47_見たもの
見知らぬ街の輪郭が、ゆっくりと像を結んでいく。木組みの屋根。飾り気のない土壁。行き交う人々の話し声——それが、ふいに覚えのある温もりへと変わった。
隣に、そっと気配が生まれる。振り向くと、白い髪の姿が、いつのまにか並んで立っていた。パッチだ。
「……なんで、って顔だね」
戸惑うラヴィの顔を読んだように、パッチが言う。
「繋いだばかりの糸は、まだあたたかいから。——そのぬくもりを伝って、僕も、ここまで来られた」
いつもの醒めた声だった。それでも、隣にいてくれることが、ラヴィにはただありがたかった。
「うん。——ありがとう、パッチ」
小さく笑うと、パッチはなにも言わずに、視線だけを前へ向けた。
*
崩れ家の、傾いだ天井の下。灰色に沈んだ、瓦礫の街——灰区。すり切れた毛布を、眠る二つの寝顔に、そっとかけてやる指があった。
——ミューの、記憶だ。
「ほら。あたしは、もう一個盗ればいいだけだし」
奪われてばかりだった猫が、はじめて、何かを抱きしめる側になった夜だった。
温かな像は、長くは続かなかった。
見上げた先——顔のない影とともに、まばゆい雷が、まっすぐ天から落ちてくる。天秤の皿が、静かに沈みきっていた。
「盗んだのは、あたし。——ぜんぶ、あたしが勝手にやったこと」
啖呵を切る声。守るように広げた小さな両腕。光が弾け、大地が裂けた。底の見えない暗い穴。ミューの姿は、そこへ音もなく吸いこまれていく。
「……諦めないで。強く、生きて」
その言葉を最後に、姿は暗い底へ消えた。残された子どもたちが、その縁に石をひとつ、またひとつと積んでいく。
胸の奥が、締めつけられる。ラヴィは声も出せずに、それを見ていた。
*
杉木立の奥、苔むした岩を回りこんだ先の小さな窪地。積んだ石の下から取り出した、色褪せた押し花の包み。よく似た顔の少女が二人、それを覗きこんでいた。
——ネオンと、その姉の記憶。
「見て、ネオン。うまくできたでしょう」
「……きれい」
里の誰も知らない、姉妹だけの時間だった。
けれど、像はすぐに紅蓮に染まる。崩れる城、迫る梁——突き飛ばされた体。振り向いた先、姉が、その下敷きになっていた。
「私は、普通の女の子として、生きたかった。ネオンも、そうでしょう?」
かすれていく声。それでも、笑っていた。
「影は、闇に、死すべし……よ。さぁ……はやく……」
そこから時が飛ぶ。傭兵として彷徨う、うらぶれた背中。神域と呼ばれる戦場に立ち、幾つもの分身をまとって紛れ——だれに気づかれることもなく、あっけなく、命の灯が消えた。
*
湖の水面に、月が映っている。波打ち際で、二つの影が寄り添うように揺れていた。
——ピアの、記憶だ。
「行け。人を愛し、添い遂げろ。私は、この姿のまま、お前のことを、ずっと想い続けることになるだろう」
差し伸べた手を、自ら放す。老いていく者と、老いぬ者の、埋めがたい溝。それでも、その瞳に宿る想いだけは、幾世紀を経ても変わらなかった。
灯りの並ぶ静かな郷が、ある日、跡形もなく塗り替えられていく。虚ろな瞳の同族が、操られるだけの影と化していた。かつて対等に渡り合った相手を追い、神域まで単身たどり着く。
顔のない、塔のように高い影が、すぐそこに立つ。裁きが、降りようとする。その眼前——ピアは、考えるより先に、体が動いていた。庇うように、前へ。千年染みついた習い性のままに。
白い光が、その身を貫く。最期に浮かんだのは、湖畔の月明かり。差し出された硬い手のひら。
——グレン。
それだけを、思い浮かべた。この千年、ずっと変わらず。
*
硝子細工の宮殿。椅子に座っていられない赤毛の姫が、稽古場の片隅で、剣を振るう女騎士の姿に目を奪われていた。
——カトレアの、記憶。
「今度、ボクが強くなったら、シエラ、相手をしてくれよ」
弾む声。稽古に明け暮れた歳月。際限なく強くなり続けた、その先に——崩れゆく神域の戦場があった。
退くよう命じる声。抱きかかえられ、支えられながら、それでも笑っていた。
「シエラは、最後まで、ボクの言うことを聞いてくれないな」
「国へ、帰りましょう。帰ったら、あの夜のような、星の綺麗な晩に——」
初めての誘い。
「……喜んで」
