56_誰もいない世界
騒がしかった空気が少し落ち着いた頃、ラヴィはヴァグと同じ卓についた。まだうっすらと張りつめた空気の残る居間で、ネオンたちもそれとなくこちらの話に耳を向けている。窓辺でも、部屋の隅でもない。椅子を引き、ちゃんと向き合って腰を下ろす。膝の上で両手を重ね、指を軽く組んだ。
「やっと、あなたと、お話が出来て嬉しい」
ようやくひねり出した一言に、ヴァグは怪訝そうに、こちらを見た。
*
黙ったままのヴァグに、ラヴィは少し身を乗り出した。本当は聞きたいことも、話したいことも、たくさんあるのに、いざとなると、いきなり核心に踏みこむのが怖かった。せめて少しだけ、慣らしてから。
「あなたも、人参、好き?」
長い耳がぴょこんと揺れた。うさぎだから、というだけの、単純な理由だった。
ヴァグはわずかに身を引いた。値踏みするように、こちらの顔を上から下までゆっくりと見る。
沈黙が落ちた。
ヴァグはしばらく答えなかった。反応に困っている、というより、意味そのものを測りかねているような沈黙だった。菫色の瞳がじっとラヴィの顔を見つめる。何かの試験でも受けているような、居心地の悪そうな表情だった。
「……人参」
「うん」
「なぜ、いま、それを聞く」
「深い意味はないよ。ただの、世間話」
「……」
ヴァグは、しばし黙りこんだあと、小さく息を吐いた。呆れているのか、単に理解を放棄したのか判然としない仕草だった。
「くだらん」
その一言に、ラヴィは肩を落とした。
「……だめ、だった」
ヴァグがテーブルに軽く肘をついた。前置きなど不要だ、というように、まっすぐにラヴィを見据える。
「お前が知りたいのは」
構わず、ヴァグが続けた。遠回りをする、という発想自体が彼女にはないようだった。
「自分が何者か。という話だろう」
一気に空気が変わった。ラヴィは笑いかけていた頬を、そのまま強張らせた。
「お前は——ラヴィは、このゲームに、生まれるはずだったのに、ついに生まれられなかったキャラクターだ。お前には、過去はない」
平坦な声だった。断罪でも同情でもない、ただ、そこにある事実を差し出すだけの口調。
膝の上で重ねた指先に、思わず力がこもる。ラヴィはしばらく言葉が出なかった。
*
「……うん」
長い沈黙のあと、ようやく声が出た。
「なんとなく、そうだと思ってた」
驚いてはいなかった。むしろ、ずっと燻っていた予感に、輪郭を与えられたような感覚だった。それでも、はっきりと言葉にされると、胸の奥がひやりとした。分かっていたつもりのことと、実際に告げられることのあいだには、思っていたより大きな隔たりがあった。
「パッチに、繋いでもらったとき」
膝の上にあった手をそっとテーブルへ移した。指先をその木目に這わせる。
「みんなの記憶が、どんどん流れこんできて。——でも、わたしの記憶は、何も、なかった」
あのとき覚えた違和感を、いま言葉にしてみる。埋まらない空白。誰の記憶も、誰の痛みも、そこにはなかった。糸を繋いでもらったはずなのに、自分の側の糸だけがどこにも繋がっていなかった。
「みんなには、ちゃんと、始まりがあった。わたしにだけ、なかった」
声が少しだけ震えた。それでも、涙は出なかった。もう驚くほどのことでもない、というように。ただ、長いあいだ抱えてきた空白に、ようやく名前がついた——それだけのことだった。
「じゃあ……わたしは、はじめから、生まれてすら、いなかったんだね」
かすれた声だった。ヴァグはそれを否定しなかった。ただ、静かに見ていた。
*
しばらくして、ヴァグが静かに言葉を継いだ。
「このゲームを遊ぶ、外側の者が操るためのラヴィと。それに敵対する、もう一つのラヴィ」
「二つの、不完全なものが。恐らくは、同時に、目覚めた」
ラヴィは、テーブルに軽く身を乗り出し、じっと耳を傾けた。ひとつひとつの言葉が、これまで漠然としていた輪郭に少しずつ形を与えていくのがわかった。
