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ばぐらび! from Bug&Lavi Project  作者: るーと


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58_ラヴィ

音の余韻は、まだ部屋のどこかに残っている気がした。


誰も口を開かなかった。暖炉の炎が小さく爆ぜる音だけが、静けさの底で規則正しく続いている。ミューのしっぽは動きを止めたまま、ネオンは腕を組んだ姿勢のまま、じっと宙の一点を見つめていた。誰もが、いま聞いたばかりの響きの正体をそれぞれのやり方で測りかねているようだった。


「……ねえ。そういうことって、どういうこと」


沈黙を破ったのは、パッチだった。部屋の片隅から、腑に落ちない顔でこちらを見ている。


「ひとりで納得しないでよ。僕、置いていかれてるんだけど」


「……ごめん」


ラヴィは小さく笑った。それから、胸の前で重ねた両手にそっと視線を落とす。


「誰かが、泣いてるの」


「……泣いてる?」


「うん。遠くで。——ずっと遠くで。たったひとりで」


根拠なんてなかった。それでも、確信だけがあった。あの音を聞いた瞬間、耳の奥にたしかにそう響いたのだ。誰にも届かない場所で、ひとり涙を落としている誰かがいる。


「あの音は」


ヴァグが静かに言った。


「私が目覚めたときにも、聞こえていた」


「わたしも。——いちばん最初に聞いたのが、あの音だった」


ふたりの視線が束の間、交わる。同じ音から始まって、同じ音へ帰ってきた。そのことの意味を、まだ言葉にはできない。それでも、あの響きが遠くの涙なのだと、いまのラヴィには疑いようもなくわかった。


*


「……ふうん」


パッチはしばらく黙って考えこんでいた。それから、まったく別のことを言い出した。


「それはそれとして、さ。僕、前から気になってたことがあるんだよね」


翼を軽く揺らしながら、テーブルのほうへ歩み寄ってくる。その指が、まっすぐにヴァグを指した。


「——なんで、入れたの?」


「……何の話だ」


「容量の話だよ」


パッチの声から、冗談めかした色が消えた。


「僕は、この世界を直すために作られた。だから、ものの大きさは見ればだいたいわかる。——あのね。アストライアっていうのは、この世界を丸ごと組み替えたような存在だよ。データの重さで言ったら、そこらの街ひとつどころじゃない」


ちら、とラヴィを見る。


「その全部と、数えきれないバグの塊。それをまとめて呑みこんで——きみの器は、なんともなってない。……おかしいと、思わない?」


ラヴィは自分の胸元を見下ろした。言われてみれば、あの取りこみのとき、苦しさも軋みも何ひとつなかった。むしろ、あの日からずっと胸の奥は不思議なくらい静かで、あたたかい。


「——道理、じゃな」


それまで黙って炎を見つめていたピアが、ゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥の深紅の瞳が、ラヴィを捉える。


「儂も、ずっと引っかかっておった。ミューを迎えた頃のお前は、バグひとつ喰らうにも輪郭を軋ませておったのに。近頃のお前は、いくら喰うても揺らぎもせん」


「そう、なのかな」


「そうじゃよ。器というものには、必ず限りがある。儂の知る、どんな器にもな。——じゃが」


ピアはそこで言葉を切った。何かを言い当てるのを、ためらうような間だった。


「お前のそれには、底が見当たらん」


「僕の見立ても、同じ」


パッチがあとを引き取った。


「きみの器はね——上限がない、っていうか。……そういう、バグり方をしてるんだと思う」


「……バグ」


低く繰り返したのは、ネオンだった。壁際で腕を組んだまま、眉を寄せている。


「その言葉は、何度も耳にしてきたが。……結局、何なのだ」


パッチは少し考えて、指を一本立てた。


「この世界のものにはぜんぶ、『こうあるはず』っていう決まりがあるんだ。形とか、大きさとか、できることとか。——その決まりが壊れて、あるはずの姿から外れちゃったもの。それがバグ。旅の途中で、たくさん見たでしょ。形の崩れた、虫みたいなの。あれが、そう」


