49_夜
焚火の炎が、ぱちぱちと爆ぜる。崩れた世界の静けさの中、それだけが、あたたかい音だった。夜風に流された火の粉が、頭上でいくつも、儚く消えていく。
しばらくは誰も、何も言わなかった。ただ、隣にいる誰かの体温、衣擦れの音、息づかい——そういうささやかなものだけを、みんなでゆっくりと味わっていた。声を出さなくても、伝わるものがあった。カトレアの白い騎士服の裾が、炎に淡く照らされている。ネオンの藍色の髪が、風にかすかに揺れていた。ピアは、瞳を閉じ、ただそこにいるだけで満ち足りているというふうに静かに息をしていた。
ミューが、ラヴィの肩に、こてんと頭をあずける。
「……ずっと、こうしていたいな」
ぽつりと、そんな声がした。誰も、それに異を唱えなかった。炎の爆ぜる音だけが、しばらく、静かな相槌のように続いた。
*
やがて、じっとしているのに飽きたのか、カトレアが、すっと身を起こした。伸びをするように、両腕を大きく広げる。関節の鳴る音が、ひとつ、静かに響いた。
「なあ、ネオン。せっかく、この足で立てるようになったんだ。——すこし、体を動かしてみないか」
「……いまか」
「善は急げ、だよ」
気乗りしない様子で、ネオンはそれでも立ちあがった。「まあ、いい。付き合ってやる」
二人は、焚火から少し離れた瓦礫の広場で、向きあった。カトレアが、腰のレイピアをすらりと抜く。ネオンも、どこからともなく細い刃を取り出した。月明かりが、二つの刃に白く反射する。
「手加減は、無用だよ」
「そっちこそ、泣き言を言うなよ」
打ちあう音が、夜の静けさに響く。踏みこみ、かわし、また踏みこむ。分化したばかりの体は、まだすこしぎこちなかったが、それでも、二人の太刀筋には迷いがなかった。カトレアの一撃をネオンが弾き、低く沈みこんで懐へ潜る。ネオンの放った突きを、カトレアが半歩の間合いで見切る——その一瞬。姿勢を崩したカトレアの隙を、ネオンが見逃さなかった。息を切らしながらも、どちらの顔にも笑みに近いものが浮かんでいた。
何度目かの打ちあいの末、ネオンの刃が、カトレアの喉元すれすれで止まる。
「——参った」
カトレアが、レイピアを下ろしながら、両手をあげてみせた。悔しさより、どこか楽しげな響きがあった。
「なかなか、やるじゃないか」
ネオンも、満足げに刃をおさめる。二人とも、額にうっすらと汗をかいていた。見ていたミューが、ぱちぱちと手を叩く。ピアも、ひとつ感心したように頷いていた。息を弾ませながら、二人は、焚火のそばへ戻ってくる。
「……なかなか、見事だったな」
胸の奥から、パッチの抑揚のない声がした。ラヴィにだけ聞こえるつもりのこっそりとした感想だったらしい。
「————え」
だが、その呟きは、思いのほかしっかりと、みんなの耳にも届いていたようだった。
「聞こえているぞ、パッチ」
ネオンが、口の端を持ちあげる。カトレアも、噴き出すように笑った。
「隠れて褒めるとは、パッチらしいな」
図星を突かれたのか、パッチの気配が、あからさまに気まずそうに縮こまった。
「……べつに。ただの事実だ」
取り繕うような、ぶっきらぼうな声。それが、またみんなの笑いを誘った。ラヴィも、思わず声をあげて笑ってしまう。
*
「……そういえば」
汗を拭いながら、ネオンが、ふと言った。
「私たちは、もう、中には戻れないのか」
その問いに、みんなの視線が集まった。誰も、まだ試してみたことはなかった。
「戻れるよ、たぶん」
あっさりと、ミューが答える。次の瞬間、その姿がすっと掻き消えた。
「——ほら」
胸の奥から、はしゃいだ声が響く。それから、また、ぽん、と。ミューの姿が、焚火の前に戻ってきた。ぴょんぴょんと、その場で跳ねてみせる。
