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おみくじ

 その神社のおみくじには、不思議な話がある。取りようによっては、ほぼ怪談、怖い話なのだが地元民は「あそこの神さんは、他と違って怖いものじゃない。それに滅多にないから」と笑う。

 その神社ーー仙桜(せんおう)神社のおみくじには、ごくごくたまに、なにも書いていない白紙の紙が混じっている。しかしそれは仙桜神社の神様からの贈り物で、白紙に願い事を書いて、結んで帰ると、叶う場合は夢に神様が出てくるんだそうだ。残念ながら叶わない場合、想定外にラッキーなことが代わりとして起こるらしい。


 今年度、新社会人になった僕は、入社3ヶ月で鬱病になり、会社を辞めた。


 理由はパワハラ。ブラック企業でもあった。小さな家族経営の会社で、社長と、その娘と息子が常務と専務。他に四人いた社員は血の繋がりはないが、会社の株を持っていたり、社長と親が友人だったりと、縁が深い。


 そしてその全員がクズだった。


 いまでこそ、そう考えることが出来るけど…いやいまでも、僕の心が弱いだけで僕が社会不適合者なんだという罪悪感に苛まれている。

 でも、僕の悩みというか愚痴を聞いた家族や友人が「なんか変…」と違和感を覚え、僕が体調を崩し始めると一気に疑いを深めていき、親戚のおばさんと親友両方から「録音しろ」と目立たないICレコーダーを渡された。僕はもうその時、思考能力がゼロに近かったけど、半分自動みたい感じで、言われるままに録音した。

 結果、録音を聞いた全員が「パワハラじゃねえか!」と僕より先に怒り狂い、殴り込みかけてやる、いやまて先に病院だ!と目まぐるしく事態は動き、いまに至る。


 いろいろあった。


 本当にここに来るまでいろいろあった。


 ただ、僕自身は、なんというか「感情が死んでしまった」ような感じで……疲労となにより自衛のために、心を麻痺させてたんだろうと思う。

 もちろん殴り込みは実行されず、毎日の深夜に及ぶ残業の記録やレコーダーの録音を、退職代行の弁護士に聞いて貰い、内容的に速攻で辞めるのは何の問題もないし向こうがゴチャゴチャ言ってきたら全面戦争できますが、「自分達を戦う目的で雇うより、そのお金を彼の治療費と後の遊ぶ金に使う方が良い。もちろん向こうがやる気なら、やってやりましょう」ということで、僕は最速で縁を切ることを望んだ。実際裁判とかなれば時間もお金もかかる。家族はやる気満々だったが、僕は、僕はとにかく疲れてしまってた。僕は弱いのだ。戦う気迫がないのだ。

 僕はそうして逃げようとしたが、会社はすんなり退職させてくれず、逆に訴えるとか言い出したとき、僕はパニック状態になった。でも「ならばやりましょうか」と弁護士が出ていったら、なんかへにょへにょ引き下がっていったらしい。「ショボすぎて法律がない」と、いつのまにか参戦していた労基の担当者が話していたというのは、結構後になって聞いた。

 つまるところ、ド派手なことをやらかさないかぎり、取り締まる法律がないのだ。ドラマの犯罪者みたいに華麗にかわしていくとかじゃなく、そもそも「犯罪」にとして認められていない。だから法律で裁けない。だからこそ「ハラスメント」なんて括りに入るのだろう。


 それはともかく、僕は運良く、周りが強めの人たちだったお陰で「生き残った」。

 たぶん、独りきりでは、無理だったはずだ。どんな結末かはヒトそれぞれではあるんだろうけど、僕は間違いなく死んでいただろう。


 運が良かった。


 「あんなクソのところに新卒で入ったのに、運が良いわけあるか」と友達から突っ込まれたが、僕には味方がたくさんいた。だからあの地獄から抜け出せた。

 家族や親類、こんなにも素早く動き、暴れ狂ったのには理由がある。

 過去ーーパワハラやブラック企業なんて言葉のない頃ーー僕と似たような状況で自ら命を絶ってしまった縁者がいるのだ。その人が、今の時代に生きていたなら、間違いなく被害者として扱われただろう、と聞いた。僕自身はその人と面識はない。でも、僕よりずっと年上の大人や老境の人たちは、覚えていて、今も悔やんでいる。

