48_無体
その名を、ラヴィはもう一度、胸のうちで繰り返した。——アストライア。
しばらく誰も口を開かなかった。やわらかな灯りの下、みんなの顔にそれぞれの色をした沈黙があった。
「……わたし」
ラヴィは、静かに口を開いた。
「もう一人のわたしに、会いに行きたい。ちゃんと、話をしたい」
短い、けれど迷いのない一言だった。
「……っ」
先に声を漏らしたのは、ネオンだった。組んだ腕の下で、拳が白くなるほど固く握られている。狙われた恨みというより、あの日の無力さが、そこに滲んでいた。
「……ラヴィ」
低く名を呼ぶ。組んでいた腕を解いて、まっすぐにこちらを見た。
「行くというなら、止めはしない。——だが、私が傍を離れることはない」
いつものぶっきらぼうな硬さのある声だった。それでも、その響きには、いつもより、ほんのすこしだけやわらかいものが混じっていた。
「ボクは」
カトレアが、めずらしく言葉を選ぶように間を置いた。
「本当は、穏やかな毎日のほうが好きだったんだ。剣は、そのなかで見つけたただの張り合いだった。それでも最後は、剣を選んで剣に殉じた。——その直接の相手と。今度は、剣を交えず向きあえと言うんだね」
それでも、まっすぐに、ラヴィを見た。
「ボクは、君の騎士でいると決めている。——ぶつかり合うだけが答えじゃないと、信じてみるよ。もっとも、相手が相手だ。容易くはないだろうけれど」
「儂も、じゃ」
ピアが、静かに口を開いた。深紅の瞳に、いつもと違う遠い色が浮かんでいた。
「儂は、あの女——ヴィオラを、咄嗟に、命まで懸けて庇った。裏切られ、壊されてもなお、じゃ。——悔いは、ない」
一拍、置いて。
「じゃが、覚えておけ。慈しみを向けた先が、必ず応えてくれるとは、限らんのじゃぞ。——それでも、お主が行くというなら。儂は、お主を支える」
「……ラヴィ」
震える声は、ミューだった。膝を抱えていた腕を、ぎゅっと自分の体に巻きつける。
「あたし、こわい」
声が、かすれる。
「あたしね。子供たちを庇って、死んだの。——ラヴィは、もう知ってるだろうけど」
「それで。ラヴィは、いつもあたしを庇ってくれる。——もし、もう一人のラヴィが、あのときあたしを裁いた、そのひとなんだとしたら」
言葉が、そこで途切れた。それ以上は、続かなかった。それでも、伝えたいことは、痛いほど伝わってきた。
四人分の沈黙と、四人分の重みが、部屋に満ちていく。
ラヴィは、しばらくなにも言えなかった。灰区の温もり。杉林の秘密。湖畔の月明かり。剣に殉じた姫——胸の奥にまだ残る、四つのあたたかさと、四つの終わり。そのすべてに、いまはあの名が深く関わっている。それを知って、なお傷つかずにいられる者は、この場に、ひとりもいなかった。
それでも——ラヴィには、忘れられない記憶があった。
まだ記憶に新しい、あの対峙で。一方的に打ちのめされていた、その最中。もう一人のわたしの、掲げられた手が、ふいに止まったことがあった。胸を押さえて、いまにも泣きだしそうな顔をして。「……くだらない」と、まるで自分を責めるみたいにそう呟いていた。
あれは、いったい何だったんだろう。ずっと、頭から離れなかった。あの人の中にも、なにか、痛みのようなものが、たしかにあった。
それでも。
「うん」
ラヴィは、まっすぐに顔をあげた。
「それでも——会いたい。話したい」
声は、かすかに震えていた。それでも迷いはなかった。
「もう一人のわたしが、苦しんでいるのかもしれない。——それなら、なおさら。そばに、寄り添いたい」
みんなの顔を、順番に見た。ネオンの、まだ固い拳。カトレアの、揺れる瞳。ピアの、遠い色。ミューの、震える腕。そのひとつひとつに、ちゃんと目を留めてから、続けた。
「みんなの気持ちを、なかったことになんて、しない。——それでも、行かせてほしい」
それから、膝を抱えたままのミューのそばに、しゃがみこむ。目線を合わせて、その手を、そっと握った。
「だいじょうぶ。ひとりじゃ、背負わない。——ちゃんと、みんなと一緒に行くから」
しん、と部屋が静まる。
「……何を言っても、聞きはしないんだろうな」
ぽつりと、ネオンが言った。呆れたような、けれどどこか誇らしげな響きだった。
「まあ、そう言うと思っておった。——ビンタするほどでは、なさそうじゃ」
そう言って、ピアは、片手でラヴィの両頬を挟むと、むにっと、確かめるように押しつぶした。
「あたしも!」ミューが、ぱっと両手をあげた。「ひとりになんて、させない。——いっしょに、背負うから!」
四つの声が、重なる。ラヴィの胸の奥で、なにかがあたたかく満ちていった。
そのとき——
胸のあたりが、じん、と熱を持った。
見れば、いつのまにか手のうちに、あの杖があった。《星の花束》。淡い光を宿す先端の飾りが、ふるふると震えている。震えは、次第に大きくなり、やがて杖全体が、内側から灯るように輝きだした。
「……これ」
戸惑うラヴィの前で、光は、ますます強く大きくなっていく。まばゆい粒子が、四方八方へこぼれ落ち、部屋いっぱいに星屑のように舞った。光の粒のひとつひとつに、見覚えのある色があった。ミューの毛並みの色。ネオンの藍色の髪の艶。カトレアの赤毛。ピアの深紅の瞳の色。それぞれの色が、混じりあうことなく、それぞれのままラヴィを包んでいく。
