07_窮地②
ピキピキの上に、ラヴィは覆いかぶさった。
本当は、抱えて逃げるつもりだった。いつものように、この小さな体を腕に抱きこんで、脱兎で一息に駆け抜ける。そのつもりで、すり鉢の底へ飛びこんだのだ。
——けれど、間に合わなかった。
たどり着いたときには、もう、崩れた天井のかけらが、すぐ頭の上まで降りかかってきていた。抱えあげて、向きを変えて、走りだす。その、ほんの一瞬の間さえ残されていない。いま背を向ければ、腕の中の無防備な体に、容赦なく石の雨が突き刺さる。
だから、ラヴィは考えるよりも先に、覆いかぶさっていた。小さな体を、両腕ですっぽりと包みこむ。背を丸め、首を縮め、頭を伏せて、自分の体をまるごと盾にする。
次の瞬間、衝撃が降ってきた。
崩れ落ちた石が、背を打つ。肩を打つ。地から湧きあがった黒い虫が、腕に、脚に、わっと群がってくる。触れられたところから、自分という形が、ぼろぼろと削られていくみたいだった。ラヴィの体の輪郭が、ぐにゃりと歪み、じじ、と音を立てて明滅する。——出会ったばかりのピキピキが、傷ついてちらついていたのと、おなじように。
痛い。
たしかに、そう感じた。それでも、腕の力はゆるめなかった。
この子だけは。腕の中の、この小さなあたたかいものだけは。何があっても、傷つけさせない。
体の奥が、逃げろ、と叫んでいた。脱兎で跳べ、と。——でも、できなかった。脱兎は、地を蹴って一息に跳びだす力。けれど、ピキピキを抱きこんで丸くなったこの体勢では、地を蹴る隙も、跳ぶ間もない。絶え間なく降りそそぐ石が、ラヴィを上から押さえつけて、身じろぎひとつ許してくれない。逃げたくても、いまは、逃げられなかった。
ならば、耐えるしかない。ラヴィは歯を食いしばり、小さな体を抱きしめたまま、降りそそぐ衝撃に、ただ身をさらしつづけた。
衝撃が、また降る。輪郭が、また歪む。背中の痛みが、だんだん遠くなっていく。音がひいて、視界が薄れる。意識が、白い霧の向こうへ、すうっと引きずられていく——
その、霞んでいく意識のずっと奥で。
頭の上の空気が、ずん、と重くなった。
ひときわ大きな天井の塊が、ぎしり、と嫌な音を立てて傾いだ。伏せた背に、ひやりと大きな影が落ちかかる。——来る。とてつもない質量が、いま、ふたりをまとめて押し潰そうと、ゆっくり傾いてくる。
逃げなきゃ。
そう思うのに、体が動かない。意識が、遠すぎる。手も脚も、自分のものじゃないみたいに重くて、痺れて、いうことを聞かない。
だめだ——
そう覚悟しかけた、その刹那だった。
体の、いちばん奥の奥で。
何かが、応えた。
ヒールでも、脱兎でもない。それより、もっと深い場所。ラヴィ自身も知らない、いちばん底のほうから、知らない「何か」がぶわっとせり上がってくる。熱とも力ともつかないその奔流が、ラヴィの体の隅々まで一息に満ちた——次の瞬間。
ラヴィの体は、自分の意思とはまるで関係なく、ひとりでに跳んでいた。
崩れた巨塊が、さっきまでふたりのいた場所を、地を揺るがす轟音とともに押し潰す。砕けた石の破片が、四方へ雨のように跳ね散った。
気づけばラヴィは、数歩離れた床の上に、ピキピキをしっかり抱えたまま、尻もちをついていた。
——いまの、なに。
自分で跳んだんじゃない。体が、勝手に動いた。まるで、誰かべつの人が、ラヴィの体を内側からひょいと操って、危ないところから抱えて運び出してくれたみたいに。
その「何か」を、もういちど掴もうと、体の奥へ手を伸ばしてみる。けれど、それはもう、どこにもなかった。ひとすじの霧みたいに、跡形もなく散ってしまっている。