『くそ真面目が服着て歩いてるような子だった。だから…あんなことになった』

『正直者や真っ当なものほどバカをみるんだよ』

『やはり殴り込みに行かないか』

 結局、殴り込みは多方面から止められたので実現しなかったが、僕にICレコーダーを渡してくれたおばさんは、わりと本気で鉈(薪割り用=合法)とかシャベル(塹壕戦では最強武器だったらしい)を丁寧に研ぎ、準備万端だったらしい。

 強すぎるくらい血気盛んだ。きっとこの人たちなら入社しても負けなかったんじゃないだろうか。

 僕は負けた。同じ人間で、血も繋がってるのに、僕は心身ともに弱っていくだけで、本当にダメな、生きる価値のない、社会不適合者なんだと思い知らされるようで、心から感謝しつつも、自分自身は弱くて情けないゴミ以下の存在であることが辛くて、恥ずかしくて、消えてしまいたかった。

 もちろん、これはパワハラやその他の暴力被害者が負う心の傷で、間違った考え方であるということは、現在の僕は理解している。

 でもあの頃は、生きているだけで辛かった。消えたかった。涙もでない。なにもかも、弱い僕が悪いのだと自分を責めるか、全く感情がなくなる状態を行き来していた。


「静養と行ったら、大自然だ! バスで一時間ぐらいで行けるし!」


 親族の誰かが言い出して、医者の許可も得て、僕は「大自然」に送り出された。

 本当に、生まれ育った実家のマンションからバスで一時間ほど、川を渡るとそこは、「日本の原風景」の見本のような世界だった。

 いわゆる民宿、小綺麗な和風の旅館があり、古典の「静養」そのままに三ヶ月の逗留をすることになったのだ。

 宿も長期宿泊者は普通らしく、それはこの美しい田畑広がる里山のさらに奥、ほぼ秘境レベルのところに知る人ぞ知る温泉があり、小型のバスで送迎してくれる。温泉地にも旅館はあるものの、予約でいっぱいな上にお値段もだいぶお高いので、ふもとには通いの温泉客のための宿泊施設が多いのだそう。ここ数年で交通の便が良くなったため、それはもう繁盛しているようで、古いけれどピッカピカの民宿だった。


 温泉に行ってみたい気持ちは少しあったものの、僕は疲れきっていて、体が思うように動かない。薬の力を借りなければ眠れないし、食欲もない。それにともない体力や新陳代謝が落ちて、益々不眠も食欲不振が悪化する負のループ。

 医者からは、眠れなくてもいいし、動けなければ動かなくたって良い。やりたいことだけやって、食べたいなと思うものを少しずつ食べればそれで良い。とにかく、「休養をする」のです、と優しく諭されて。

 僕のような状態の人間の中には、いわゆる希死念慮という、自ら命を絶とうとする者もいるが、幸い僕はそんな元気すらない。ちなみに、治ってきたときが実は一番危険らしい…せっかく回復した「元気」を実(・)行(・)す(・)る(・)た(・)め(・)に使ってしまうらしい。あまり周知されてないことだが、家族や親類はきちんとこの辺も警戒していたらしい。

 一方僕は、なんにも考えられず、流されるまま民宿へたどり着き、静養を始めた。

 月に一度のオンライン診察の許可も得たので、わざわざバスで戻るようなこともしなくて良く、薬も民宿へ届く。むしろ診察の待ち時間すらなくなったし、予約時間さえ忘れなければ良い。


