49:南の池と封じられた妖怪 (4)
まるで空を飛んでいるような浮遊感だった。
天と地がひっくり返って見える。
このままでは池の中に引きずり込まれそうだ。
池は今や全体が邪魅と化していた。
「僕の言う通りに唱えろ!!」
叶斗が遥かに遠くなった地面から叫んでいる。
そうだ、鏡は私が持ったままだった。
落とさないように両腕でしっかりと抱える。
「ノウマク、サマンダ」
「ノウマク…サマンダ…」
そうして一言一句間違えないようはっきりと叶斗の言葉をなぞった。
「バサラダン、センダマカロシャダ」
「バサラダン…センダマカロシャダ…」
「ソワタヤ、ウンタラタ、カンマン」
「ソワタヤ…ウンタラタ…カンマン…」
続きはなかった。
唱え終わったはずなのに何も起こらない。
肝心なときにまた…。
けれど落ち込んでいる暇はなかった。
触手がくねって私は邪魅の本体へと引き寄せられ、瞬きのうちにそのまま引きずり込まれていた。
黒い池と化し、墨を溶かした水のような邪魅の中を私は漂っている。
たちまち闇に取り込まれてしまいそうなその中で私を護ってくれたのは蒼と叶斗から貰ったブレスレットだった。
ブレスレットに散りばめられた水色の石が発する光が私の周りだけ闇をはじいているかのようだ。
そのおかげか不思議と呼吸ができて、真っ暗なのに何故か遠くまで見通せた。
そこに浮かんでいる人間の姿まで。
たぶん行方不明になっていた人達だ。
どこかの高校の制服らしき服装の男女が一人ずつ。
その手前、数メートル先の空間に光る物があった。
それが何かわからないまま手を伸ばして掴もうと試みる。
もう少し。
指が届いた瞬間に激しい水流が起こったようになって、私は邪魅の中から弾き出された。
駆け寄ってくる叶斗達が見える。
黒い泥が辺りに弾け飛んでいるのを見ると叶斗の術で助け出されたようだった。
「大丈夫か!?」
気遣ってくれた蒼に平気と答えて私は握り締めていた右の拳をゆっくりと開いた。
「それは…」
「邪魅の中にあったの」
ちょうど手のひらに納まる大きさの勾玉が光をはじく。
夕陽のように輝くオレンジ色だ。
「こっちか」
叶斗の考えも私と同じのようだ。
邪魅を封じていた物は鏡ではなくこれに違いない。
「おい二人とも、離れるぞ!」
山城警部に言われて、邪魅がすぐそばまで迫っていることに気づいた。
蒼が邪魅と対峙しているうちに警部に手を引かれ距離をとる。
「その鏡、邪魅にとって大事なもんらしいな」
走りながら山城警部は鏡を指した。
「そうだな。貸せ」
私はおとなしく鏡を叶斗に手渡す。
次の瞬間に鏡は叶斗の手から滑り落ちて地面に転がり、ひびにそって真っ二つになった。
「え!?ちょっと…」
手が滑ったわけではない。
わざとだ。
「蒼!変化はあったか!?」
叶斗が立ち止まり叫ぶ。
「再生しなくなったな」
その言葉通り、邪魅は再生を止め蒼に切り刻まれても黒い塊を散らすばかりになった。
「封じるぞ」
「あ、まって!中に…中に人が」
このまま邪魅を封印したらあの人達はどうなるんだろうか。
「僕と蒼で助け出す。そしたら君は邪魅を封じろ。いいな?」
「や…やってみます」
自信はないけれど。
叶斗が素早く指を組み替え幾つかの印を続けて結ぶ。
真言を唱え二本の指を立てた印を結び前方へ振るった。
鋭い光とともに衝撃波が走って邪魅と化した池から黒い泥を派手に舞い上げる。
蒼が舞い上がった泥に飛び込んだと思ったらすぐに池のほとりへと戻った。
邪魅に取り込まれていた人が助け出されたのだ。
蒼の腕に抱えられぐったりとしていて無事なのかどうかわからない。
わからないけれど今は邪魅を封じるのが先だ。
私は勾玉をぎゅっと強く握り締めた。




