50_話し
朝の光は、まだ弱々しかった。焚火は、灰の中に小さな熾火を残すだけになっている。
ミューが伸びをしながら、名残惜しそうに消えかけた炎を見つめた。
「また今度、みんなでやろうね」
「気の早いやつだ」
ネオンが小さく笑う気配だけを残す。それだけで十分だった。誰も多くを語らなかった。荷を整え、崩れた石段を上り、瓦礫を越えて、白い石柱の並ぶ環の遺跡へと向かう。中心に光の粒が満ち、視界がひとつに溶けていく。まぶたを開けたときには、もう無数の星が瞬く星界の只中に立っていた。
環の遺跡から、来た道をたどる。玉座の並ぶ広間を抜け、長い廊下を渡り、宮殿のような建物を出た。淡く透きとおる白い石の床が、歩くたびに星明かりを返す。長い影が、後ろへ後ろへとひいていった。風はないのに、頭上を巡る星々だけが、しずかに流れている。散らぬ花、消えぬ灯——女王の遺した、変わらない静けさだった。
その静けさを抜けて、やがて、見覚えのある窪地——すり鉢状のクレーターへとたどり着いた。
ここまでは、来たことがある。
その先へは、まだ一度も踏み込んだことがなかった。材質の切り替わる一本の線。以前は、ここで足を止めた。いまの力では届かないと悟って、退いた場所だった。
けれど、いまは。
ラヴィは、迷わずその線を跨いだ。
*
一歩、また一歩。踏みしめるたびに、違和感が募っていく。
寸分の狂いもなく並ぶ石畳。影を持たない光。歩いても歩いても、景色が変わらないような奇妙な均一さだった。まるで誰かの手で、隅々まで整えられた場所。ここは、もう一人のわたしがみずから組み替えた場所なのだと、肌でわかる気がした。
「……嫌な感じ、じゃな」ピアが、低く呟いた。「隅々まで、狂いがない。生きた気配が、まるでせん」
その声が、ふっと途切れた。いつもの飄々とした調子が、鳴りをひそめている。
「——神域、じゃ」
短く、それだけ言った。それ以上は、続かなかった。
聞き覚えのない響きだった。それでも、ただの推し量りではないと、その声の重さで分かった。
歩みを進めるほど、その気配は濃くなっていった。
ふいに、行く手に、人影があった。
動かず、そこに佇んでいる。菫色の瞳が、まっすぐにこちらへ向いていた。これまでいつも向こうから飛来してきた、あの姿。けれど今日は違う。ただ待っていた。まるで、この場所そのものが迎え入れるための舞台であるかのように。
「……今度は」
ラヴィは、口を開いた。
「わたしたちが来るって、わかってたんだね」
答えはなかった。それでも、続けようとした。
「わたしたちは、争いに——」
言い終わるより早く。菫色の瞳が、わずかに細められる。それだけの合図だった。
石畳の継ぎ目という継ぎ目から、いくつもの影が、羽音とともに湧きあがった。
*
蜂に似た、いくつもの姿。人ほどの背丈を持ち、透きとおった二対の羽を、寸分違わぬ律動で震わせている。尾の先には、鋭くしなる針。羽音までもが揃いすぎていて、かえって薄気味悪かった。
「——数だけは、多いようだな」
ネオンの声とともに、分身が四方に散った。刃が閃くたび、一匹、また一匹と、羽音が絶える。カトレアのレイピアが、宙を薙ぎ払うように弧を描き、突きこんできた針を軽くいなして、切っ先ひとつで沈めた。ミューの姿がふっと霞んだと思うと、蜂の一匹が、何もない虚空へ針を突き立てる。その隙をピアの拳が、正面から丸ごと打ち抜いた。
物の数分もかからず、羽音は完全に絶えた。瓦礫の上に崩れた欠片が、静かに散らばっている。
「——このくらい、造作もない」
ネオンが刃を鞘へ戻しながら言った。誰の顔にも気負いはなかった。
その静けさが、かえって、目の前の相手を苛立たせたらしい。垂らした指先が、かすかに強張った。
構えた両手のひらに、菫色の光が灯った。
「——ライラック」
低く、そう呟く。
*
放たれた奔流は、視界を塗りつぶすほどの菫色だった。
