08_声
「……だれ?」
そう胸の奥へ問いかけてから、しばらく、返事はなかった。
ラヴィは、つい、あたりを見回した。崩れかけた通路の入口。さっき転がり出た、明るい広場のような場所。——けれど、やっぱり、誰もいない。ピキピキのほかには、何も。
そうだ。さっきの声は、外から聞こえたんじゃなかった。
——と、目の前を、ピキピキが、せわしなく横切った。
さっきから、ピキピキは、ずっと落ち着かないようすだった。崩落から命からがら逃げのびて、ラヴィが傷を癒やしてからも、すぐそばを、ふわふわと行ったり来たりしている。そのうえ、ラヴィが急にあらぬ方を見回したり、ひとりで宙に話しかけたりするものだから、よけいに気が気でないらしい。だいじょうぶ? 頭でも打った? とでもいうように、つぶらな目を不安げに揺らして、しきりにラヴィの顔をのぞきこんでくる。
「……だいじょうぶだよ、ピキピキ。ほんとに、なんでもないの。ちょっとだけ、待ってて」
ラヴィが、できるだけやさしく笑いかけても、ピキピキは、まだ納得がいかないように、こてん、と首をかしげるばかりだった。
ラヴィは、もういちど、声の主に呼びかけた。
「ねえ。……ねえってば。さっき、聞こえたでしょう? いるなら、返事して。ねえ」
返事は、ない。それでも、ラヴィは、あきらめなかった。何度も、何度も、根気よく呼びかけつづける。
——と。やがて、しぶしぶと、その声は、やはり内側から返ってきた。
「……しつこいやつ」
低くて、ぶっきらぼうで、どこか警戒のにじむ調子。それでも、たしかに、さっき崩落のなかで聞いた、あの声だった。
ラヴィが、思わずまた宙へ顔を向けて口をひらきかけると、声が、すかさず釘を刺した。
「外を見るな。……キミの、中だ」
言われて、ラヴィは、そっと自分の胸に手を当てた。手のひらの下、いちばん深いところ。——やっぱり、ここだ。あたたかい鼓動の、もっと奥のほうに、たしかに、その気配があった。
「……あなたは、だれ?」
もういちど、今度は声に出さず、内側へ向けて問いかける。
短い沈黙。それから、声は、ぴしゃりと撥ねつけた。
「言う必要はない」
取りつく島もない。けれど、ラヴィは引き下がらなかった。知りたかった。この、自分のいちばん奥にいる誰かのことが。
「じゃあ……どうして、わたしの中にいるの?」
その問いに、声の調子が、ふと変わった。さっきまでの、つんと張りつめた強がりが、すこし、ゆらいだ。
「……わからない」
え、とラヴィは、まばたきをした。
「わからない、って……」
「私にも、わからないんだ。なんで、こんなところに……キミの中に、いるのか。気がついたら、ここにいた。それだけだ」
ぶっきらぼうな言葉の底に、ほんの一瞬、迷子になった子どものような心細さが、にじんだ気がした。
ああ、とラヴィは、なんだかほっとした。この声も、わからないことだらけなのだ。わたしと、おなじように。そう思うと、胸の奥にあったちいさな身がまえが、すうっとほどけていった。
「……ねえ。名前は? あなたの、名前」
「それも、言う気は——」
「わたしは、ラヴィ」
声をかぶせるように、ラヴィは言った。
「ラヴィっていうの。だから——あなたの名前も、教えてほしいな」
また、沈黙。今度のは、さっきよりもずっと長かった。声は、答えるかどうか、迷っているみたいだった。ラヴィが、急かさずに、ただ根気よく待っていると——やがて、観念したように、ぽつりと、それは落ちてきた。
「……ネオン」
ネオン。
その響きが、ラヴィの胸の、空っぽだったはずのところに、ことり、とちいさな音を立てて落ちた。
「ネオン」
そっと、口に出してみる。なじみのない音のはずなのに、なぜだか、しっくりときた。さっきまで、ただの「声」でしかなかったものが、たったそれだけのことで、「ネオン」という、確かな存在になる。