ラヴィは、ただ呆然としていた。
まわりでは、あいかわらず広間が崩れつづけている。降りそそぐ石。きしむ柱。群がる虫。何ひとつ好転していない。それなのに、頭がまるでついていかなかった。いまの跳躍は、なんだったのか。あの力は、どこから湧いてきたのか。問いばかりが、ぐるぐると空回りする。
そのときだった。
声が、した。
頭の中——いや、もっと内側。胸の、ずっと奥のほうから。
「……どうして、自分のことを後回しにするの」
女の声だった。
低くて、静かで、すこし棘がある。叱りつけるような響き。けれど、その奥に——隠そうとして隠しきれない心配の色が、たしかににじんでいた。
ラヴィは、息を呑んだ。
誰。
崩れる石の下、群がる虫の中で、ラヴィは思わずあたりを見まわそうとした。けれど、見るまでもない。この声は、外から聞こえてきたんじゃない。自分の内側から。胸の奥のいちばん深いところ——さっき知らない「何か」がせり上がってきた、ちょうどあのあたりから、聞こえてきたのだ。
そんなはず、ない。ここには、自分のほかに誰もいない。ずっと、ずっと、ひとりきりだったのに。
「呆けてる場合じゃ、ないでしょう」
声が、鋭くなる。
「左。あの、倒れかけた柱の陰。——いまっ」
考えている暇はなかった。理屈も、わからない。それでも、ラヴィの体はその声にすなおに従っていた。ピキピキを抱えたまま、左へ。崩落で倒れ込み、底に斜めに突き刺さった太い石柱——その陰へ転がりこむ。
直後。さっきまでラヴィがうずくまっていた場所に、また別の天井の塊が、轟音とともに叩きつけられた。
「出口は、ひとつ。あそこ」
その声に導かれるように、ラヴィはすり鉢のふちの一角へ目をやった。たしかに、そこには外へと続く通路の、暗い口があった。——けれど。崩れ落ちた瓦礫が、その口の前にうずたかく積み上がって、すっかりふさいでしまっている。とても、通り抜けられそうにない。
絶望が、ラヴィの胸をよぎりかけた。
「だいじょうぶ。——あの瓦礫の山、まだ崩れきってない。次のひと揺れで、いちどにずり落ちる。なだれた拍子に、ほんの一瞬だけ、人ひとり分の隙間が開く。そこを、抜けるの」
ほんとうに、そんなことが起こるんだろうか。
問い返す暇もなかった。地の底から、ひときわ大きな揺れが、どん、と突き上げてくる。積み上がっていた瓦礫の山が、ぐらり、と傾いだ。そして——ずず、ずずず、と地響きを立てて雪崩れ落ちる。山だった石が、低く平たく広がっていく。その崩れの一角に、人ひとりがやっと身を滑りこませられるほどの暗い隙間が、ぽっかりと口を開けた。その奥に、外へと続く道がちらりと覗いている。
「いまっ。脱兎で——隙間が、ふさがる前に」
ラヴィは、その隙間めがけて地を蹴った。胸に、あの言葉が浮かびあがる。脱兎。体がふっと軽くなり、風になる。降りそそぐ石を、群がる虫を、ぜんぶ後ろへ置き去りにして——なだれたばかりの瓦礫の、その細い隙間を、一息にすり抜けた。
抜けた、すぐ後ろで。
地鳴りのような轟音が、どっと膨れあがった。土埃を含んだ生あたたかい風が、背中を強く押してくる。すり抜けたばかりの隙間も、たぶん、あの広間まるごとも、いま、いちどに崩れ落ちていく——振り返らなくても、その音と、足の裏に伝わる震えだけでわかった。
ラヴィは、暗い通路をただ前へ、前へと駆けた。やがて、行く手がぱっと明るくひらける。背後の地響きを置き去りにして、ラヴィはその明るみへ、勢いよく飛び出した。
止まろうとした。けれど、駆けてきた勢いは、そう簡単には殺せない。急に止まった足が、勢いについていけずにもつれる。ラヴィはそのまま前へつんのめって、地面へ投げ出された。何度か、ごろごろと転がって——ようやく、うつ伏せに止まった。