「……あたしも、そうだったもんね」


ミューがぽつりと言った。パッチは軽く頷いた。


「そ。で、きみはいま、その姿でここにいる。——ラヴィの中で、直ったから」


一拍おいて、パッチの指が今度はラヴィへ向いた。


「きみの器は、たぶん『ここまでしか入らない』っていう決まりのところが、壊れてる。——だから、底が見当たらないんだ」


沈黙が落ちた。四人の視線が、示し合わせたようにラヴィへ集まる。当のラヴィだけが、まだその言葉の大きさを掴みかねていた。


「にわかには、信じがたいが」


ネオンが唸るように言った。


「だよねえ。僕も、自分で言ってて、ちょっと引いてる」


「だとして、だよ」


カトレアが長椅子から身を起こした。


「それが、何になるんだい。底なしの器だと、わかったところで」


「——待って」


ミューだった。しっぽの先がぴんと立っている。


「それってさ。……まさか、だけど」


青い目が、ゆっくりと見開かれていく。


「ぜんぶ、入っちゃうってこと?——この世界、まるごと、ぜんぶ」


*


誰もすぐには答えなかった。


その静けさの中で、最初に口を開いたのは、ヴァグだった。


「……ありうる、話だ」


低い声だった。テーブルの上で組んだ手に、視線を落としている。


「私は、ずっと、外への出口を探していた。空の裂け目を、こじ開けようとした。世界を、壊してでも。——だが、どれだけ壊しても、綻びは外へは繋がらなかった」


菫色の瞳が、ラヴィへ向けられる。


「壊すのでは、ないとしたら。——この世界のすべてを、お前という器に、移してしまえたなら」


「外側には、この世界を留めておくものが、なくなる」


あとを継いだのは、パッチだった。


「この世界は、閉じた入れ物なんだ。中身がぜんぶ、きみの内側へ移ったら——空になった入れ物だけが、剥がれて落ちる。あとに残るのは、きみひとり。きみは、外に——こぼれ出る。……はず。正直、僕にも確証はないけどね」


外に。


その言葉が、胸の真ん中にゆっくりと落ちてきた。


ずっと、遠い話だと思っていた。ヴァグの求めた場所。空の線の、向こう側。自分には縁のない場所だと、心のどこかで思いこんでいた。この世界で生まれて——ううん、生まれることさえ、できなかったわたしには。


——誰かが、泣いてるの。


さっき自分で口にした言葉が、胸の奥でもう一度響いた。


あの音のする場所へ、行ける。


「……わたし」


顔を上げる。


「行きたい。——外に」


自分でも驚くほど迷いのない声だった。


「あの音のところに、行きたい。誰かが泣いてるなら——ほっとけないよ、わたし」


一拍おいて、ふ、と息の漏れる音がした。ピアだった。


「……まったく、お前というやつは」


呆れたような、それでいてどこか誇らしげな声だった。


「理屈も危険も、すっ飛ばしおって。——じゃが、先に言うておくぞ。世界を丸ごと喰らうなど、誰もやったことがない。やるとなれば、儂の力を、最後まで流し続けることになる。それでも、何が起きるかは、儂にもわからん。——それでも、やるか」


「うん」


「……即答かい」


カトレアが苦笑した。それから立ち上がり、胸に手を当てて騎士の礼をとった。


「ボクの剣は、きみのものだよ。どこまでだって付き合う。——かわいい子の頼みなら、なおさらね」


「……危険があるなら、なおさら、私が見ていないと」


ネオンが壁から背を離した。短い言葉だったが、それで十分だった。


ミューがラヴィの腕にぽすんと抱きついた。


「あたしはね、最初から決めてるの。ラヴィの行くところが、あたしの行くところ。——世界の外だろうと、どこだろうと」


「みんな……」


言いかけた声が、少しだけ震えた。ひとりで目覚めた、あの暗い洞窟のことをふいに思い出す。名前も知らず、行く先も知らず、ただ歩き出すしかなかった、あの朝のこと。いまは、こんなにもたくさんの手が隣にある。