光の奔流は、やがて幾つもの人影を、少しずつかたちづくっていった。輪郭が滲み、揺らぎ、それでも崩れることなく、次第に確かな線を得ていく。まるで、水面に落ちた絵の具がゆっくりと像を結んでいくみたいに。
「ラヴィ……っ」
「な、なんだ、これは」
みんなの声が、遠くなる。光が、視界のすべてを白く塗りつぶしていく。あたたかい。痛くはない。ただ、胸の奥の、ずっと絡まっていた何かが、するりとほどけていく感覚だけがあった。
——そして。
まぶたの向こうに、赤い色。焚火の、燠火の匂い。ラヴィは、はっと目を開けた。
夜だった。もとの、外の世界。焚火は、燃え尽きる寸前の小さな炎になっている。頬に、夜風が冷たい。
けれど。
「……あたし……ここに……」
すぐそばで、震える声がした。
振り向いた先——ミューが、いた。
胸のうちの居間でなく。声だけの気配でもなく。焚火の灯りに照らされて、猫耳をぴんと立てた生身の姿で。自分の両手を、信じられないというふうに見つめている。ピキピキの姿ではない。ミューの両手だった。
「あたし……猫の姿のまま……外に……いるっ!」
言うが早いか、ミューは、ラヴィの首もとに、ぎゅっと抱きついてきた。ふわりとした重みと、確かな体温。声だけの気配とは、まるで違うたしかな重さだった。
「ラヴィぃ……っ、あったかい……!」
「……ん」
低い声に、目をやれば。長身のネオンが、少し離れた場所にしっかりと両足で地面を踏みしめて立っていた。さらしを巻いた腕を、確かめるように握ったり開いたりしている。
「……悪くない、感触だ」
ぽつりと呟く声に、いつもの照れ隠しの硬さが滲んでいた。それでも、こちらを見る目もとは、いくらかやわらかい。
「これは……いったい、どういう理屈だ」
朗々とした声。振り返れば、赤毛のカトレアが、月明かりの下に立っていた。白い騎士軍服が、夜風にひるがえる。
「感慨深いな。——ようやく、ボクの足で、君の隣に立てる」
そう言って、片手を差し出す。まるで舞踏へ誘うときのように。ラヴィが戸惑いながらもその手を取ると、カトレアは、そのまま指先に、そっと口づけを落とした。
「うわっ……ちょ、カトレア……っ」
「照れなくていい。これは、騎士の礼だよ」
ミューが、ぴょんと跳ねてみせる。しなやかな四肢が、狙いどおりに弧を描いた。ネオンは、拳を軽く握っては開き、その感触を確かめている。カトレアは、レイピアを一度大きく振ってみせ、手応えに満足げな顔をした。それぞれが、それぞれのやり方で、取り戻したばかりの体を確かめていた。
「……のんびりしすぎ、じゃぞ」
最後に、気だるげな声。焚火のそばに、いつのまにか金髪の女が、腰を下ろしていた。深紅の瞳が、揺れる炎を映して静かに輝いている。
自分の両手を、しばらく見つめてから、ピアは、得心したように頷いた。
「——ネオンの、あの分身の業じゃろうな。心器の力に引き出され、外にまで、映し出された、というところか。もとより、儂らは、お主の一部じゃからのう」
一拍、置いて。
「それにしても、お主。——あまりにも、無体な力じゃのう」
呆れたような、それでいて、どこか楽しそうな声だった。
四人が、それぞれの姿で、そこにいた。もう、内側だけの存在ではない。ラヴィの隣に、たしかな重さと温もりを持って、立っていた。
崩れた壁の向こう、ひび割れた空の下に広がる、変わり果てた景色。それを、四人がそれぞれの目で確かめるように見渡していた。もう、ラヴィの内側から覗き見る景色ではない。自分自身の足で立ち、自分自身の目で見る、この世界だった。
「……みんな」
胸がいっぱいで、それ以上、言葉が続かなかった。それでも、伝わっていることは、わかった。
「僕は」
胸の奥で、パッチの声がした。淡々と、醒めた調子で。
「そのまま。——見てる係だから」
分化しない、という宣言に、誰も驚かなかった。パッチらしい、静かな居場所の選び方だった。それでも、その声には、輪の外にいることへの遠さは、もうあまり感じられなかった。
ラヴィは、胸に、そっと手を当てた。
「ありがとう、パッチ。——見ててくれるだけで、うれしいよ」
パッチは、なにも答えなかった。それでも、その沈黙は、どこかやわらかかった。
ラヴィは、《星の花束》を、そっと胸に抱いた。淡い光は、まだ、ほのかに残っている。かつてない充ち足りた重みが、その杖から、伝わってくる。
——これで、みんな、揃った。
誰からともなく、燃え尽きかけた焚火のそばに、腰を下ろしていく。ミューが、ラヴィにぴったりと寄り添うように座った。ネオンは、すこし離れた場所で腕を組みながらも、輪から外れようとはしなかった。カトレアは、レイピアを傍らに立てかけ、静かに腰を下ろす。ピアは、すでに腰を下ろしたまま、気だるげに、揺れる炎を見つめていた。
「今夜は、ここで休むとしよう」
ピアの一言に、誰も異を唱えなかった。分化したばかりの体で、みんなでこうして並んで座っている——それだけのことが、まだすこし不思議で、そして、とてもあたたかかった。
崩れた世界の片隅。小さな焚火を囲んで、五人分の気配が、静かに寄り添っていた。胸の奥では、パッチの気配も、変わらず、そこにあった。