しばらく、動けなかった。
荒い息が、自分のものとは思えないくらい大きく鳴っている。背中も肩も、じんじんと熱を持って痛む。輪郭は、まだ、かすかにちらついたままだった。
それでも——生きていた。ふたりとも、欠けることなくここにいる。
ラヴィは、のろのろと身を起こした。そして、まっさきに腕の中をのぞきこむ。
ピキピキは、ぐったりとしていた。さっき、すり鉢の底で打たれた石の傷が、まだ癒えていない。弱々しい明滅を、ただくりかえしている。
ラヴィは、一刻も早くと、震える手のひらを、そっと、その小さな体にかざす。
「ヒール」
手のひらから、やわらかな光がこぼれた。小さな体をふんわりと包みこむ。乱れていた明滅が、すこしずつおだやかになっていく。歪んでいた輪郭が、もとのまるい線をゆっくりと取り戻していく。
やがて、ピキピキは、ふるりと身を震わせて——ふわり、と宙に浮かびあがった。
もう、だいじょうぶ。
「……よかった」
ラヴィは、ほっと肩の力を抜いた。
宙に戻ったピキピキは、けれど、すぐにはいつもの調子に戻らなかった。ラヴィの背のあたりを見て、おろおろと、まわりを飛びまわりはじめる。ちらついて、うまく定まらないラヴィの輪郭に気づいたのだ。あなたのほうが、傷ついてる。そう言いたげに、しきりに顔の前を行ったり来たりする。
「……あ」
その様子に、ラヴィはようやく気づいた。
そうだ。——わたしも、傷ついていたんだった。ピキピキのことで頭がいっぱいで、自分が痛いことすら、すっかり忘れていた。
ラヴィは、ふっとちいさく笑った。それから、自分の胸のあたりに手のひらをかざす。
「ヒール」
やわらかな光が、こんどはラヴィ自身をつつみこむ。背中の熱い痛みが、すうっと引いていく。ちらついていた輪郭が、しだいに、もとのはっきりとした線を結びなおしていった。
「ほら。——わたしも、もう平気。心配かけて、ごめんね」
そっと、ピキピキのまるい頭をなでてやる。ピキピキは、ようやく安心したように、ラヴィの頬にぴたりとすり寄った。
——と。
ラヴィは、ふと思い出した。
あの声を。そして、自分の体をひとりでに動かした、あの力を。
空耳でも、気のせいでもない。確かに、あった。この胸の奥の、いちばん深いところに。
ラヴィは、もういちど、そっと自分の胸に手を当てた。
ずっと、空っぽだと思っていた。名前も、過去も、思い出も、なんにもない。空っぽのまま、この世界にぽつんと放り出された——そんな自分。
ついさっき、あの広間で思い知らされたばかりだった。たくさんの光の中に、自分のことを探して、探して、どこにも見つからなくて。この世界のどこにも、自分の居場所なんてありはしないんだと。誰の記憶にも残らず、どこにも属さず、ただ、ひとりきりなのだと。
——なのに。
ここに、誰かが、いる。
わたしの、ほかに。この、空っぽだったはずの胸の、いちばん奥に。
その気づきは、さっきまで負っていたどんな傷よりも深く、ラヴィの何かを揺さぶった。自分は、空っぽじゃなかった。ひとりじゃ、なかったのかもしれない。
こわい、とも思う。知らない誰かが、自分の中にいるなんて。——でも、それよりもずっと、ほしかった気がする。ひとりじゃない、ということが。この胸のなかに、ちゃんと、だれかがいてくれる、ということが。
ラヴィは、胸に手を当てたまま、おそるおそる、その内側へ呼びかけた。
「……だれ?」
その小さな問いが、胸の奥へ、ことり、と静かに落ちていく——