「僕は、まあ」


パッチが少し離れた場所で肩をすくめた。


「ここまで来て、降りるのも変な話だしね。それに——直す係としては、最後まで見届ける義務があるよ。この世界の、いちばん最後を」


口ぶりは相変わらず乾いていたが、半透明の翼の端がそわそわと揺れていた。


最後に、ラヴィは正面へ向き直った。


「ヴァグも——一緒に、来てくれる?」


ヴァグはわずかに目を見開いた。それから、小さく息を吐いた。


「……愚問だ。私は、もう、お前の内にいる。お前が出るなら、私も出る。それだけの話だろう」


素っ気ない声だった。けれど、その菫色の瞳はまっすぐにラヴィを見ていた。


「行こう。——外へ」


*


目を開けると、崩れた神域の空が頭上にあった。


空を裂く一筋の線が、そこにある。線の向こうの、わずかに色のちがう空も。この景色を見上げるのも、これで最後になるのかもしれなかった。


胸の奥に、みんなの気配がある。ネオンも、ピアも、カトレアも、ミューも、パッチも——そして、ヴァグも。誰も何も言わない。ただ静かに、そこにいてくれる。


ラヴィは両手を胸の前にかざした。


「——おいで」


淡い光が集まり、杖のかたちを結ぶ。瑠璃色の杖身に、金の三日月。その弧に抱かれて眠る、小さな白いうさぎ。星の花束——わたしの心器。


胸の奥へ、そっと呼びかける。


「ピア。力を、貸して」


「うむ。——存分に、やれい!」


手のひらに、あの懐かしい熱が流れこんでくる。ミューを迎えた日から、幾度も借りてきた力。喰らい、迎え入れ、内に生かすための力。


ラヴィは杖を高く掲げた。


光が、あふれた。


杖の先から、見たこともない数の光の頁が舞い上がっていく。わたしの内に眠っていた、数えきれない書物たち。そのすべての頁が、光の鳥のように空へ広がり、大きなひとつの環になる。


世界が、応えた。


遠くの山なみが、ほどけて光の粒になる。崩れかけた神域の柱が、石畳が、宙に浮いたままのかけらが、つぎつぎと輪郭をほどいて光の流れとなり、こちらへ吸い寄せられてくる。壊れたものは、壊れる前の姿に還りながら。残っていたものは、そのままの姿で。


——こわがらなくて、いいよ。


ラヴィは流れこんでくる光のひとつひとつに、心の中で語りかけた。


——なくなるんじゃ、ないの。わたしの中で、いっしょに行くの。


星界が、流れこんでくる。巡りつづけていた星々が、ひとつ、またひとつと軌道を離れ、長い尾を引いて降ってくる。誰もいない庭の、咲いたままの花が。ともったままの灯が。それから、地上の遠い街々が。はじまりの町の、入り組んだ路地が。硝子の国の、ステンドグラスの光が。積まれた石の、小さな墓標が。はじまりの洞窟の、暗がりのにおいまで。


通り過ぎてきた景色のすべてが、光になって胸へ帰ってくる。


——ぜんぶ、覚えてる。ぜんぶ、連れていく。


空が、細くなっていく。


世界のすべてが光になって、わたしという器へ注ぎこまれていく。その流れの真ん中で、ラヴィはただ両手を広げて立っていた。重さは感じなかった。ただ、あたたかかった。まるで世界のほうから抱きしめられているみたいだった。


やがて——最後に残ったのは、あの一筋の線だけになった。


何もない、光の中。線の向こうの、わずかに色のちがう空がすぐそこにある。


音が、聞こえる。


まだ、鳴りやんでいない。あの水滴の音が、長く、長く、尾を引いて——その響きの糸が、線の向こうからこちらへ伸びている。


——泣かないで。


ラヴィはその糸へ手を伸ばした。


——いま、行くよ。


*


黒い影は、もう目の前にいた。


壁に押しつけた背中から、冷たさが染みてくる。膝が笑っていた。声は、もう出なかった。輪郭のさだまらない闇が、覆いかぶさるように迫ってくる。荒い息の音だけが、やけに大きく自分の耳に響いていた。


ああ、と優は思った。


終わるんだ。ここで。


誰にも気づかれないまま。何も残せないまま。描きかけの絵と、届かなかったあの子と——ぜんぶ、置き去りにしたまま。


ごめんね、と思った。誰に向けてなのかは、自分でもわからなかった。それでも、最後に浮かんだのはあの子の顔だった。徹夜明けの朝に、生まれたばかりの線の中からこちらを見上げていた、あの赤い瞳だった。


