55_ばぐらび
見上げた空に、あの一筋の線が変わらずそこにあった。長い旅の始まりから、ずっと見上げてきた、あの線。
両手のひらには、まだあたたかい感触が残っている。腕のなかにあった、あの重みも。
——みんなは、どうしているだろう。
ラヴィは、静かに目を閉じた。
意識が、胸の奥へと沈んでいく。
*
メゾン・ド・ラヴィの居間に降り立った瞬間、ラヴィは足を止めた。
灯りはいつもどおり、暖かく灯っている。長椅子も、丸テーブルも、本棚も、何ひとつ変わっていない。それなのに、空気だけがまるで別の部屋のようだった。
ネオンは壁際に立ったまま腕を組んで動かない。何か言いかけては口を閉じる。それを、もう何度も繰り返しているようだった。カトレアは長椅子の端に浅く腰かけ、膝の上で手を組んでいる。腰の剣に触れかけた指先が途中で止まり、また膝へと戻っていった。ピアはいつもの椅子にいたが、珍しく口数少なく、ただ炎を見つめている。ミューだけが少し離れた場所で、しっぽの先をせわしなく揺らしながらちらちらとこちらを窺っていた。
誰も、それほど長くこうしていたわけではないはずだった。それでも、部屋に積もった沈黙の重さは、そう錯覚させるほど濃かった。パッチの気配も、いつもよりずっと静かに、部屋の隅々——四人と、あの片隅にいる者とを順に見渡しているようだった。軽口のひとつも飛ばさない、その沈黙こそが、いつもと違う証だった。
そして、部屋の隅。
誰もいない片隅に、所在なさげに立つ姿があった。誰とも目を合わせず、床の一点をじっと見つめている。威圧するつもりなど、微塵もないのだろう。それでも、この気を抜いた空気に、どう身を置けばいいのかわからずにいる——その戸惑いだけが動かない表情の下からうっすらと伝わってきた。
誰も、話しかけない。
本人も、話しかけない。
「……なんだこれ」
思わず、声が漏れた。
*
ラヴィは、迷わずその隅へ歩み寄った。歩くたびに、他の四人の視線がほっとしたようにこちらへ集まるのがわかった。誰も最初の一歩を踏み出せずにいたのだろう。
近づいても、もう一人のわたしは動かない。肩がわずかに強張るのがわかった。まだ馴染まない、居心地悪そうな気配が全身から伝わってくる。
「……どういうことだ」
低く、抑えた声。ラヴィは何も言わず、その肩に、そっと手を回した。
びくり、と体が跳ねる。振り払われるかと思ったが、その手は止まらなかった。
「力、抜いて。——ここでは、もう」
「……」
「誰も、あなたを攻撃したりしない。少なくとも、いまは」
しばらく返事はなかった。強張りがほんのわずかに緩む。目を伏せたまま、かすかな声がこぼれた。
「……勝手なものだ、お前は。ひとこともなく」
責めるような響きの奥に、戸惑いと——それでいて、拒みきれずにいる気配が滲んでいた。ラヴィは、そっと笑んだ。
「うん。よく言われる」
肩に回した手にそっと力をこめる。骨ばった体の輪郭が少しずつ、自分のそれと重なっていくような気がした。それでも、まだどこか他人めいて感じられる、不思議な感触だった。
*
沈黙を破ったのは、ピアだった。
炎から視線を上げ、まっすぐにその姿を見る。
「して——アストライア、でいいのか」
問いかけに、その場の空気が張りつめた。その体がゆっくりと顔を上げる。
「……アストライア。それも、私の名のひとつだ」
かすれた、静かな声だった。
「ヴァルフォール=アストライア=グランドクロス。——私の真名だ」
言葉を、ひとつずつ置くように紡ぐ。
「アストライアは、滅んだ。——気づけば、ラヴィという存在と融け合って、いま、ここに在る」
視線が、床へ落ちる。
「存在としては、もう、ラヴィでもあるのだろう。——かといって」
一拍、置いて。
「ラヴィでも、ない。似たような成り立ちで生まれた、というだけで、お前とは違う。……私は、まだ自信を持てずにいる。何と呼ばれるべきかも、自分が何なのかも、もうわからずにいる」
自嘲するような、乾いた響きだった。誰も、何も言えなかった。ラヴィはその言葉の重さを、黙って受け止めた。急いで埋めるべき言葉はきっと、なかった。
*
「じゃあ」
沈黙を破ったのは、ミューだった。ぴょこん、と耳を立て、身を乗り出す。
「ヴァグ、でいいんじゃない?」
「……は?」
「長いもん、その名前。頭の文字とったら、それっぽいし」
あっけらかんとした声だった。その体が、意表を突かれたように固まる。
ぷっと噴き出す声がした。パッチだった。
「……バグ、か。似合いすぎて、笑えない」
「僕には」パッチが続ける。「ちょっと親近感、あるかもね」
