57_現実
チャイムが鳴ったのは、昼を過ぎてしばらく経った頃だった。
元山優は、ソファに座ったまま、しばらくその音を聞いていた。カーテンの隙間から差しこむ光が、床に細い線を引いている。時間の感覚は、もうずっと曖昧なままだった。出るかどうか、迷うほどの気力もなかった。それでも、二度目のチャイムに背を押されるように、のろのろと立ち上がる。かつては当たり前だった動作のひとつひとつが、いまはやけに重たく感じられた。
ドアを開けると、見慣れた顔があった。
「……久しぶり」
田島修が、少し困ったような笑みを浮かべて立っていた。優は、少しのあいだ、その顔を見返していた。何年も前から知っている顔なのに、いまはひどく眩しく感じられた。
「連絡、全然つかないから。心配になって」
「ごめん。……スマホ、あんまり見てなくて」
「上がっていい?」
「……うん」
*
部屋の中は、少し埃っぽかった。窓際に置かれたペンタブレットには、薄く埃が積もっている。かつては毎日のように手が伸びていたはずのそれは、いまはただの置物のように、静かに机の隅を占めていた。壁際のコルクボードに留められたラフスケッチの数々も、色褪せたまま放置されている。カーテンは、昼だというのに半分閉じたままだった。
田島は、その様子を一瞬だけ見て、何も言わなかった。視線だけが、ほんの少し、痛ましそうに揺れた。
「あれから、どれくらいになる」
「……半年、くらい」
優は、湯を沸かしながら答えた。半年。口にしてみると、随分と短い響きに聞こえた。それだけの時間を、ほとんど何もせずに過ごしてきた自覚はあった。手元がわずかに覚束ない。カップを取ろうとして、指先が縁を滑る。
「無理しなくていいから、座ってろよ」
「大丈夫だよ」
いつもの調子で、そう返す。田島は、それ以上は何も言わず、勝手知った様子で戸棚を開け、自分でカップを二つ用意した。イラストの仕事を始めたばかりの頃、取引先で知り合った相手だった。歳は八つ上になる。もう十年近く、こうして時々顔を合わせてきた仲だ。
「会社、結局あのままだったんだってな。運営、炎上したまま」
「うん。倒産、したって聞いた」
優の声には、それほど動揺の色はなかった。もう、何度も聞いた話のようだった。
「……あの子も、結局、ほとんど世に出ないまま終わったよ」
自嘲するように、小さく笑ってみせる。
田島は、それ以上を聞かなかった。それでも、ふと思い出したように、笑った。
「あの子の目、覚えてるよ。優が徹夜明けで見せてくれた日のこと」
「……うん」
「すごく、良い顔してた。お前も、あの子の話するときだけは」
言いかけて、田島は口をつぐんだ。優は、答えずに、カップの中の湯気をじっと見つめていた。
「手の方は」
「……相変わらず。うまく、握れない」
言いながら、優は自分の右手を見た。指を軽く曲げてみせる。ぎこちない動きだった。机の隅のペンへ、視線が一瞬だけ向く。それを拾おうとは、しなかった。
「事故から、もうそんなに経つのにな」
「うん」
田島の声に、責める色はなかった。それでも優は、小さく肩をすくめた。何かを言い訳するように。
短い沈黙が落ちた。田島は、カップに口をつけてから、努めて明るい声を出した。
「なあ、たまには外、出ないか。気晴らしに」
「……いいよ、今日は」
「前から誘おうと思ってて。海が見える店、見つけたんだ。お前、好きだろ、ああいうの」
「……そうだね。今度、行く」
「無理にとは言わないけど」
「ほんとに、大丈夫だから」
優は、笑ってみせた。うまく笑えているかどうかは、自分でもわからなかった。
田島は、しばらく優の顔を見ていた。それから、小さく息を吐いて頷いた。それ以上は、何も言わなかった。
「……また、連絡するよ」
「うん。ありがとう」
玄関で靴を履きながら、田島が振り返った。
「本当に、無理すんなよ」
「わかってるって」
ドアが閉まる。優は、しばらくそこに立ったまま、動かなかった。
*
部屋は、また静かになった。
優は、ソファに戻り、しばらくぼんやりと座っていた。何かをする気力は、やはり湧いてこない。田島の誘いを断ったことに、後悔はなかった。海の見える店。悪くないと思う。それでも、いまはただ、指の一本も動かしたくなかった。何もしないままの時間だけが、また積もっていく。
窓の外が、少しずつ茜色に染まりはじめていた。
ふと、喉の渇きを覚えた。冷蔵庫を覗くと、飲み物が切れている。特に考えもせず、優は財布を置いたまま、スマホだけを掴んで玄関を出た。サンダルをつっかけただけの、ごく軽い格好だった。コンビニまでは、歩いて五分もかからない。
*
夕暮れ前の道は、いつもと変わらないはずだった。
けれど、角を曲がったところで、優は足を止めた。
——何かが、おかしい。
街灯の光が、二重に滲んで見える。行き交う車の音に、聞き覚えのない別の音が重なっている気がした。低く、獣の唸りにも似た響き。空気そのものが、薄い膜を隔てたように、少しだけ歪んで見えた。舗装された道の輪郭が、水面のように揺らいでいる。
気のせいだと、自分に言い聞かせようとした瞬間だった。
*
視界の端で、何かが動いた。
振り返る間もなく、影が膨れあがる。人ではない。獣でもない。輪郭のあやふやな、黒々とした何かが、こちらへ迫っていた。
逃げなければ。頭のどこかで、警報のような声が響いていた。こんなもの、現実にいるはずがない。そう思う端から、足はもう動いていた。
優は、走った。スマホを握りしめたまま、腕を振る。息が上がる。心臓が、耳の奥で鳴っている。喉が、焼けるように痛んだ。何度も角を折れ、路地へ逃げこむ。追ってくるものの気配は、けれど、少しも遠ざからなかった。
見知った道のはずなのに、どこを走っているのか、もうわからなくなっていた。足がもつれる。それでも、止まれば終わりだという予感だけが、体を動かし続けていた。
やがて、行く手に壁が立ちはだかった。
見覚えのない、狭い路地の突き当たり。錆びついた室外機と、積まれたままのゴミ袋。灯りひとつない、暗がりだった。
——袋小路。
振り返る。黒い影が、ゆっくりと近づいてくる。逃げ場は、どこにもなかった。
背中が、冷たい壁に触れる。優は、それ以上後ろへ下がれなかった。
荒い息の合間に、優は必死に周囲を見回した。逃げ道はない。助けを呼ぼうにも、声が出なかった。
*
震える手から、スマホが滑り落ちた。
かたん、と乾いた音を立てて、足元に転がる。拾う余裕は、もうなかった。
黒い影が、すぐそこまで迫っていた。頭のどこかで、ひどく冷静な自分がいる。ここで終わるのだろうか、と。あの子を、結局最後まで、世に送り出せなかった。それだけが、なぜか、いちばん心残りだった。
頬に、熱いものが伝う。
それが、頬を滑り、顎の先から、滴となって落ちていく。
——音がした。
スマホの画面に、小さな雫が落ちた、その音だった。かすかな、けれど確かな音。優は、それが自分の涙だと、ようやく気づいた。