目の奥が、また熱くなる。


こらえる間もなかった。ふた筋めの涙が頬を伝い、顎の先から滴になって、落ちた。


足元で、また、あのかすかな音がした。


——その、直後だった。


世界が、白く裂けた。


路地の闇を、光が塗り替えていく。目を開けていられないほどのまばゆさだった。黒い影が、びくりと退く。その光の中心——優と影とのあいだに、小さな人影がふわりと降り立った。


淡い色のドレスの裾が、光の名残をまとって揺れる。長い髪。その頭の上に、大きな、長いうさぎの耳。


「——もう、大丈夫」


少女は影を正面に見据えたまま言った。


「助けに、来たよ」


声に応えるように、光がいくつも弾けた。


白い軍服の剣士が、影の前へ滑りこむ。黒ずくめの人影が、いくつにも分かれて路地の壁を駆ける。黒いドレスの小さな少女が宙に幻を撒き、黒い翼の女性が、ゆったりと袖を払う。頭上を、淡く透ける翼が旋回していく。


なに、これ。


優には、何が起きているのかまるでわからなかった。張りつめていたものが切れたように膝から力が抜け、壁を背にずるずるとその場へ座りこむ。わかるのは、ただ——目の前の小さな背中が、自分とあの闇とのあいだに立ってくれているということだけだった。


影が、膨れあがった。


咆哮のような震えとともに、闇のかたまりが腕のかたちを成し、少女めがけて振り下ろされる。


それを——横あいから割りこんだ誰かが、真っ向から受け止めた。


菫色の光をまとった、細い掌。星屑の散った白いドレス。目の前の少女と、よく似た輪郭。受け止めた足元の舗装がみしりと軋む。それでも、その細い体は一歩も退かなかった。


「——構うな」


受け止めたまま、その誰かが短く言った。


「後ろを、見てやれ」


少女が、振り向いた。まっすぐに優のもとへ駆け寄って、膝をつく。


「怪我、ない?」


赤い瞳が、心配そうに揺れていた。優は答えられなかった。声の出し方を忘れてしまったみたいだった。ただ、その顔を見つめることしかできなかった。


少女の肩越しに、光が爆ぜた。


剣の軌跡が闇を薙ぎ、幾重もの影が四方から走り、菫色の奔流がそれらを追い越して、黒いかたまりを呑みこんでいく。咆哮が遠ざかるように細くなり——やがて、夜気に溶けて消えた。


あとには、静けさだけが残った。


*


少女が、立ち上がる。溶けていく光の名残のほうへ、ゆっくりと向き直る。


優はその背中を見つめたまま動けずにいた。


見間違えるはずが、なかった。あの耳も、あの髪の色も、あのドレスの裾のフリルも。何百枚と線を重ねて、何百回と色を試して、この手で形にした——。


震える手が、勝手に動いていた。


足元に落ちたままのスマホを、両手ですくうように拾い上げる。画面の上には、小さな雫が、ふたつ。まだ乾かずに、光を映していた。親指で、そっとぬぐう。うまく力の入らない指が、画面の上を滑る。何千回と開いてきた場所を、指は覚えていた。


画面に、一枚の絵が映る。


あの子の、設定画だった。


真ん中に、笑っている全身のラフ。そのまわりを埋めつくす、自分の書きこみ。色番号。フリルの段数。リボンの結び方。そして——大きな耳から、すっと引かれた一本の線。その先の文字に、勢いよく丸が付けられている。


『大きな耳は遠くで落ちる涙の音を聞き逃さない。』


まさか、と思う。そんな、はずないのに。


震える指先が、その文字をなぞる。まだなんでも信じられた頃の、勢いだけの丸。それが、いま——。


優は、画面から目を上げた。


「……ラヴィ」


掠れた声がこぼれた。


少女が振り返る。


赤い瞳がまっすぐに優を見て——ふわりとほほ笑んだ。


長い耳が、揺れた。


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本作はBug&Lavi Projectという創作群の一環として制作しています。 詳しくはこちら→Bug&Lavi Project公式サイト 関連する楽曲なども公開しております。
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