からかうような、けれどどこか温かい響き。ヴァグは、しばらく黙っていた。それから、ふっと、口の端を歪めた。
「……それでいい」
自嘲の混じった、けれど確かな笑みだった。
同じ顔の、見慣れたはずの微笑み。それなのに、ラヴィの知るどの表情とも違っていた。翳りを帯びた、それでいて不思議と目を離せない微笑み。
「わ……」
ミューが思わず声を漏らした。頬がほんのりと色づいている。
「なんだか、ずるいね。その顔で、そんな風に笑うの」
カトレアも、小さく息を呑んでいた。慌てたように、視線を逸らす。
ヴァグ本人は、その反応に気づいていないようだった。ただ、少しだけ、居心地悪そうに肩をすくめただけだった。
ネオンだけが、腕を組んだまま、小さく肩を揺らしていた。
「……お前たち、緊張感がないな」
呆れた声だった。それでも、その響きには、わずかな安堵も滲んでいた。
*
呼び方が定まっても、部屋の空気は、完全には晴れなかった。
やがて、ネオンが、腕組みをほどいた。まっすぐに、ヴァグを見据える。
「……ひとつ、聞きたい」
静かな、けれど硬い声だった。
「私たちを殺した相手が、いま、ここにいる。——それを、どう受け止めればいい」
誰もが息を詰めた。ヴァグは目を伏せたまま、何も言わなかった。言い訳をする気配は微塵もなかった。
その沈黙に、ラヴィは、小さく息を吸った。
「……ちゃんと、話す。もう、隠すことじゃないと思うから」
みんなの視線が、こちらへ集まる。
「わたしたちがいる、この世界。——本当は、ゲームなんだって」
「ゲーム……?」
カトレアが、聞き慣れない響きに眉をひそめた。
「……道理でな」
ぽつりと、ピアが呟いた。驚いた様子はない。それでも、その声には、長く抱えてきた疑問の一端がようやく形を得たような、静かな重みがあった。
「なぜ、ラヴィがふたりおるのか。ずっと、うっすらと引っかかっておった。——遊びの世界、か。それなら、腑に落ちるところも、たしかにある」
すべてが解けたわけではない、という顔だった。それでも、長年の澱の一部が、静かに流れ落ちたように見えた。
ミューだけが耳をぺたりと伏せていた。しっぽがぎゅっと体に巻きつく。聞き慣れない言葉に、怯えているようだった。
ラヴィはパッチへと目を向けた。パッチが小さく頷き返す。
「わたしも、少し前に、パッチから聞いたの」
小さく付け加える。あのとき覚えた戸惑いを、いま、みんなも同じように味わっているのだろう。
「あのときは、ひとりで抱えるので精一杯だった。——でも、もう隠しておく理由はないと思う」
*
「外側に、大勢の人がいた」
パッチが、静かに語りはじめた。抑揚のない、醒めた声だった。
「その人たちが、物語を追ったり、動かしたりして、楽しむための——遊びの、世界。それが、ここの正体だ」
「遊び……私たちの命が、か」
ネオンの声に、初めて怒りに似た響きが混じった。パッチは、それを避けなかった。
「そう。——遊びの一部。そのはずだった。彼女たちの死も」
視線が、ヴァグへと向く。
「アストライアは、お前たちのような、ひとりの人物として作られたわけじゃない。——最後に立ちはだかる、舞台装置のようなものとして生まれた。憎まれ、恐れられ、そして倒される——そういう役目に、生まれながらに作られた」
「役目……?」ミューが、ぽつりと呟く。「誰かに、そうさせられてたってこと?」
「うん。そうさせられた。——僕もそうだったみたいに」
パッチの声が、ふっと、翳りを帯びた。
「僕も、選んでこれになったわけじゃない。誰にも呼ばれず、誰にも数えられず——ただ綻びを繕うためだけに作られた。それだけの存在だ」
しん、と部屋が静まった。
カトレアが、静かに口を開いた。
「では……ボクたちの死も。生まれる前から、決まっていた、ということか」
問いには、痛みが滲んでいた。パッチは、目を逸らさなかった。
「君たちは、遊戯の駒として、強すぎた。——盤面を、壊しかねないほどに。だから、盤面から排除される運命を、後から課されることとなった」
一拍、置いて。
「役目の外側で、君たちが積み重ねてきたものまで、決められていたわけじゃない。それだけは、違う」
「彼女も、僕も、生まれたときから、そうであるようにしか、作られていなかった。——それだけは、知っておいてほしい」
低い声が、続いた。
「……庇う必要はない」
ヴァグが、初めて自分から口を開いていた。
「私が、お前たちを傷つけた。事実は変わらない」
短い、けれど、確かな言葉だった。
*
長い沈黙が落ちた。
