85:蒼と茜 (15)
人間と妖怪の境界線。
それは隣り合わせに存在する互いが決して越えてはならないもの。
いや、本来なら越えることのできないものに違いない。
けれど今、都の人々の生活は妖怪達に脅かされようとしていた。
夕日が作る影が濃くなるにつれ鴨川の東側一帯に禍々しい気が漂い始めたのだ。
まだ日が完全に落ちきってもいないのにあんなに暑かった空気がひやりとしたものを含んでいる。
「逢魔が時。大禍時とも言う。昼の光でもなく夜の闇でもなく、魔が濃くなる時間だ」
嵩波の言葉に象徴されるように、それは都を侵略しようとする妖にとっておあつらえ向きの時間だっただろう。
全てが輪郭をぼかす曖昧な時間。
その情景は幻想的ですらあった。
うるさく鳴いていたカラスはいつの間にかいなくなり、代わりにまるで蜃気楼のように妖怪の姿が現れる。
百鬼夜行とはこういうのをいうのだろう。
様々な妖が群をなしていた。
それは嵩波の屋敷にいたような可愛らしいものではない。
「これより先に行かせるわけにはいかぬよ」
嵩波は不適な笑みでも浮かべそうな口調で言う。
「東海の神、名は阿明、西海の神、名は祝良、南海の神、名は巨乗、北海の神、名は寓強、四海の大神、百鬼を避け、凶災を祓う。急々如律令!」
ぶわっと突風でも起こったかのように力の波動が広がって、川に波が出来た。
妖達はまた幻影のようにゆらめいて形を無くしていく。
そこには静けさが取り戻されていた。
「知っていたのか?」
今この時に妖怪達がやって来ることを知っていたのかと蒼は問う。
「いや。予感がしただけさ」
そして嵩波の予感は見事に当たったのだ。
「これで終わりだとは思えないな」
言いながら風の去った方向を蒼は見ている。
「ああ、これは始まりにすぎないだろう。だが、今日のところはもう来まいよ」
都には静かな夜が訪れようとしていた。
鳥辺野の一件から暫くは妖怪達に目立った動きはなかった。
その間に陰陽師達は都の護りを強化することに勤しむ日々で、それは嵩波においても例外ではない。
嵩波は内裏に出向いていた。
日も落ちきって冴え冴えとした月明かりが降り注ぐ時刻。
所用を終えた嵩波がやっと建物から出てくる。
彼は牛車の側で待つ蒼の手に小さな包みが握られているのを見つけた。
「おや、また何かもらったのかい?」
「唐菓子という物だそうだ」
菓子といってもこの頃には高級品に違いない。
どうやら蒼は“子供らしく”を心掛けることにしたようで、にっこり微笑む彼の可愛らしさに宮中に勤める女性などが珍しい物をあげたくなるようだった。
「これがこの国の最も重要な場所…か」
蒼の視線を追って嵩波は頷く。
「蒼はここから先には行ったことがなかったね。今度は一緒に来るかい?」
嵩波は朗らかに言った。
目の前の立派な屋敷はまるでどこまでも続いているようで、ここからほんの一部分しか見えない。
だだっ広い庭を見渡して蒼は可愛らしい顔に似合わないしかめっ面を作った。
「遠慮しておく。気分が悪くなりそうだからな」
目の前に幾重にも張られた結界のことを言っている。
これでもかと張り巡らされた強力な結界は、きっと力の弱い妖怪には近付くことすらできないだろう。
なにしろここは政治の中心であり、この国の中枢ともいえる場所。
そして帝の暮らす、都の最重要施設なのだから。
これほどまでに防御が堅ければ妖怪も容易には攻め入れないのではないかと思った。
他の様々な建物がそこを取り囲むように配置されている。
普段嵩波が勤める陰陽寮もその中の一つだ。
それらを合わせて大内裏と呼ぶ。
電灯なんていうものはもちろんない時代だからあるのは月光ばかりで、逆にそれがとても明るく感じられた。
牛車と小さな人影は月の明かりを頼りに進んで行く。
