54_ひとりぼっち
「私は——寂しかったのか」
その一言のあと、しばらく、誰も動かなかった。
風だけが、崩れた瓦礫のあいだを静かに吹き抜けていく。ラヴィは手を止めず、傷だらけの体に光を送り続けていた。腕のなかで、その体はまだかすかに震えている。
菫色の瞳が、ゆっくりと宙をさまよった。何かを探すような、それでいてどこにも焦点が結ばれない、ぼんやりとした動きだった。指先が力なく地面をなぞる。何かを掴もうとして、掴みきれずにいるように。
「……ずっと」
かすれた声が、ぽつりとこぼれた。
「ずっと、何かが足りないと思っていた。埋まらない。満たされない。——それが、何なのか、わからないまま」
言葉を、ひとつずつ確かめるように紡いでいく。まるで、初めて使う道具の扱い方を、手探りで覚えていくようだった。
「私は、それを正さねばならないと思った。——外のすべてが、この孤独な存在を愛するべきだと」
菫色の瞳が、わずかに、ラヴィのほうへ動く。
「けれど、それは——愛されたい、という、ただの願いだったのかもしれない」
初めて聞く、本人の声だった。ラヴィは何も言わず、ただその言葉を静かに受け止めた。急かしてはいけない。急かされて出てくる言葉ではない。そう、わかっていた。かわりに傷ついた手をそっと握った。
*
けれど、静かな時間は、長くは続かなかった。
「……っ」
ラヴィの掌の下で、傷口から、またうっすらと血が滲みはじめる。呼吸が、さっきよりも浅くなっていた。胸が小刻みに上下する。菫色の瞳の焦点が、ふっと揺らいで消えた。
「——待って、まだ、だめ」
慌てて光を強める。両手に力をこめる。けれど、あたたかい光は傷の表面をなぞるだけで、その奥までは届かなかった。折れた指の骨は、まだ歪んだままだった。焼け爛れた肌の下、何かが正しくない場所にある気がした。
何度も何度も、光を送りこんだ。汗が、こめかみを伝う。それでも、傷はこれ以上塞がろうとしなかった。
「このままじゃ……」
声が震える。手のひらが汗ばんでいた。時間がないのかもしれない。そう思うと、指先まで冷たくなっていく。
*
「——ラヴィ」
低く、静かな声だった。ピアだった。
「お前の顔を見れば、もう、決めておるのがわかる」
ラヴィは、はっと顔を上げた。ピアの深紅の瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。責めるでも試すでもない。ただ、見透かすような静かな眼差しだった。
「ミューのときのように、一から説くつもりはない。お前は、もう知っておる。——ただ、ひとつだけ」
ピアは、傷だらけの体へ視線を落とした。
「あのときとは違う。ミューも、パッチも、意識のないまま取りこんだ。じゃが、こやつには、まだ意識がある。——ならば、儂らが勝手に決めることではなかろう」
その言葉にラヴィは息を呑んだ。指先が、腕のなかの体をそっと抱き直す。
「本人に、聞け。委ねるのは、こやつ自身の心じゃ」
*
カトレアが静かに、腰をあげた。レイピアを、鞘にゆっくりと収める。金属の擦れる澄んだ音が響いた。
「——ボクとピア殿は、先に、内側へ戻っておくよ」
「え……」
「万一、内側で、また事が起きたときのために。誰かが、備えておく必要がある」
穏やかな声だった。それでも、その目には油断のない光が宿っていた。剣士として、最悪の事態をいつも頭の片隅に置いている——そういう目だった。
「それに」ピアが続けた。「ミューには、儂から、ちゃんと話しておいてやろう。——いきなりで驚かせとうはないでのう」
ラヴィは、こくりと頷いた。二人の気遣いが、じんわりと胸に染みた。
「……ありがとう」
「なに」ピアが静かに、笑みをこぼす。「儂らは、お前の決めたことを信じておる。——時間は、そう長くはなかろう。悔いのないようにな」