「ネオン、か。——よろしくね」
「……よろしく、じゃない」
ネオンは、ばつが悪そうに唸った。けれど、もう、名乗ってしまったあとだった。
ラヴィは、胸の奥が、じんわりとあたたかくなるのを感じた。
目を覚ましてから、ずっと、ラヴィはひとりだった。光に触れても、声たちは、ラヴィを見てはくれなかった。水槽の魚も、市場の賑わいの記憶も、みんな、ラヴィのいない世界の話ばかりで。どれだけ問いかけても、誰ひとり、振り向いてはくれなかった。
それなのに、この声は——ネオンは、ぶっきらぼうでも、ちゃんと、ラヴィの問いに返事をしてくれる。名前まで、教えてくれた。たったそれだけのことが、ラヴィには、自分でも驚くくらい、嬉しかった。
ふと、ラヴィは思い出した。さっきの、あの力のことを。
「ねえ、ネオン。さっき、わたしの体が、ひとりでに動いて……崩れてくる石から、助かったでしょう。あれって、もしかして」
「あれは、私の術だ」
ネオンは、こともなげに言った。
「ラヴィが、その子に覆いかぶさったまま、気を失いかけてたからな。あのままじゃ、ふたりとも、潰されてた。……仕方なく、体を借りて、動かしてやった。それだけのことだ」
それだけ、とネオンは言う。けれど、あの一瞬がなかったら、ラヴィも腕の中のピキピキも、いまごろ、あの石の下だった。
ラヴィは、胸の奥へ向かって、ふかぶかと頭を下げた。
「……ありがとう、ネオン。助けてくれて。ほんとうに」
その、まっすぐすぎる感謝に——次の瞬間。
「なっ……」
ネオンの声が、わかりやすく裏返った。
「れ、礼なんか、いらないっ。か、勝手にやっただけだって、言ってるだろ! へ、変な感謝の仕方を、するなっ。調子に、乗るな!」
さっきまでの、低く張りつめた強がりは、どこへやら。あたふたと言いつのるその声は、急に、ずっと幼く、やわらかくなって——叱っているはずなのに、なんだか、すごく、可愛らしかった。
ラヴィは、こらえきれずに、ふっと笑ってしまった。
こわい声で、つんけんしているけれど。——もしかしたら、この子は、ただ、素直になるのが、苦手なだけなのかもしれない。そんなふうに、思えた。
——と。
ラヴィが、何もない宙に向かって、ひとりでくすくす笑いだしたものだから、ピキピキが、とうとう本格的に、おろおろしはじめた。
ぴゅうぴゅうと心配そうな羽音を立てて、ラヴィのまわりを、ぐるぐると飛びまわる。額のあたりに、ぴたりと身を寄せてくる。熱でもあるんじゃないか、と確かめるみたいに、すりすりと擦りつけてくる。さっき傷ついたばかりの相手が、今度は、誰もいないところを見て笑っている。ピキピキにしてみれば、気が気でないのも当然だった。
「あ……ごめんごめん」
ラヴィは、あわてて、その小さな体を両手でそっと包んだ。
「だいじょうぶ。ほんとうに、どこも、おかしくないよ」
うまく、説明はできない。この子に、胸の奥の声のことを、どう伝えればいいのか、ラヴィにも、わからなかった。だから、ただ、できるだけやさしく、もう一度くりかえす。
「心配かけて、ごめんね。——もう、へんなふうには、笑わないから」
ラヴィの声の、おだやかな響きと、両手のぬくもりに、ピキピキは、すこしだけ安心したらしい。あいかわらず、不思議そうにはしていたものの、ぐるぐる飛びまわるのは、ようやく、やめてくれた。
ひとしきり慌てたあと、ネオンは、ごまかすように声を硬くした。
「……とにかく、だ。もう、あんなふうに、無茶をするな」
「むちゃ?」
「自分の身を、いちばん後回しにするな、って、言ってるんだ。……さっきのラヴィは。あんなの、ただ、見ているだけでは、いられなかった」
最後のほうは、ぶっきらぼうなのに、どこかふりしぼるような声だった。