 だから僕は、圧倒的な大自然の中の、快適な空間で、三ヶ月過ごすことになったのだ。


 心身の療養が理由の長期滞在は珍しいものでもないそうで、「宿の部屋だけど、自宅の部屋っぽい」不思議な広めの部屋。

 清掃のするしないも、頼めばこちらの自由。ただし、食事の確認だけはされた。たぶん、「療養目的」のお客様は、生存確認も兼ねているんだろうと思う。体が悪い人なら意識を失うこともあるだろうし、心を病んでるなら…いわずもがな。


 僕は最初の二週間ーー会社から「逃げ出してから」ほぼ半年後ーー殆ど宿の部屋で、横になって過ごした。眠っているわけではない。ただ、なんというか、タマゴやサナギのように生きているけど動かない、そんな状態。

 宿の良いところは、食事を用意し片付けてくれるところだ。それだけで、義務的に食べるのも苦痛ではなくなるし、最終的には「味」を思い出すことができた。「食べ物が美味しい」という感覚を、こんなにも意識したことはない。実際、食欲が出てからは、山の幸と川の幸、農家の幸てんこ盛りの、人生でもっとも豊かな食生活だった。たまにジビエ肉を薦められて、最初はなすがまま、最後にはちゃんと味わって食べた。なんと、その辺の山で、地元ハンターが仕留めたもので、畑の野菜をたらふく食べやがったから肉も美味しいですよ、という真の弱肉強食を語る宿のお姉さんの笑顔は、なんというか、忘れがたい。しかも、荒らされた畑は実家で姉が継いでいて、ハンターは妹だという……スゴい土地が、川一本隔てたところにあったことが衝撃だった。ちなみに僕は、イノシシ肉がけっこう気に入った。クマも一度だけ食べたが美味しかった。

 食事の次に良いところは、風呂が広くて、さらに掃除しなくて良いこと。最初はシャワーを浴びるのすら苦役だったけど、回復していくうちに、宿の大浴場でのんびりできるようになった。


 最低限の生命維持に必要なことを供給して貰えたことで、僕は本当に寝て、寝転がって、出された食事を頂いて、シャワーか風呂を好きに使って、「静養」した。


 完全に今までと異なる生活環境、生命が溢れかえるこの土地の力なのか。

 何事にも無感動、無感情で、無力で無様な負け犬の僕にも、ほんの少しずつ、やる気みたいなものが甦ってきた。


 ちょっと、散歩でもしてみようか。


 窓から外を眺めていて、ふと思いつき、僕はフラッと外へ出た。もちろん、宿の受付に声をかけて。目的地とかは特になし。スマホも財布も持たない、完全な手ぶら。

 スーパーやパン屋さんなどのあるあたりは、活気があった。今の僕は、「人が怖い」と感じてしまうので、その活気は眩しさと同時に恐怖も覚えて、僕の足はひと気のないほうへーー緑豊かな方へと向いた。緑とはいっても、季節の野菜が育つ畑や、半野性的な庭木が整った家が連なる道とか、森にしか見えない公園とか。

 最初のときは、10分もしないうちに疲れてしまってすぐ帰った。

 次の日は以前と同じく、横になって過ごした。

 その次の日も。

 さらにその次の日は、タブレットPCにダウンロードしてあったドラマを一気見した。正直すごく楽しかった。

 次の日は横になって過ごした。

 その次の日は、散歩に出た。たぶん20分くらいで戻った。

 ……と、そんな日々が始まり、散歩時間と頻度が増え、溜め込んでいたドラマや映画を楽しむことを思い出し、この映画ちゃんと映画館で見たかったな、と寂しくなったり、散歩も始めたから食事は益々美味しくなり、二ヶ月半ぐらいで、例の山奥の秘湯にも行った。凄かった。ほぼドア・トゥ・ドア。宿泊している民宿の前で小型バスに乗り、途中で他の日帰り客を乗せて、曲がりくねる山道を二時間ぐらいかけて登った。で、ドアを開けたら、竜宮城みたいな豪華な温泉の前。長期滞在客のためのチケットがあったので、実質無料。見たこともない大浴場や露天風呂から上がれば、冷えた飲み物やアイス、それに山と川の幸てんこ盛りのお食事付き。全身全霊ホッカホカでバスに乗って宿へ戻り、久しぶりにそのまま寝落ちしてしまった。


