしていた蒼は一瞬だけこちらへ目を向けてまた逸らす。
「街中でも妖達が暴れ出している。僕達には悩んでいる暇なんてないんだぞ」
今は前に進むしかないのだから。
「僕らが終わらせなければならないんだ」
自らにも言い聞かせるように叶斗は言葉を継いだ。
蒼は僅かに唇を開いて、それでも言葉を押し出すことができない。
自分の手に視線を落としたままでいる。
自らを信じていいのかという迷いがそうさせているように見える。
「私が…私が止めますから!何があっても。私は蒼君を信じます。だから蒼君も私を信じて!私は蒼君の主人なんだから!」
自分を信じられなければ別の物を信じればいい。
彼を止められるのは主人である私。
あの時、声は彼にちゃんと届いていたはず。
だったら誰かを傷つける前に私が止める。
何度だって。
それが式神の主になるということ。
「言うようになったじゃないか」
叶斗の声は小馬鹿にしているようで、けれどどこか嬉しそうな響きがある。
「行きましょう。これ以上悲しむ人を増やさないために」
私の言葉に頷いた蒼は、それでもまだ泣き出しそうな悲痛な面持ちに見えた。
「なんて顔してる?」
言ってベッドに歩み寄った叶斗は蒼へと手を伸ばす。
そして両の頬を摘んで引っ張った。
「なにひゅるんら」
「いつもみたいにヘラヘラしていろ」
驚きに目を見開く蒼にそう言い手を離す。
「なんだよそれ。ヘラヘラなんてしてないよ、失礼だなぁ」
蒼は泣き笑いみたいな表情で屈託のない笑顔とはいかなかったけれど、それでもやっといつもの調子でそう言ったのだった。
水穂が文字通り空気と化し、叶斗の不在が続きました事をお許し下さい。
榊河家の起源であり、蒼の過去編とも言える『蒼と茜』でしたが、終わってみれば予定以上に長くなっておりました(汗)
更新が遅い中お付き合いいただき、ありがとうございました!
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