ネオンは、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「……この世界そのものを仕組んだものに定められ、与えられた役割でしかなかったのなら——恨む先を、間違えていたのかもしれない、とは思う。……それでも、すぐには、割り切れない」
それ以上は、何も言わなかった。ただ、握りしめていた拳を、ゆっくりとほどいていく。
カトレアが静かに立ち上がった。ヴァグへまっすぐに歩み寄る。
「……ボクは、護りたかった仲間を、あの日、失った。——その原因が、いま目の前にいる。正直、まだ、うまく飲みこめてはいない」
声は震えていなかった。ただ、静かに、事実を確かめるような口調だった。
「それでも」
一拍、置いて。
「生まれながらに、そうとしか作られなかった、というのなら——ボクもまた、恨む相手を間違えていたのかもしれない」
ヴァグが初めて、顔を上げた。菫色の瞳がまっすぐにカトレアを見つめる。
「……お前を殺したのは、私だ。それは、事実として変わらない」
「うん。忘れるつもりも、ない」
カトレアは、まっすぐに見返した。
「それでも——どういうわけかボクもこうしてここにいるように、いまここにいる君を、これ以上は憎めそうにない、」
ヴァグは、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……勝手に、決めればいい」
「勝手にさせてもらうよ」
カトレアが小さく笑う。ヴァグはそれ以上何も言わず、また視線を伏せた。
*
ピアが、ゆっくりと立ち上がった。長い時を生きてきた者の、静かな重みのある足取り。
「儂は千年、独りで生きてきた。——いや、そう作られたのか。だとしても、恨みも憎しみも、抱えて生きるには、あまりに長い時間じゃ」
炎を見つめながら、続ける。
「罪があるとしても——それは、背負わされたものじゃ。それだけで、すべてを決めつけるのは、あまりにも哀しかろう」
ヴァグは、何も言わなかった。ただ、その言葉を、黙って受け止めているようだった。
ネオンが大きく息を吐いた。まだ、完全に納得したわけではない。それでも、握りしめていた拳から少しだけ力が抜けた。
「……理屈では、わかった。気持ちが、追いつくかは、別だが」
「誰かに、こう思えと、押しつけられるものでもなかろう」
ピアが、静かに笑った。
「あちらに、もう、争う気はない。——ならば、あとは、各々が、各々の間合いで、受け止めていけばよい」
部屋の空気が少しずつ変わっていくのがわかった。カトレアの指先はもう剣に触れようとしない。ネオンの肩からも、強張りが抜けている。完全に晴れたわけではなかった。それでも、確かに、何かが動いていた。
*
そのとき。
「……ヴァグ」
ミューがぽつりと呼んだ。しっぽの先がまだ落ち着かなく揺れている。
「あたしね。逃げたの、覚えてる。——あんたが怖くて」
ヴァグの視線が、ミューへ向く。
「あたしも、虫の姿になって、傷ついて、わけもわからなくて。——ラヴィに助けてもらうまで、どうにもできなかった。だから似てるのかな、って、思った」
小さな声だった。それでも、まっすぐに届く声だった。
「そうさせられてただけなのに。誰かに、憎まれる役目だけ、押しつけられて。——それ、すごく、苦しかったんじゃないの」
ミューの声が、かすかに震えた。
「あたしだって、最初は、誰にも、名前すら、呼んでもらえなかったから」
ヴァグの喉が、小さく鳴った。何か言おうとして、けれど、声にならない。
菫色の瞳が、大きく揺れた。
「……知った風なことを」
かすれた声。強がりだと、誰の目にも明らかだった。
ミューは、それ以上何も言わなかった。ただ、そっと歩み寄り、両腕を伸ばした。
躊躇なく、その体を抱きしめる。
「っ……」
ヴァグの体が大きく震えた。突き放そうとする力はすぐに失われていった。
「……なんで」
「なんとなく」
ミューが、笑う。泣き笑いのような、くしゃくしゃの表情だった。
「あたしがされて、嬉しかったから。——それだけ」
その一言で、堰が切れたようだった。ヴァグの目から、涙がこぼれ落ちる。しゃくりあげるような、抑えきれない嗚咽が静かな部屋に響いた。ミューもいつのまにか、同じように泣いていた。
ラヴィは、そっと二人に歩み寄った。
大きく腕を広げ、震える二つの体を、まとめて抱きしめる。
「……よかった」
それだけしか、言葉にならなかった。
しばらくして、ヴァグが、鼻をすすりながら呟いた。
「……次は、先に言え。抱きつく前に」
強がりの滲む憎まれ口だった。それでも、その声に刺々しさは、もうなかった。
ミューが涙目のまま、くすっと笑った。ラヴィもつられて頬を緩める。
部屋の隅にあった、あの重たい静けさは、もう、どこにもなかった。