 この三ヶ月で、やっと、楽しい、を取り戻した気がした。

 けれど、元気で健康かといわれたら、そうとは思えない。相変わらず睡眠薬なしで眠れたのは、秘湯の日だけ。

 すり減った「ナニカ」はまだ減ったままで、でも少しずつ取り戻せてはいる、と思う。そんな感じ。


「もしも少し歩きたかったら、オススメのところがありますよ」

 宿のご主人に教えて貰ったのがその神社ーー仙桜神社と、おみくじの逸話。夢に神様が出てくるって、かなりの怪奇現象だと思うのだけど、地元の方々はそういうもんだから、と当たり前のような扱い。昨今のブームに乗って観光地化したいわけでもないらしく、知る人ぞ知る、という神域なんだとか。

 御朱印も実はこってるけどね、と言っていたが、なんというか家族を自慢するような軽いノリ。僕はあんまり詳しくないけれど、御朱印集めという趣味というか流行りがあるのは何となく知ってはいた。御朱印を頂く御朱印帳は持っていないので、健康守りみたいなものでも買おうかなあと思って、参拝してみることにした。



「あ! 激レアのヤツ!!」

 真っ白なおみくじを手に、ぼけっと立っていた僕の背後から、元気いっぱいの女の子の歓声が上がった。

「あらほんと。おめでとうございます!」

 のろのろと振り向けば、そこにはジャージ姿で酒樽を二つ肩に担ぎ上げた十代女の子と、台車に酒樽を乗せた巫女装束の女性。

「あ、あの、これって…」

「それに願い事書いて、あのおみくじ結ぶとこに結んでいけば、ほぼ100パー叶うよ! 全世界を支配したいとか禍々しいのは、怒られるけど」

「姉さん、ボールペン~」

 平然と酒樽を二個担いだ高校生くらいの女の子が、早口で例の逸話の一部を説明してくれ、巫女装束の女性の方は台車を置き去りにして、社務所の方へパタパタと駆けていく。

 ご神体である桜の巨木に参拝した後。僕はちょっとぼんやり大木を見上げてから、社務所を訪れてお守りを買い、おみくじを引いた。

 渡されたおみくじは、裏も表も真っ白。

 おみくじと、病平癒のお守りを授与してくれた社務所の巫女の人も、身を乗り出して「おめでとうございます~!」とクリップボードとボールペンを差し出している。早い。

 さらに奥から初老の男性もわざわざ出てきて「久しぶりに出ましたねえ。おめでとうございます」と顔の皺を深めてニコニコしている。

 戻ってきた巫女さんは、呆然としたままの僕の手からすっと白紙のおみくじをとり、書きやすい分厚くて固めのクリップボードに挟み、ボールペンを添えて、僕の手に戻す。巫女さんは、宿で聞いたのと同じ、この神社の不思議なおみくじの説明をしてくれた。

「あの…本当に…その…」

「本当に仕込みじゃありませんよ! 年に一回出るか出ないかですしね。まあその、科学とか確率とかで分析したら、ヒューマンエラーで白紙が混ざっただけ、とかあり得るのかもですけど」

 若く見えるが、どことなく年齢不詳の巫女さんは、軽やかに笑う。

「あたしが前に見たのは五年前だよ」

「そういえば、幸広くんが引いてたねえ」

 さっきまで両肩に酒樽を担いでいた少女は、社務所の職員専用入口を足で器用に開けて入り、戻ってきて巫女さんが押していた台車から酒樽を担ぎ上げた。明らかにとんでもない光景を見ていたはずなのだが、ぼんやりしていた僕の頭はそんなこと認識できず、今でも夢か見間違いだったのかもと疑っている。なにしろ、あの頃の僕の判断力や記憶力はもろもろの事情で低下していたから。