「ね? 簡単でしょ」
事もなげに言うミューを、ピアが値踏みするような目で見つめていた。腕を組み、しばし考えこむ。
「……待てよ」
ぽつりと、呟く。
「ピキピキの姿で、外に出ておった、あの頃も。まさか、お主——最初から、ネオンの力を、無自覚に借りておったのではあるまいな」
「……は?」
ネオンが、目を見ひらいた。
「私は、そんなこと」
言いかけて、しかしはっとしたように黙りこむ。思い当たる節があったのかもしれない。組んでいた腕を、ゆっくりとほどく。
「え、そうだったの!?」
ミューのほうは、まるで他人事のように目を丸くしていた。「ぜんぜん、知らなかった!」
「まったく、お前という奴は」
ネオンが、額を押さえて小さくため息をつく。それでも、その声には怒りよりも、呆れと戸惑いの方が濃く滲んでいた。
呆れたようなため息が、ピアの口から漏れた。
「まったく……お主、本当に無茶苦茶じゃのう」
その視線は、ミューでも、ネオンでもなく——ラヴィへ、まっすぐに向けられていた。ラヴィは、思わず身を縮めた。
*
「……となると」カトレアが、顎に手を当てて言った。「身軽なひとりだけで、先に様子を見に行く、というのも、効率的かもしれないね」
「儂も、それには一理ある、と思うがな」
ピアが、静かに頷く。「進む速さも、隠れる身のこなしも、大勢でいるより、ひとりの方が身軽じゃろう」
「理には適っている」
ネオンも、腕を組んだまま同意するように頷いた。もっともらしい流れに、その場が静かに傾きかけた——そのとき。
「……でも」
ラヴィが、ぽつりと口を挟んだ。
「ひとりで、ずっと歩くのは、さみしいから。——みんなで、行きたいな」
あまりに素直な一言に、一瞬、誰も、何も言えなかった。
「……理屈じゃ、ないんだな」
ネオンが、呆れたように、それでもどこか嬉しそうに笑った。
カトレアが、肩をすくめてみせる。
「理屈より、大事なことも、あるんだよ。——それに、ボクも本音では、みんなで行きたいと思っていたところだよ」
ミューが、そのやり取りに、うんうんと大きく頷いていた。
「なに、いざとなれば」
ピアが、悪戯っぽく笑ってみせる。
「機動力が要るときは、ラヴィひとりに任せて、みんなで大人しく引っこんでおればよい話じゃ」
*
笑いが落ち着いた頃、カトレアがそっと焚火の輪から離れていった。崩れた石段に腰かけ、欠けた月を見上げている。
ラヴィは、そのかたわらに、そっと腰を下ろした。
「……眠れない?」
「いや。すこし、考えていただけだよ」
カトレアは、静かに笑った。
「本当は、ね。争いより、穏やかな毎日のほうが、性に合っているんだ。国のみんなが笑って過ごせる、それだけで十分だった。剣は、そのための、ただの備えのつもりだった」
言葉を選ぶように、間を置く。
「なのに、気づけば、際限なく強くなることに、夢中になっていた。——護るためだと、思っていたのにね」
「……カトレア」
「大丈夫。後悔は、していないよ」
ラヴィを見て、まっすぐに笑う。
「ただ、これから向きあう相手が、ボクの命を奪った、その本人なのだと思うと——正直、いまも、すこし怖い。それでも、剣を抜く以外の道を、君と一緒に選んでみたいんだ」
「うん」
ラヴィは、小さく頷いた。
「わたしも、怖いよ。——でも、ひとりじゃないから」
カトレアは、しばらく黙って月を見上げていた。それから、ふっと笑みをこぼす。
「君は、いつもそうやって、いちばん大事なことを、いちばん短い言葉で言うね」
「そうかな」
「そうだよ」
「そうだね」