カトレアも、最後に、傷だらけの体へ目を向けた。すぐには何も言えないようだった。仲間を、命を奪った、その大本の力。憎んでも、憎みきれるものではない。それでも——ラヴィが選んだ道だった。カトレアは、こみあげるものをそっと呑みこむように、目を伏せた。
「……ボクにも、まだ、よくわからない」
やがて、絞り出すように、それだけを言った。
「それでも、君がそう決めたのなら。——ボクは、君を信じるよ」
やがて、二人の気配がすうっと胸の奥へ、溶けるように消えていく。あたりに、また静けさが戻った。
その場に残ったのは、ラヴィと、腕のなかの、もう一人だけだった。
*
ラヴィは震える手をそっと、その頬に添えた。裂けた傷の残る、それでも自分と同じ輪郭の頬。冷たくなりかけている、その感触に胸が締めつけられた。
「……聞いて」
菫色の瞳が、うっすらとこちらへ向く。
「わたしの内側に、迎え入れたい。——このままじゃ、あなたは消えてしまう。でも、わたしの中でなら、生きられるかもしれない」
言葉を選びながら、続けた。
「ミューも、パッチも、そうやっていま、そこにいるの。——痛くはない、はず。ただ、少し不思議な感じがするだけ」
菫色の瞳が、ゆっくりと瞬いた。まつ毛に、うっすらと乾いた血の跡が残っている。
「……それは」
かすれた声。
「私に、選べというのか」
「うん」
ラヴィは、まっすぐに頷いた。頬に添えた手に、力をこめる。
「無理には、しない。——あなたが、いやだと言うなら、それまで」
初めて、他人から与えられた選択だった。裁くのでも裁かれるのでもない。ただ、問われている。菫色の瞳が、しばらく宙をさまよった。理解できないものを、それでも懸命に掴もうとするように。
ラヴィは、じっと待った。急かしたい気持ちを、ぐっと呑みこむ。頬に添えた手だけが、かすかに震え続けていた。
*
長い沈黙のあと。
「……わからない」
ぽつりとこぼれる。
「わからないが——お前になら」
言葉が、そこで、いったん途切れた。それから、ひどく、かすかに。
「私も——お前と、話が、したい」
まぶたが、ゆっくりと閉じていく。かすかに頷くような動きがあった。拒む力も、もう残っていなかったのかもしれない。それでも、その一言には、たしかに本人の意志が宿っていた。
*
ラヴィは、大きく息を吸いこんだ。
胸の奥へ、そっと呼びかける。
「——ピア。力を、貸して」
「うむ」
短く答えが返る。もう、内側に戻っているはずだった。それでも、その声は変わらずはっきりと聞こえた。
目に、ふっと赤い色が宿る。吸血鬼の眼。牙は立てなかった。そっと両手を、その胸のあたりに重ねる。手のひらから、脈打つようなあたたかい流れが生まれた。
「ごめんね。——勝手で」
小さく囁いた。
「でも、いなくなるより、ずっと、いい」
あたたかいものが、掌から流れこんでいく。触れた場所から輪郭が、淡い光の粒へとほどけていく。傷だらけだった体が少しずつ、淡く透きとおっていった。こぼれた光の粒が、ラヴィの胸へ、ひとひら、ひとひらと吸いこまれていく。
最後に残った、菫色の光の粒が、ふわりと宙に浮かんだ。それは、ためらうように、しばらくそこに留まっていた。まるで、まだ決めきれずにいるかのように。
それから、静かに——ラヴィの胸へと、溶けていった。
*
崩れた神域に、静けさが戻った。
風が、瓦礫のあいだをゆっくりと吹き抜けていく。さっきまでの雷鳴も閃光も、どこにもなかった。ただ、灰色の空と砕けた石畳だけが、そこに広がっている。
ラヴィは、しばらくその場に立ち尽くしていた。両手のひらに、まだあたたかい感触が残っている。膝が、がくりと折れそうになった。それでも、どうにか両足で立ち続けた。
胸の奥に、たしかな重みがあった。ミュー、ネオン、ピア、カトレア、パッチ——そして、いま、もうひとつ。
ラヴィは、静かに顔をあげた。
見上げれば、ひび割れた空に、あの一筋の線が変わらず、そこにあった。長い旅のはじまりから、ずっと見上げてきた線。
風が、静かに頬を撫でていった。
ラヴィは、ひとり、崩れた神域に、いつまでも立っていた。