 すべての事柄に対して、現実味が薄い。この特別なおみくじへのリアクションがいまいちなのも、信じていないというより「感情が動かない」のだ。疑うわけでもなく、驚いて喜ぶこともなく。

「おにーさん、疲れてるんだね。電池切れって感じ」

「ええ、そうみえますね。とてもお疲れなんですね」

 女の子と巫女さんが、気遣わしげに声を落とした。

「うち、病平癒系、めっちゃ霊験あらたかでガチなので、任せてください」

「大言壮語が凄い…でも、ここの神様、人間大好きで優しいし、その白紙おみくじもホントだと思うよ。五年前引いたあたしの家族、叶ったって喜んで、お礼参りしたから」

「お疲れのようですので、願いが叶っても、即いらっしゃらなくて大丈夫ですよ。うちの神様、ちゃんとみてますので」

「そうそう。地元民でないと、ちょっと来るの大変だしねー」

 僕は相変わらず電波状態が悪くて動きの鈍くなったスマホのように、のろのろとボールペンを持ち上げた。

 なにを、書こう?

 なにかを考えるのが、むずかしい。

 頭がぼやけてーーあの日々から逃げ出して、たくさんの人が守って労って癒そうとしてくれても、僕の頭は、僕の心は、動かない。

 動けない。

 動きたいのに。

 やりたいことは、たくさん内側に溢れているのに、外からめちゃくちゃに撲られて蹴られて、歪んで開かなくなった箱みたいに、なにもできない。

 それでも、いわゆる神域のお力添えがあったのか、持ち上がった手は動いて、僕は白紙のおみくじにひとつの願い事を書いた。

 女の子は、書いたことを覗くような真似はしなかったけど、おみくじを結ぶところまで、酒樽を一個平然と肩に担いだまま見守ってくれて、ニッコリ笑うと社務所の中へ入っていった。

 巫女さんも少し離れて見守ってくれていて、クリップボードとボールペンを受け取ると微笑と共に一礼して、業務に戻っていった。

 僕は神社の境内をぐるっと見回して、ご神体である巨大な桜の古木を見上げて、一度頭を下げてから、宿に戻った。


 三ヶ月の完全な静養のあと、さらに一年近く僕は通院を続け、寝込むときもあれば、起き上がって何かをする、を繰り返していた。幸い昼夜逆転や不眠は落ち着いたものの、川を越えて人の喧騒の中に戻ったら、情緒不安定になってしまった。悲しくもないのに涙が出るし、そうでなければ何をする気力もなく一日中ベッドに横たわっていたりする日もあった。

 気分転換に遊びに行こうと何度も誘ってくれる人もいたが、外出そのものが苦痛なうえ、断ることへの罪悪感でもがき苦しんだ。すぐに医者と家族が気付き、しっかりと説明して断ってくれた。いわゆる「遊んでストレス発散!」というのは、健(・)康(・)じ(・)ゃ(・)な(・)い(・)と(・)で(・)き(・)な(・)い(・)ことで、僕のように完全に打ちのめされたような者にとっては、本来楽しいはずのこともダメージになる。


 腕を骨折してる人が、筋力は全てを解決するからと腕立て伏せするようなもの。


 嘔吐し続けてる人に、栄養があるからと食べさせるようなもの。


 見守って、本人自身が「何かしたい」と動き出すのを手伝うこと、言い出しやすい空(・)気(・)を(・)作(・)る(・)こ(・)と(・)ーーそれが、心が疲れきった人の治療に必要なもの。もちろん、状態によっては入院や薬の助けが必要だ。

