51_雷
揺れている。
菫色の瞳の奥に、たしかに。それだけを確かめて、ラヴィは息を止めた。
風もない静けさのなか、二人は、まだ睨みあったままだった。攻めてくる気配もなく、去っていく気配もなく。ただ、時間だけが、重たく積もっていく。
退くつもりはなかった。
ラヴィは、大きく息を吸いこんだ。
「あなたは——」
声が、震えないように。けれど、はっきりと。
「アストライアなのね」
答えは、なかった。
かわりに、掲げた手のひらに、一振りの剣が、音もなく形をなした。
姿が、掻き消える。
「——っ」
背後に、気配。振り向くよりも早く、白い刃が振り抜かれる。
「——今は」
耳もとで、低く。
「ラヴィだ」
とっさに、体をひねりながら、手のなかで《星の花束》が姿を変えた。ルミナスの刃が、間一髪、体をかすめる一撃を受け止める。火花にも似た光が散り、腕に痺れるほどの衝撃が走った。
「ラヴィ!」
ネオンの声が、鋭く裂けた。カトレアが、駆け寄ろうとする気配。ミューが、悲鳴にならない声をあげる。
弾きあったまま、二人は、至近で睨みあった。同じ高さの視線。同じ顔。
考える間もなく、体が離れる。
もう一人のわたしは、剣を引くと、興味を失ったようにこちらから視線を外し、そのまま、宙へと舞いあがった。
*
空気が、変わった。
菫色の瞳のまわりに、光の粒子が集まりはじめる。淡い光の粒は最初はほんの数えるほどだったのに、瞬く間に数えきれないほどに増えていった。
見慣れた、同じ顔。同じ髪。同じ体つき。何ひとつ、変わっていない。それなのに——その輪郭のまわりに、見たことのないものが、次々と生まれていった。
左右には、天秤を象った小さな光の意匠がいくつも宙に浮かびあがる。腕のまわり、裾のあたり、ゆらゆらと揺れながら、まるで何かを——罪の重さを量っているように。頭上には、後光にも似た環が幾重にも重なって広がっていく。ひび割れた空を透かして、それは静かに輝いていた。
別のものに、なったわけではなかった。同じ姿のまま、内側から溢れ出したものが、その輪郭にまとわりついていく。それが、かえって恐ろしかった。見知った顔が、見知らぬ力をまとって、こちらを見下ろしている。鏡のようだったものが、いま途方もなく遠い。
肌を刺すような重さが、あたり一帯に満ちていく。踏みしめた足の裏から圧そのものがじわりと伝わってくる。息をするだけで肺の奥がきゅっと縮こまるようだった。
それでも——ラヴィの胸の奥だけに、うまく言葉にならない何かが、小さく引っかかっていた。さっきの、あの近さ。あの一撃の重さ。それが、いま見上げているものと、どこかそぐわない。何が引っかかっているのか、ラヴィ自身にも、まだわからなかった。
*
「……ほんとうに」
ピアが、低く呟いた。囁くように。驚きではなかった。もっと重たい、確かめるような響き。わかっていたことが、いま目の前に据えられただけだった。
「来るぞ」
ネオンが、刃を構えなおす。
すぐそばで、ミューの気配がふるえた。怯えてラヴィの陰に身を寄せる。いつもの、怯えて引っこむ気配とは何かが違う。縋りつくように服の裾を、ぎゅっと掴む手があった。
——見覚えが、あった。
井戸の光に触れた、あの日。流れこんできた、ミューの記憶。空を灼いた、まばゆい一条の雷。同じものが、いま頭上にある。
知らなかったわけではなかった。それでも、いざ目の当たりにすると体の芯から、冷たいものがこみあげてくる。ミューが竦んでいる理由が痛いほどわかった。
守らなきゃ。
考えるより先に、体が動いていた。
見上げるほどの高さで、掲げられた剣の切っ先に、白い光が集約されていく。見る間に、それは、まばゆい一条となった。
落ちる。
「——散れ!」
ネオンの叫びが、耳をつんざく。四方へ跳ぶ、いくつもの分身。カトレアが、レイピアを頭上へかざす。
間に合わない——はずだった。
とっさに、手のなかで《星の花束》がまばゆく脈打った。姿を変えることなく杖身のまま、振り抜いた先から光が奔流のように溢れ出し、頭上いっぱいに大きな弧を描いていく。まるで繭のように、みんなを包みこんでいく。
雷が、その光の盾に触れた瞬間——眩い火花を散らしながら跳ねかえった。弧を描いて空を裂き、軌道ごと大きく逸れていく。落ちるはずだった一撃は、遠く離れた瓦礫の山を代わりに撃ち抜いた。
「……お主、そんなことまで、できるのか」
ピアの声に、驚きが滲む。
「わ、わかんない……! なんか、勝手に……」
ラヴィ自身、何が起きたのか、うまく飲みこめていなかった。手のなかの杖が、まだ淡く脈打っている。それでも、視線だけは、頭上から外さなかった。