しかしまだ大内裏から出ないうちに何かの気配を感じて蒼が足を止め、嵩波も牛車から顔を覗かせた。
建物の影になっている場所に目を凝らす。
暗闇に一人の男性が立っていた。
黒い衣の立派な出で立ちで、帯刀しているところを見れば地位の高い武官のようだ。
顔は影になってよくわからない。
それ以前に生きている人間なのかどうなのか、よくわからない不気味な気配を漂わせていた。
嵩波が牛車を降りるとその男は滑るように近付いてくる。
そしてためらいもなく刀を抜いたのだ。
嵩波に向かって構えられた刃。
切っ先が届くにはまだ距離があるが、蒼がわずかに身じろぎをした。
彼はその気になれば一瞬で相手を斬り伏せることくらいできただろう。
しかし嵩波がそれを制していた。
「これは生きた人間の霊だ。もし斬り捨ててしまったら本体が危うくなる」
それは幽霊でもなく、生きている人間の霊体。
何かを強く思うあまり無意識に体を放れてしまったもの。
「この頃の朝廷内には貴族同士の権力争いが頻繁に起こっておりました。あの者はそのただ中にあって負けを目前にしていた。それは負の感情を生み、生き霊となったのでございましょう」
悠璃がそう補足する間にも生き霊は一歩また一歩と進んで来る。
真言が夜の闇に朗々と響き渡った。
しかし目の前の人物は一瞬怯みはしたが消え去りはせず。
また滑るように動いて逃げ去っていく。
追って走る二人。
内裏へと向かっているようだ。
生き霊の黒い後ろ姿が遠ざかるのを見ながらも嵩波は足を止めざるを得なかった。
「来るっ!」
嵩波の気合いにも似た叫び。
言われるまでもなく蒼は青年に姿を変え身構えていた。
しかし刀を抜くことは出来ない。
屋根の上から現れたのは人間であったからだ。
明らかに様子がおかしいその人達はさっきの武官よりは軽装の、下級の貴族とその従者のように見えた。
武器らしい武器は持っていないにも関わらずこちらに近付いてくる。
すがるように手を伸ばしてくるのだ。
その動きは緩慢であったかと思えば突然素早くなる。
人間とは思えない脚力で飛びかかった。
蒼が鞘に収まったままの刀で払いのける。
けっこう強烈な一撃に見えた。
それなのに人間達はまた起き上がってくるのだからなかなか手強い。
「あんたりをん、そくめつそく、びらりやびり、そくめつめい、ざんざんきめい、ざんきせい、ざんだりひをん、しかんしきじん、あたらうん、をんぜそ、ざんざんびらり、あうん、ぜつめい、そくぜつ、うん、ざんざんだり、ざんだりはん」
早口で唱えて嵩波は最後にぱんっと一つ手を打った。
それで倒れたかと思えばまたのろのろと起き上がるのだ。
彼らはただ単に操られているというよりは、何かに突き動かされているような感じで、だから簡単には正気を取り戻すことができない。
繰り返すこと数回。
やがて動きが不自然になってくる。
おそらく身体に限界がきているのだ。
そのうちの一人が絞り出すようにかすれた笑いを吐き出した。
「人間の心は驚くほどに弱い。付け込むのは簡単だ」
人間の口を借りて取り憑いた何かが言う。
「王は仰った。都を手に入れ人間を支配せよと。いくら結界など張っても無駄なこと。都は人間自身の手で闇に染まるのだ」
背筋が寒くなるような笑いを浮かべて。
カクカクと不自然な動きをしていた貴族と従者達が叫び声を上げるように口を目一杯開いたかと思うと黒い闇を吐き出した。
人間の内に潜む心の闇が具現化したかのようだ。
誰もが抱える負の感情が生み出した魔が都の内に妖怪を招き入れることになってしまった。
いや、作り出したというのが正しいだろう。
人間自身が都を滅ぼすというのはあながち大袈裟ではないのかもしれない。
内裏が燃える炎が京の空を赤く染め上げていた。