どうして、と、ラヴィは思った。会ったばかりなのに。名前を、知ったばかりなのに。どうしてこの子は、こんなにもわたしのことを、心配してくれるんだろう。
「……どうして、そんなに心配してくれるの?」
問いかけると、ネオンは、しばらく黙りこんだ。
それから——ふいに、こらえきれずにこぼしてしまったみたいに、言った。
「……ラヴィは。なんだか、昔の知り合いに……ちょっと、似てるんだ」
その声は、さっきまでとはまるで違っていた。低くて、静かで——どこか、深い痛みを、じっとこらえているような。懐かしさと、それから、もっと別の、名前のつけられない何かが、かすかににじんでいた。
「その人は、どんな人だったの?」
ラヴィが、そっと訊くと、ネオンは、それきり答えなかった。固く、固く、口を閉ざしてしまう。きっと、訊いてはいけないことだったのだ。ラヴィは、それ以上は訊かなかった。
ただ——ネオンの声に残った、あの翳りのことが、しばらく胸から離れなかった。どんな人なのかは、わからない。けれど、ネオンにも、ラヴィの知らない大切な誰かが——失いたくない誰かが、いたのだ。それだけは、痛いくらい、確かに伝わってきた。
ふたりのあいだに、しばらく、しずかな時間がながれた。ピキピキのかすかな羽音だけが、すぐそばで、ふわふわと響いている。
ラヴィは、しばらく考えてから——おそるおそる、切り出した。
「ねえ、ネオン」
「……なんだ」
「また……お話、できる?」
短い、間。
ラヴィは、どきどきしながら待った。せっかく、ひとりじゃないと分かったのに。もし、この声が、もう二度と、返事をしてくれなかったら。そう思うと、胸の奥が、きゅっと心細くなる。
やがて、ネオンは、ふい、とそっぽを向くみたいに言った。
「……まあ。好きに、しろ」
突き放すような言い方。でも、それは、いやだとは言っていなかった。——気のせい、かもしれない。けれど、その「好きにしろ」には、どこか拒みきれない、やわらかな色が混じっているようにも聞こえた。
ラヴィの胸が、ぽっと、灯がともるみたいにあたたかくなる。
「……うん。ありがとう、ネオン」
それきり、ネオンは、もう何も言わなかった。けれど、もう、寂しくはなかった。返事がなくても、そこにいる。黙ったまま、すぐそばにいてくれる。それが、分かるから。
ラヴィは、もういちど、そっと自分の胸に手を当てた。
ずっと、空っぽだと思っていた。この、いちばん奥に。——ネオンが、いる。
そう思うと、ふいに、ひとつの問いが浮かんできた。
——わたしと、ネオンは、いったい、どういう関係なんだろう。
どうして、ひとつの体に、ふたりでいるんだろう。ネオンは、なぜ、わたしの中に。そして、わたしは——いったい、何者なんだろう。
考えても、答えは出ない。けれど、その問いは、不思議と、いやな感じはしなかった。むしろ——空っぽだと思っていた自分の中に、知らない奥行きが、ひとつ加わったような。そんな、あたたかくて、ふしぎな心地だった。
「……行こうか、ピキピキ」
ラヴィが立ち上がる。ピキピキは、まだ少し心配そうに、ラヴィの顔を見上げていたけれど——それでも、ラヴィがちゃんと笑ったのを見て、ようやく、ふわりと、いつもの定位置、かたわらの宙へと戻ってきた。
知らないことは、まだ山ほどある。自分のことも。ネオンのことも。この世界のことも。
それでも、ラヴィはもう、ひとりじゃなかった。
すぐかたわらで、ふわふわと羽音を立てる、ピキピキ。胸のいちばん奥で、ぶっきらぼうに見守ってくれる、ネオン。——どちらも、ラヴィにとっては、おなじくらい、大切な、旅の仲間だった。
ラヴィは、ふたたび歩きだした。胸を満たすのは、もう、あの空っぽの心細さではない。にぎやかな旅になる——その予感だけが、これから続く道の先を、あたたかく照らしていた。




