52_気付き
崩れかけた石柱の合間を抜け、宙で二人は向きあった。寸分たがわぬ格子の地平と、断ち切られた塔の残骸が、はるか眼下に広がっている。ひび割れた空だけが、すぐそばにあった。
菫色の瞳が、こちらを見据えている。逃げも隠れもしない、まっすぐな視線だった。剣を握る手にも、掲げられた光の環にも、寸分の揺らぎも見せていない。
「——失せろ」
短く、それだけだった。
言い終わるより早く、剣が、まっすぐに振り下ろされる。ラヴィは、翼を翻してそれをかわした。刃の生む風圧が、頬をかすめて過ぎる。すれ違いざま、菫色の瞳の冷たさが、間近に見えた。
この高さも、もう恐れている場合ではなかった。ここまで来たなら、できることは、すべてやる。
心臓が、痛いくらいに鳴っていた。それでも、足はすくまなかった。仲間の力を借りてなお、ここへ来ると決めたのは、自分自身だった。引き返す理由なんて、どこにもない。
*
斬りかかる——そう見えた姿が、次の瞬間、ふっと霧のように解けて消える。ミューの力を借りた、まやかしの一手だった。狙いどおり、菫色の瞳が、わずかにそちらへ引き寄せられる。
その隙に、分身が二体、左右から同時に斬りかかった。ネオンの技を、自分自身の体に宿したものだった。挟みこむように迫る、二つの刃。
弾かれる。片手をひとひねりしただけで、両方とも、あっさりと。分身の姿が、霧のように霞んで消えた。
すかさず、手のなかで剣がルミナスの光弧を描いた。振り下ろされた斬撃を、その光の盾で受け流す。逸らした流れのまま、光を消し、素手の拳を叩きこんだ。ピアの怪力を借りた、渾身の一撃だった。
——けれど、届かない。振り抜いたその拳は、片手であっさりと掴み取られていた。万力のような握力に、骨が軋む。
逃れる間もなく、掴んだ掌に、光が集約していく。
「——ライラック」
至近で放たれた菫色の奔流が、腕を伝って全身を呑みこんだ。世界が、真っ白に灼ける。吹き飛ばされる感覚すら、追いつかなかった。
*
気づけば、崩れた大地に、めりこんでいた。ラヴィの形をした穴が、ぽっかりと空いている。
「ラヴィ!」
ピアの声。駆け寄る足音。カトレアの気配も、すぐそばにあった。
土煙のなか、ラヴィは、自分の手にヒールの光を灯した。傷を塞ぎながら、ゆっくりと、穴の底から這い出す。よろけながらも、二本の足で、しっかりと立った。
「……お主。丈夫にも、なったのか?」
ピアが、困惑したように問う。至近であの一撃を受けて、五体満足で立っていること自体が、たしかにおかしかった。
「……やっぱり、おかしい」
ラヴィは、ぽつりと呟いた。さっきの、あの近さで感じた、うまく言葉にならない違和感——それが、また、頭をもたげてくる。
もう一人のわたしは、力加減している。
翼を、もう一度ひらいた。答えを探すよりも先に、確かめなければならないことがあった。
*
「傷つけたいわけじゃ、ない」
息を整えながら、ラヴィは言った。
「——聞く耳は、持たん」
短く、切って捨てられる。取りつく島もない。それでも、剣が振るわれるたび、ラヴィは、その隙間を縫うように、言葉を差しこみ続けた。
「話が、したいだけなの」
「——邪魔だ」
「わたしのこと、覚えてる? 最初に会ったとき、あなた、わたしの名前を——」
「——過ぎたことだ」
刃が、また閃く。かろうじて避けながら、それでも、退かなかった。
「どうして、そんなに、頑ななの」
「——お前に、関係ない」
「関係、あるよ。だって——わたしたちは」
「同じ顔でも、同じ声でも。お前と、私は違う」
言い切ると同時に、剣が、大きく弧を描く。かろうじて身をよじって避けた。
「違わないよ。だって、あなたも」
「うるさい」
低く、それだけだった。振り抜かれた剣先が、肩をかすめる。裂けた布地の下、うっすらと血が滲んだ。痛みよりも先に、拒まれた事実のほうが、深く沁みた。
それでも、ラヴィは、退かなかった。息が、上がっていく。目の前が、ちかちかと霞む。それでも、言葉だけは、止めなかった。
「ねえ。——お願いだから、聞いて」
「——何度も、言わせるな」
苛立ちの色が、その一言に、はっきりと滲んだ。剣筋が、いっそう鋭くなる。かろうじて、翼で軌道をそらす。すれすれのところを、白刃が通り過ぎた。
反撃に転じる間もなく、二の太刀、三の太刀と続く。ラヴィは翼を細かく打って、宙を縫うようにかわし続けた。旋回のたび、視界がぐるりと回る。頬に、腕に、いくつもの浅い傷が増えていった。それでも、足を止める理由にはならなかった。
*
「わたしも」
打ち合いの合間、息を継ぐように。
「わたしも、独りだった。目が覚めたとき——誰も、いなかった。名前も、思い出も、何もなくて。ただ、崩れていく世界に、ひとりで立っていたの。声をかけてくれる人も、いなくて。——だから」
一度、言葉を切る。それでも、続けた。
「あなたの寂しさが、少しでもわかる気がするの。——だから、話が、したいの」
もう一人のわたしは、動きを止めた。剣を構えたまま、彫像のように。
風だけが、二人のあいだを吹き抜けていく。
「……なぜ」
言葉が、ひとりでに、こぼれ落ちたようだった。それきり、続かなかった。誰に向けたのかも、判然としない、掠れた響き。
ラヴィは、息を呑んだ。
一拍、二拍。長い沈黙が、落ちる。菫色の瞳の奥で、何かが揺らめいて、また、静まっていくのが見えた。
「いま、なにか、感じたんじゃない?」
そっと、けれど、まっすぐに問いかける。
「——知らん」
踏み消すように、短く。声そのものは、乱れていなかった。それでも、剣を握る指先が、白くなるほど強張っているのが見えた。
それでも、ラヴィは、もう一歩、踏みこんだ。
「ほんとうに、そう思ってる?」
「……黙れと、言っている」
声が、わずかに低くなる。もう、取り合うつもりはない——そう告げるような、硬い響きだった。
*
もう一人のわたしは、こちらを見据えたまま、後方へ、大きく間合いを取った。ラヴィを振り払うように。
構えた両手のあいだに、これまで見たどれよりも密度の高い、菫色の光が満ちていく。渦を巻くように、幾重にも重なりながら膨らんでいく光。あたりの空気が軋むように歪み、遠く、崩れかけた石柱がひとりでに震えはじめた。空気そのものが重く沈んでいくのがわかる。肌がびりびりと痺れるようだった。
決着を、つけるつもりだ。
力で示すしかない——そう決めたような、迷いのない構えだった。それは、拒絶であると同時に、何かから逃げるようにも見えた。
さっき、駆け寄ってくれた二人の顔が、脳裏をよぎる。あの二人も、ここまで一緒に来てくれた。ひとりじゃない。だから、逃げない。
ラヴィは、手のなかの《星の花束》を、ぎゅっと握りしめた。翼を大きくひらいて、真正面から、その光を見据えた。