「引くわけにはいかない、だろう?」
カトレアのレイピアが、光をなぞるように弧を描く。同時に、ラヴィの手のなかで《星の花束》が姿を変えた。瑠璃色の杖身が、細身の剣へ——《ルミナス》の貌。二つの光の軌道が重なりあうように奔流を受け止め、逸らしていく。飛び散った余波が、背後の石柱をいくつも呑みこみ、砕いていった。
奔流が、いったん止む。
その隙をネオンの分身が突いた。頭上から一撃、菫色の瞳のすぐ横をかすめる——はずだった。刃が空を切る。手応えのないまま、分身の姿がふっと霧のように解けて消えた。
「——また、同じ手を」
菫色の瞳が、静かにこちらを見た。かすかな苛立ちの色。
「見た目には、惑わされない。まやかしなど、見飽きた」
ミューの幻を、看破したのだ。けれど、それこそが——皆の、狙いだった。
「——遅い」
真上から声が落ちてくる。ピアの拳が、まっすぐに振り下ろされた。
とっさに、片手でそれを受け止める。刹那、地面に亀裂が奔り、周囲の瓦礫が爆ぜるように吹き飛んだ。膝ほどの高さで土煙が渦を巻く。
「なかなか、硬いのう」
ピアの声に、笑みが滲んでいた。
けれど、次の瞬間。押しとどめたはずのその手が、逆にピアの体を弾き飛ばそうと動いた。体勢を崩したピアへ向けて、菫色の光が二度目の輝きを帯びる。
その光が届くより早く。
地を蹴った。脱兎の脚が、まっすぐに宙を駆け抜ける。腕のなかにピアの体を抱きとめて、瓦礫の上へと着地した。
「——世話をかけるのう」
ピアが、息をひとつ吐いた。
だが、休む間はなかった。菫色の瞳が、こちらへ向き直る。掲げられた指先へ、見たことのない、剣呑な光が凝縮していく。
放たれるより早く。
左右から、頭上から——幾つもの分身が、間合いを割って斬りこんだ。指先の狙いを、そらさせるように。刃を防ぐため、指先の光が、そのまま散った。
「——舐めるな」
分身は、まとめて振り払われる。それでも、残る分身が、さらに間合いを詰めた。攻めることも許されず、防ぐことだけを強いられて——低く、舌打ちの音が漏れた。
*
一連のやり取りが、ふっと止んだ。
崩れた瓦礫の向こう、動きを止めた相手からすこし距離をとって——ラヴィたちは、示しあわせたわけでもないのに、自然とひとつの場所に集まっていた。
ミューが、ラヴィの手をきゅっと握る。
「——大丈夫。みんな、いっしょだよ」
肩を並べる。誰も言葉にはしなかったけれど、その並び方そのものが、ひとつの答えのようだった。話をしに来た。それは、ひとりの意思ではなく五人の意思だった。
胸の奥で、五人分の温かさがたしかにそこにあるのがわかる。誰ひとり欠けていない。それを保ちながら、自分はいま、ここに立っている。
土煙が、静かに晴れていく。
「……止まった」
胸の奥から、パッチの抑揚のない声がした。誰に言うでもない、ただの呟きだった。
菫色の瞳が、こちらを見つめている。動かない。これまでの戦いにはなかった静けさだった。
ラヴィは、大きく息を吸った。
今度は、遮られなかった。
「わたしたちは——」
声が震えないように、力を込める。
「争いに、来たんじゃない」
最後まで、言い切った。
*
しばらく沈黙があった。風もない、神域の静けさが、二人のあいだに重く横たわっていた。
「——お前の声に」
低い声が、静けさを破る。
「耳を貸すつもりは、ない」
それだけだった。取りつく島もない、あまりに短い拒絶。それでも、ラヴィは退かなかった。
菫色の瞳が、こちらを見据えたまま動かない。攻めてくる気配もなければ、去っていく気配もない。ただ睨みあったまま、時間だけが静かに過ぎていく。
その瞳の奥に、これまで見たことのない色が、たしかに揺れていた。苛立ちなのか、戸惑いなのか——ラヴィには、まだ判じることができなかった。
けれど。
たしかに、揺れている。
それだけは、わかった。