 なんにしろ、動けない当人が最も辛く苦しいことを、まわりは理解しなくてはならないーーそう、医師や、過去に親族を失った人たちは言っていた。


 僕は幸運だった。


 いや、パワハラは不運だったのだけど、あの場所、あそこにいた人間以外は「まとも」だった。だから、きっととても幸運だった。


 「ねがいごと」も叶ったし。


 目を開けたとき、ああこれは夢だとわかった。

 いつもなら夢は覚えていないか、あの会社にいたときの怖い夢しか見てなかった、あの頃。なんで嫌な夢は覚えているんだか。

 でも、その日は違った。


 そこは深緑の苔に覆われ、大木や大岩が並び、ほんのりと月明かりが差し込む、森の中だった。

 暗いけれど、不思議とほの明るくて、周囲の様子が見てとれる。


ほす、ほす、


 やわらかなものが、苔を踏む、幽(かそ)けき音が背後から近づいてきた。

 僕は、その頃の常と変わらずぼんやりと何も考えず、のろのろ振り向いた。


 そこにいたのは「かみさま」だった。


 たぶん、平常な感性の僕だったら、きっと「ばけもの」と呼んだだろう。

 でも、感情を壊され、心を打ちのめされ、精神にヒビが入っていた僕は「そのおかた」を見ても、なんにも感じなかった。


 まず、とても大きかった。

 全長といえばいいのか、たゆたう尾まで含めると14、5メートルぐらい。だいたい、二車線の道路ぐらい?

 背の高さみたいなのものは、3メートルぐらいで、圧倒的な高さから僕を見下ろしていた。

 全身を覆う、黒い体毛…というか、人間の髪にそっくりな艶やかな漆黒のそれは、長く滑らかに全身を覆っている。

 顔はほとんど髪で隠れているけれど、人というより馬のように鼻先が長くて、髪よりは薄い、無毛の膚をしていて、前髪(?)の間から付き出している。

 やはり馬のように長くて逞しい首があり、鬣のような黒く艶やかで長い毛により、体はよく見えない。

 深い森の影が集まって出来たみたいな、黒くて大きな存在は、滝のような黒髪の下から、何十本もの人間に少し似た七本指の手を、掌をぺったりつけて歩いてくる。

 爪は、人間のような平たい爪ではなくて、かといって犬猫のものとも違うが鋭そうな形をしていたけれど、不思議と危険だと感じなかった。僕が壊れてただけかもしれないけど。

 ゆっくりと、高い位置にあった頭が、僕の目線と同じ位置に降りてきた。目はあわない。黒髪の下に隠れているのだ。

 そして、最前列?の七本指の手ーー普通の人間の二倍ぐらいあるーーが、そっと僕の顔を包み込んだ。



ーーいいこ。



 頭の中に、染み込んでくる「声」。

 大きな、ちょっと固い肌触りの手が、とても優しく頭を撫で、「いいこ」と繰り返す。


 そこで僕は、急に物凄く悲しくなってしまって、その大きな手にすがり付くようにして、泣き出してしまった。号泣したのは久しぶりだった。

 あの会社にいた時や、医者と話すときは不思議なくらい泣かなかった。

 ひとりでいるとき、不意にボロボロと際限無くこぼれ落ちるように無言で泣くことはあっても、声をあげて、泣き喚いたのは、本当に久しぶりだった。

 感情が、息(・)を(・)吹(・)き(・)返(・)し(・)た(・)。

「でも、僕、もっとちゃんとできたら、そしたら、認めて貰えっ……ちがっ……戦ってっ、うっ、言い返して……ちゃんと自分でやらないと……っ、でも、何にもできなくって、僕には無理で、辛くて、情けなくて、恥ずかしいっ、なんでこんなに弱くてダメなんだろう僕、僕は、僕がダメだから、僕が悪い……僕なんか、この世にいらな」



ーーちがう。



ーーわるいこ、ちがう。



ーーいらないこ、ちがう。


 泣き喚く僕の顔に押し当てられたのは、めっちゃくちゃ柔らかなティッシュペーパーだった。花粉症で苦しむ人がせめても、と求める高級ボックスティッシュ。

 頭を撫でる手はそのままに、他の手が、ボックスティッシュを持ち、引き抜いたティッシュで僕の涙と鼻水をぬぐい、ビニール袋を被せた籠式のゴミ入れにびしゃびしゃのティッシュを丸めて放り込んでいく。