カトレアが、ラヴィの肩に、そっと自分の肩を寄せた。月明かりの下、二人分の影が石段の上で重なる。
「たしかに。——ひとりじゃない、それだけで、ずいぶん、心強い」
*
カトレアが、焚火の輪へ戻っていく。入れ替わるように、ラヴィは、すこし離れた場所で闇を睨むように立っているネオンに気づいた。
「……ネオン。見張り?」
「ああ。誰かが、やらねばならんからな」
素っ気ない返事だった。それでも、ラヴィが隣に立つのを、拒みはしなかった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。崩れた街の向こう、ひび割れた空だけが静かに広がっている。風が、瓦礫の隙間を、ひゅう、と抜けていった。
「……ネオンは」
ラヴィは、ためらいがちに、口を開いた。
「わたしのこと、心配してくれてる。——いつも」
「当然だ」
食い気味に、そう返ってくる。
「お前は、すぐ、無茶をする。放っておけるか」
ぶっきらぼうな声。それでも、その響きの奥に、何かもっと深いものがあるのを、ラヴィはなんとなく感じていた。訊いていいのか、わからなかった。だから、訊かなかった。
「……ありがとう」
かわりに、それだけを伝えた。
ネオンは、しばらく黙っていた。組んだ腕の先で、指がほんのすこし動く。それから、ぽつりと。
「——礼を言われるようなことは、していない」
その声は、いつもよりずっと、やわらかかった。
「私は、ただ」
言葉が、そこでいったん途切れる。夜風が、二人のあいだを静かに通り抜けていった。
「……なんでもない。休め、ラヴィ」
それだけ言うと、ネオンは、また崩れた街の闇へと目を戻した。
——けれど。
ラヴィは、そこで、素直に退かなかった。
「……えいっ」
小さくかけ声をあげて、地を蹴る。脱兎の脚が、跳ねるように宙を駆けた。くるりと宙で一回転しながら、伸ばした手のひらが、ネオンの頭をひと撫でしていく。着地したときには、もうネオンのすぐ後ろに立っていた。
「なっ……ラヴィ、なにを」
驚いて振り返ったネオンの頭に、ラヴィは、すこし背伸びをして、もう一度そっと手を伸ばした。にっこりと笑いながら、その頭を撫でる。指のあいだに、さらさらとした髪の感触があった。
「……隠さなくて、いいんだよ」
ラヴィは、静かに、けれどまっすぐに言った。
「お姉さんのこと。わたしも、見たの。——だから、隠さなくていい。わたしも、あの人のこと、好きだよ」
ネオンが、息を呑む気配がした。しばらく、何も言わなかった。夜風だけが、二人のあいだを幾度も行き来した。それから、ひどくかすれた声で。
「……そうか」
短い、けれど確かな答えだった。ラヴィの手のひらの下で、ネオンの体から、すこしだけ力が抜けていくのがわかった。
*
夜は、静かに更けていった。
ひとり、またひとりと、焚火のそばで眠りに落ちていく。ミューは、いつのまにかラヴィにぴったりとくっついて寝息を立てていた。カトレアは、レイピアを抱くようにして壁にもたれている。ピアだけが、最後まで揺れる炎を見つめていた。
「……ネオン。お主も、すこしは休め」
「儂が見張る」
ネオンは、しばし迷ってから頷いた。焚火の傍らに、静かに腰を下ろす。
崩れた世界の片隅。ちいさな炎を囲んで、ようやくみんなで一緒に過ごせるようになった、はじめての夜だった。それぞれの寝顔を、炎の明かりがやわらかく照らしている。ひび割れた空の向こう、星とも呼べない淡い光が、いくつか瞬いていた。
明日には、また、歩き出す。もう一人のわたしがいる、あの高みへ向けて。
けれど、いまはまだ、この静けさを、もうすこしだけ。
ラヴィは、そっと目を閉じた。




