86:蒼と茜 (16)
「都を守る陰陽師達と都に攻め入ろうとする妖達。幾度も攻防が繰り返されました。やがて人間が妖怪を追い詰めることに成功するまでは」
悠璃の声が急速に遠ざかった。
都ではない場所だった。
都を遙か遠くに臨む事が出来る山の上だ。
昼間にもかかわらず空は暗い。
あたりには倒れたまま動かない妖怪と人間達。
ここに至るまでにどれほどの命が犠牲になったのか考えると、これから私達が直面する戦いと重なって怖い。
それでも――たとえ仲間と敵の屍を乗り越えなくてはならなかったとしても――嵩波と蒼は進むほかなかっただろう。
嵩波と子供の姿の蒼が見上げる高みに白い翼が舞い降りる。
彼が翼となると約束した主を腕の中に抱えて。
京の都で妖怪が言った王の姿がそこにあった。
それを目の当たりにした嵩波は悲しげな表情を浮かべる。
蒼と同じ姿をした少女。
あどけなく、微笑めば可愛らしいであろうその顔は氷のように冷たい印象だ。
それは天狗の里で見た思慮深くどこか寂しげな彼女の表情とも違っていた。
目を引くのはやはり蒼とは逆の右半身の首や頬にぽつりぽつりと浮かぶ鱗状の痣と暗い緑色の右目。
彼女の唇が笑みを形作った。
「その姿は何だ?人間の使役となるために力を捨て、姿が保てなくなったか?それとも私への当て付けか?」
見た目も声もそっくりな相手を茜は醜い物でも見るように色の違う目を細める。
「茜。やはり、お前だったんだな」
対して蒼は妖怪達を率いるのが茜であることに絶望を滲ませつつ言った。
彼の周囲の空気が冷えていくように感じられる。
蒼の中の絶望が憎悪へと変わっていくように。
彼は青年の姿へと変じ、冷たく燃える炎のような瞳で片割れの少女を見つめ返す。
「ほう…姿を変えられるのか。だが、無駄なこと。お前に私は止められぬ」
殺気に近い妖気を感じているはずの茜の声は楽しげですらあった。
その声に応じ、地中から新たな妖怪が姿を現す。
細い手足の小さな妖怪だ。
それが冷たくなった人間の口から身体に入り込む。
気分が悪くなりそうな異様な光景。
倒れていた人達が濁った瞳を半分ほど開いて起き上がった。
「蒼待つんだ!」
嵩波の制止の声は蒼に届かない。
薄暗い中で刃の白々とした光ばかりが閃いた。
その太刀筋に容赦はない。
私はできることなら目を背けたかった。
けれど体がない今の状態ではそれも無理らしい。
蒼が駆け抜けた後の地面には、腕や首や胴が血の海の中散らばっていた。
切り刻まれれば取り憑いた妖怪も体を操ることはできない。
しかしたとえその体に魂はすでに存在せず空の器でしかなくとも、あまりに残酷な仕打ちに思える。 あっという間に茜まで数歩の所に距離を詰めた蒼を水の柱が阻んだ。
水は蒼を絡め捕ろうと大蛇のごとき動きで迫り来る。
斬っても手応えはなく、それでいて絡み付かれれば逃れられないだろう。
しかしたとえそうでも蒼を簡単に捕らえることは難しい。
白銀が手を挙げると森の闇の奥から妖怪達が姿を現した。
「蒼!その子等は操られているだけだ!」
その叫びに、邪魔な妖怪を斬り捨てようとした刀の切っ先が直前で止まった。
白銀に惑わされ自らの意志とは無関係に敵意を向けてくる妖怪達。
京の都の片隅にいた者、嵩波の屋敷にいた者、山でひっそりと暮らしていた者。
白銀は自らの復讐に関係のない妖怪達を巻き込んだ。
むやみに傷付けるわけにはいかない。
一瞬の隙が生まれた。
蒼は水の流れから逃れることができない。
足を絡め取った水の流れはそのまま蒼を飲み込んだ。
「お前は龍の力を拒んでいる。力を受け入れた私に適うはずもなかろう?」
そう言って茜は笑みを深くする。
やがて蒼は苦しげに顔をゆがめ、口から泡を吐き出した。
息が続かない。
水を操れるならそうはならないだろう。
これが茜の言う力を受け入れていないということなのだ。
もがいても纏わりつく水から抜け出すことはできない。
蒼の手足から力が抜けようという時だった、真言が木々の間を駆け抜けて、蒼を助け出すと同時に白銀に操られている妖怪を戒めた。
続けて嵩波が別の真言を唱え始める。
懐から取り出した二枚の御札が光を帯び始めていた。
自由を経た蒼は息を整える間もなく茜に飛びかかる。
さすがに動きは幾分鈍い。
またも水流が彼を捕らえたかに見えた。
だが水は蒼が刀をかざすとぴたりと止まる。
蒼は龍の力を自らの力としたのだ。
水は茜との間に割って入った白銀に襲いかかる。
とはいえ茜がそれを押し留め、力は拮抗していたのだけれど。
今度は茜に隙が生じる。
刃は間違いなく彼女へと振り下ろされるはずだった。
嵩波が真言を唱え終わるのがそれより一瞬早い。
強烈な光を放ちながら御札が飛来する。
蒼は光にはじかれ、空中で何とか体勢を整えて着地した。
膝を着いて、地面に水を吐き出す。
初めて龍の力を使った反動か、かなり辛そうに見える。
「何故…だ?」
ようやく息を整えて、主たる人間を凝視して言った。
妖怪達が敵意を失って散り散りに逃げ去って行く。
白銀が封じられて石に姿を変えてしまったからだ。
茜がいた場所にはそれより少し小さな石。
寄り添う二つの石だけが一瞬で訪れた静寂の中に残されていた。
「空の一族の者と戦わなければならないとわかっていたなら君を連れてはこなかった。相手が君の片割れであるならなおさらだ」
「同情はやめてくれ!あいつは許されないことをした。俺がこの手で――」
「それは憎しみだ」
柔らかな眼差しと、抗えぬ真剣な声で、嵩波は言う。
「憎しみに心をゆだねて戦ってはいけない。それでは何も生まれず、何も終わらないのだから」
憎しみを糧に戦えば自分が傷つくだけ。
今ならなんとなくわかる気がした。
蒼と嵩波とそれを取り囲む風景が急激に遠ざかり始める。
「彼はこの時都を救った功績を称えられ、榊河の名と幾つかの土地を帝より賜りました。その地に茜と白銀を封じ、これを代々守り続けることとなったのです。そして蒼もまた人間の側で妖と人との関わりを見守ることが自らの務めと、長きを榊河と共にあることを選びました」
悠璃のその言葉はぼんやりと頭の中に響き渡り、光がトンネルを逆走しているみたいに小さくなって行った。
文字の羅列が流れて行く。
やがて浮かんで行くような沈んで行くような奇妙な感覚の中で目の前は真っ暗になった。