 さらに別の手が、いつの間にか爪が掌に食い込むほど握りしめていた指をそっとほどいて、とても優しく握り返してくれた。



ーーいいこ。



 何度も、不思議な「染み込む声」で慰められ、頭と手を撫でられ、涙と鼻水を高級柔らかティッシュで拭われてーーそして、目覚まし時計のアラーム音で目が覚めた。

 僕は泣いていなかった。

 でも、なんだかぱっちりと目が覚めて、そして、

「お腹空いた」

 僕はベッドから出て、顔を洗って、インスタントの味噌汁とカレーと白米を用意して、食べた。


 すごく美味しかった。



 少しずつ時間をかけて回復した僕は、自他共に「良くなった」と認めることができるまでになり、再就職のために動き出した。

 動き出すことができた。

 もちろん、再就職への道はたいへんだった。

 だけど今、新たな会社へ入り、新たな上司と共に得意先へと向かって歩いている。

 新しい就職先は「まとも」だった。むしろ、新卒三ヶ月から二年ぐらい病んでいた僕を受け入れてくれた「優しい正常な企業」だ。

 上司は「わからないことは、何度でも聞いて。でも忙しいときは目がつり上がったりするかもしんないし、メモを取るとかちゃんと努力はしなさいね」何て言うが、実際常に穏やかで、丁寧に教えてくれるし、途中経過も見に来てくれるから、躓くことはあっても、同じことを何度も聞くようなことには、ほとんどならない。手本も示してくれるし、ミスをしても「それは昔やったから、どうすればいいのか熟知してるから」と謎に力強く教えてくれるので、同じ失敗が起きることはなかったし、したとしても他人の手を煩わせること無く自分で修正できた。

 面接のとき、履歴書の空白期間について尋ねられたので正直に話した。これで落とす会社には別にはいれなくていいと開き直っていたからだ。面接官であり、現直属の上司でもある人も、社長や人事もドン引きしていた。だいぶ端折ったのだが、それでも入社三日目で、同じことを聞いたから怒られた件はどう考えてもおかしいと顔をひきつらせていた。やっぱりそうだよなあ。

 若干そんなことを考えたのは、無意識が教えてくれていたのだろう。

 今歩いている道が、その元職場へ向かう道と同じだということに。

「あれ? まだ放置されてる」

「え?」

 上司の声につられて顔を上げ、同じ方向に視線を向けてーー僕は心臓が口から飛び出すかと思った。


 そこは、前職の会社が入っているビル。

 この辺りは築年数が十年くらいの雑居ビルが多く、前職もまあまあの年代を重ねた会社だった。

 記憶から消したかったのだろう、僕はよく見てみるまで、この道も前職の場所もすっかり忘れていた。

 見覚えのある街並み。

 買い物に行かされた、コーヒーチェーン店やお弁当屋さん。数少ない癒やしだったケーキ屋さんと、その隣の喫茶店。記憶が、ぶわっと甦るが、忌まわしい恥辱と恐怖の記憶は、目の前の惨状の前に消し飛んだ。


 会社の入っていた、3階のフロアだけが、真っ黒焦げに焼き尽くされていたのだ。

 不可解なほど、上下の階は無事に見えるし、よく見れば窓の向こうに普通に働く人の影が見える。

「な、なんで? なにが?」

「あ、知らない?……てかあそこか?! 貴方が前いたクソ会社!!」

 愕然とする僕に、上司ははっとしてから、心配そうに眉を下げた。

「あ、大丈夫です。普通に記憶から抹消してたんで」

「そ、そう? じゃあ話しても平気かな。なんか、フラッシュバック?的な感覚きたら止めてね?」

 そう前置きしてから、上司は歩みを止めず、ビルを横目に見ながら話し始めた。

「この前、駅横あたりにあったでっかい廃病院が全焼した事件は知ってる?」

「ああ、それは知ってます。すっかり更地ですよね、今」

「その時、このクソ会社も火事になったんだって。でも消防車全部、廃病院の方行ってたから、ご覧の通り丸焼け」

「え?!」

「噂大好きサトウによると、亡くなった人もいるらしいんだけど、スプリンクラーの定期メンテしてない、消火器置いてない、非常口の前を会社のもので塞ぐっていう、自業自得の極みだったみたい。上下の階に延焼しなかったのは奇跡だよね…煙とか多少の延焼はあったらしいけど、他の階はちゃんとしてたからちょっと燃えただけで済んだらしいよ」