菫色の瞳に、はっきりとした苛立ちが浮かぶ。掲げた剣が、二度、三度と閃いた。続けざまに雷が降りそそぐ。
一撃、また一撃。そのたび、光の盾が弾け、逸らされた雷が、幾筋もの弧を描いて四方へ飛び散っていく。かろうじて弾き返しても、次が、すぐに来る。息をつく間もなかった。
このままでは、ジリ貧だと、誰もが悟った。
ミューは、まだ、竦んだまま動けずにいた。ネオンが、その体を横抱きに抱えあげ、降りそそぐ雷を避けて瓦礫の陰へ半歩、踏みこむ。
「——もう、無理だ」
低く言った。「一緒に、ラヴィの中へ戻ろう」
腕のなかで、ミューが、震える声で、ネオンを見あげた。
「——あんたは」
「ラヴィの役に立ってあげなさいよ」
「……なに?」
「あたしは、無理。でも、あんたは、まだ、戦えるでしょ」
頭上で、新たな雷が閃く。ネオンは、ミューを抱えたまま、素早く身をひるがえしてそれをかわした。着地と同時に、一瞬、目を見ひらいて——それから、ふっと息をつく。
「——私は、いざとなれば、分身で内側からでも援護できる」
静かに答える。「それに——お前のそばに、誰かがいたほうがいいだろ」
ミューが、目を丸くした。それから、くしゃりと顔を歪めて、ネオンの胸に、そっと額を押しつける。
カトレアが、飛来した雷をレイピアで弾き返しながら、口を開いた。
「ボクも、自分の身くらいは、自分で守れるさ」
不敵に笑ってみせる。それでも、柄を握る手には、いつになく力がこもっていた。
ピアが、迫る一撃を、片手で無造作に叩き落とす。爆ぜた衝撃に、瓦礫が舞った。
「ふん」
鼻を鳴らす。「儂は、残る。——お主が、話も聞かず突っ走るようなら。ひっぱたいてやらねばならんからのう」
軽口めいた響きの奥に、揺るがない意志があった。
ラヴィは、その様子に思わず、笑みがこぼれた。小さく頷く。
ミューとネオンの気配が、寄り添うように、胸の奥へと戻っていく。カトレアとピアだけが、ラヴィの隣に残った。
それでも——届かない。
脱兎の脚も、あの高みには届かない。防ぐことはできても、こちらから手を伸ばす術がなかった。
このままでは、いつまでも凌ぐだけだ。
*
胸の奥で、それまでずっと黙っていた気配が、かすかに揺れた。
パッチだった。
「……僕は」
淡々とした、それでいて、いつもよりわずかに掠れた声だった。
「見てる係。——そのはずだった」
言葉が、そこでいったん途切れる。迷っているのが伝わってきた。
「戦う力なんて、ない。なんにも、ない——そう言ったんだ。だから、悪さをしたと思ったら、殺せばいい。それが、僕の役目だった」
一拍、置いて。
「君たちのようには、なれない。——そう、自分に言い聞かせてきた。それで、よかったはずなんだ」
「パッチ……」
「けど」
短く、掠れた声だった。
「このまま、見てるだけなんて——できない」
もう一度、静かな間があった。それから、意を決したように。
「——飛べ、ラヴィ」
「……え」
「僕の翼を、使えばいい。あそこまで、届く」
*
胸の奥から、何かが通っていく感覚があった。心器から、これまでとは違う質の光がゆっくりと流れこんでくる。分化した四人の力とは、また違う手触り。誰かに直接体を明け渡されたような、そんな感覚だった。
背に、ふわりと、何かが芽吹く気配がした。
振り向く間もなく、それは、はっきりとした重みを持ちはじめる。透きとおる翼が、そこにあった。回路のような細い模様が淡く明滅している。左は水色、右は淡いピンク——見慣れたパッチの色だった。
「……ありがとう、パッチ」
ラヴィは、静かにそう告げた。
胸の奥から、答えはなかった。それでも、その沈黙が、これまでのどんな沈黙とも違うあたたかいものだと、はっきりわかった。
翼を、大きくひらいた。
ためらいは、なかった。地を蹴る。羽ばたきが、風を切る。体が、まっすぐに、高みへと昇っていく。
苛立ちを増した菫色の瞳が、絶え間なく剣を薙いだ。放たれた雷が、幾筋も、行く手を阻むように降りそそぐ。
手のなかで、《星の花束》が閃いた。舞いあがりながら、その一筋一筋を、光の弧で弾き、逸らしていく。かすめた雷が頬を焦がしても、翼を止めなかった。
いつも見上げるだけだった空が、いま、すぐそばにあった。風の冷たさも、体を押しあげる浮遊感も、これまで知らなかったものだった。逸らすたび、縮まっていく距離。見上げるしかなかった隔たりが、いまみるみる消えていく。
菫色の瞳が、こちらを見た。
ラヴィは、真っ向から、その視線を受け止めた。
もう、届かないままではいない。