「そのとき。それぞれの近くに、役目を終えて打ち捨てられていた者たちを、取りこんで。かたちを、成した」
菫色の瞳が静かにラヴィを見据える。
「お前の内には、打ち捨てられていた者たちがいる。——ネオン、ピア、カトレア。——ミューは少し違うが、目覚めたときに近くにいたのは似たような理由だろう。」
ラヴィの中で、何かがかちりと繋がる感覚があった。出会ったときの、あの懐かしいような、それでいて初めてのような不思議な感触。あれは勘違いでも偶然でもなかった。
胸の奥に、小さな棘のようなものが刺さった。打ち捨てられていた、というその響きに、ほんの一瞬——ネオンやピア、カトレア、ミューの顔が過ぎる。彼女たちのことをそんな言葉で片づけたくはなかった。それでも、いま目の前にあるのは、ただの事実だった。テーブルの上で、指先をそっと握りしめる。
「私は——倒された、最後に立ちはだかった者だ」
ヴァグは、そう言って、初めて自分自身の輪郭をなぞるように、掌を胸の前でひらいた。
「アストライア。それが、私自身だ」
重い名前だった。ずっと、伝聞でしか知らなかった名が、いま本人の口から、重みを伴って告げられた。
「……なぜ、そう思うの?」
「形を成すとき、共に取りこまれた、様々な情報がある。——それらを総合し、導いた結論だ」
*
「そうして生まれたお前は」
ヴァグの声が、少しだけ低くなった。
「自分を知るため、この世界を、旅した」
「私は」
言葉を、区切るように継ぐ。
「外の世界を、求めて。この世界を、壊そうとした」
沈黙が落ちる。ラヴィはテーブルの上で、両手をそっと重ねたまま、動かせずにいた。ずっと、まったく別のものを追いかけていると思っていた。けれど、その根っこは驚くほどよく似ていた。何もない自分から、どこかへ辿り着こうとする——ただ、向いた先が違っていただけ。
「——今、ここにいる私たちの他に」
ヴァグが、静かに続けた。
「もう、この世界には、誰もいないだろう」
その一言は、責めるでも嘆くでもなく、ただ乾いた事実として、部屋に沈んだ。ラヴィはその静けさの重さに、息を詰めた。かつて賑わっていたはずの、この世界のすべて。誰かが遊び、誰かが笑い、誰かが泣いた、その痕跡だけを残して。いまここに残っているのは、自分たちだけだった。
——わたしたちだけ。
その言葉が静かに胸へ沈んでいく。ならば、いま隣にいてくれる皆は、何を寄る辺に、ここにいるのだろう。ふと浮かんだ問いを、ラヴィはまだ言葉にできずにいた。
*
部屋の隅では、ネオンたちも身じろぎひとつせず、話に耳を傾けていた。誰も口を挟まなかった。
「——待って」
部屋の片隅から、不意に声があがった。パッチだった。
「外の世界を求めて、世界を、壊す?」
戸惑いの滲む声だった。
「僕には、わからない。データの世界だと、知っているのに。——それでも、外を求めて、壊すなんて」
パッチの声は、珍しく、言葉を探すように途切れていた。理屈では知っていても、その渇望そのものが、パッチにはどうしても実感として掴めないようだった。
ラヴィにも、うまく答えられなかった。ただ、目の前のヴァグの横顔に、その渇望の深さだけは確かに感じ取れる気がした。
*
そのとき。
かすかに——それでも、確かに、小さな音がした。
ラヴィは思わず息を止めた。無意識に、胸の前で両手を重ねる。あの日聞いた、水滴の音に似ている。けれど、それだけではない、もう一つの響きが重なっている気がした。
目の前で、ヴァグの瞳もわずかに見開かれていた。同じものを、聞いている。そう、わかった。
「……この音」
ラヴィは静かに呟いた。ヴァグに向けた言葉だったが、まだ戸惑ったままのパッチにも、その声は届いているはずだった。
「……そっか。そういうこと、だったんだね」
言葉にはならない理解が、胸の奥に、ゆっくりと広がっていく。それが何なのか、うまく言い表せない。それでも、たしかに何かが繋がった。