 まあ、それでも賠償金とかエグいんじゃないかなーと上司は少し冷たい態度。僕の過去を知らずとも、諸々アウトなのは間違いなさそうなので、仕方ないだろう……我が社は最新のナンタラがどうしたこうしたと専門用語並べて自慢してたのにスプリンクラーすら壊れてたって……辞めてて良かった。

「でも、廃病院の火事って1週間以上前ですよね? それで、なんでこんな、真っ黒なままなんですかね」

「消防法的にアウトなことしてるから現場検証のため、とかかねえ……あ、あとね、怪奇現象? オカルト系? の噂があるの」

 上司が露悪的なニヤリとした笑いを浮かべる。サラリと死者が出たらしいと言っていたが、しょせん他人事。しかも犠牲者側に問題があるなら、人間はそこに楽しみを見出す。本当に人間の脳はそうできているらしい。例えば殴られた人の写真を見せて、何も説明しなければ殴られた人を心から可哀想と感じるが、殴られた方は不倫をしてましたと説明された途端にいい気味だ!と喜ぶんだとか。

 人の不幸は蜜の味。

「こ、怖い話ですか……よくお昼休みに実話怪談本読んでますよね…?」

「いやいや、ああいう幽霊が襲い来るとか、代々続く呪いとかじゃなくて……なんか、意味不明? 不思議な話?」

「ふしぎ?」

「なんか大量のティッシュペーパーが飛んできて、あのフロアの窓ガラスぶち割った途端に、火に変わったんだって」

「ちょっと情報量多いですね?!」

「私も最初に聞いたとき、ちょっと何を言ってるんですかってなった。でも目撃情報多数で…ほら、病院の火事と消防車の大騒ぎで、外見てた人が多かったから。そしたら、そんなもん目撃しちゃって、見た人も自分の目玉を疑ったって」

「それは…そうでしょうね…え、ティッシュペーパー????」

「最初は、雲とか霧に見えるくらい莫大な量だったらしいよ。でもよく見たら、丸まったティッシュペーパーの軍勢だったらしい」

 怪奇現象すぎる。

 誰かが死んだらしいうえに、こんなトンチキなエピソードまでついてしまっては、なんかもう、どうリアクションしたらいいやら分からない。

 正直なところ、可哀想とは微塵も思わない。

 話しながら歩いていたので、ビルはすでに遠のいた。

 上司も仕事モードに戻って、今から行く得意先の話を始めた。

 僕の願いは叶った。過去の嫌な思い出の場所や、嫌な思いをさせてきた人たちのことなんて、もうどうでもいい。


 仙桜神社の神様は、本当に願いを叶えてくれた。今度の休みに有給を加えて、長逗留した宿と神社にお礼を言いに行こうと思っている。


 僕は、あの真っ白なおみくじにこう書いたのだ。


「次は、ホワイト企業に就職できますように」



キーワード「おみくじ」

バカみたいに長くなり、私も混乱しています……でもキーワードを頂いた時に「あのネタ、本編に絶対出ないから使おう!」とはしゃいでしまい……(とおいめ)


仙桜神社の神様はヒューマンフレンドリーかつヒューマンの扱いにも慣れているので、正気で出会っても発狂したりしません

なんて安心安全な神様!!


ラストのあれですが、「僕」くんの分以外の被害者にもカミサマネットワークで調査を行い、神罰が下りました

でも神罰は罪の浄化ではないので、みんな地獄行きです

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