短く答えるのが精一杯だった。傷はどこにもなかった。ただ眠るように、意識が静かに遠のいていく。
*
四つの像が、ゆっくりと闇へ溶けていく。
残されたのは、ただ重たい静けさだった。
ラヴィは、震える声で、隣に立つパッチへ問いかけた。
「……パッチは。こういうの、ないの? だれかと過ごした記憶」
「……さあ」パッチは、目を伏せたまま。「考えたことも、なかった」
短い答え。それ以上踏みこませない響きがあった。それでも、ラヴィは、聞かずにいられなかった。
「みんな。——あんなに、あたたかい記憶を、持ってたのに。最後は、あんまりだよ……」
パッチは、しばらく黙っていた。それから、静かに口を開く。
「……この世界は。——ゲーム、なんだ」
「……ゲームって、なに?」
聞き覚えのない響きに、ラヴィは戸惑った。パッチは、言葉を選ぶように間を置いてから続けた。
「外側に、大勢の人がいる。その人たちが、物語を追ったり、動かしたりして、楽しむための——遊びの、世界だよ」
「遊び……」
「そう。——遊びの一部。そのはずだったんだ。彼女たちの死も」
パッチの声には、抑揚がなかった。
「でも、いまはもう、だれも遊んでない。……ここは、その遊びが、終わった後の世界だよ」
しん、とあたりが静まる。
「——だから」パッチは続けた。「この世界で起きることに、意味なんて、ないんだ」
その言葉には、怒りも悲しみもなかった。ただ、事実だけを述べる乾いた声だった。
ラヴィは、しばらく、なにも言えなかった。胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。——でも。
やがて、ぽつりと。
「……でも。わたし、みんなと出会えたよ。——パッチとも」
まっすぐな声だった。他意も駆け引きもない——ただ、それだけを伝えたくて。
パッチが、目を見開いた。なにか言おうとして——けれど、言葉は出てこなかった。ほんのすこし目を伏せる。いつもより、すこしだけ長い沈黙。
伏せた目もとに、ふっと、やわらかなものが差した気がした。——ラヴィには、そう見えた。
*
闇が、深くなる。像も、声も、遠くなっていく。——ラヴィの意識は、ゆっくりと、浮上をはじめていた。
「……ん」
まぶたを開けると、見慣れた居間の灯りが、真っ先に目に映った。やわらかな明かり。長椅子。壁際の本棚。——メゾン・ド・ラヴィだ。
「ラヴィ!」
ミューが、ぱっと顔を覗きこんできた。心配そうな瞳が、揺れている。
「だいじょうぶ? うなされてたよ、ずっと」
「……うん」
体を起こしながら、ラヴィはまだ夢の余韻を引きずっていた。見れば、パッチは、いつのまにか出窓のふちへ戻っていた。夢の中の近さが、まるで嘘だったみたいに、また、少しだけ遠い。ネオンが、腕を組んだまま黙ってこちらを見ている。カトレアも、レイピアの柄に手をかけたまま、案じるような目を向けていた。
「……見た」ラヴィは、ぽつりと言った。「みんなの、記憶」
その一言に、場の気配が変わった。
「……そうか」ピアの声が、静かに応じる。「なにを、見た」
ラヴィは、言葉を選びながら、ゆっくりと語った。——それぞれが生きてきた日々から、その終わりまで。見た記憶を、そう、大まかにだけ伝える。細かな中身には、あえて触れなかった。だれにも、知られたくない一片が、きっとあるはずだから。
声は、それでも、かすかに震えていた。
「……で」しばしの沈黙を破ったのは、カトレアだった。「肝心の、君自身のことは。なにか、思い出せたのか?」
ラヴィは、静かに、首を横に振った。
「ううん。……わたしのことは、まだ、なにも」
短い答えに、それ以上、誰も踏みこまなかった。
「……みんな」ラヴィの声が、かすれた。「世界が、ぐちゃぐちゃになって。——みんな、同じものが、原因で……」
しん、と沈黙が落ちた。
長い、長い間があって。
「うむ」ピアが、ゆっくりと口を開いた。「——同じもの、か。儂も、ずっと引っかかっておった」
一拍、置いて。
「世界を無理やり混ぜ合わせ、人を裁こうとした神がおる。——いつか話した、あの神話の神じゃ。おそらく、みんなを追い詰めたのも、その同じ神じゃろう」
ラヴィの胸が、ざわりと騒いだ。
「そして」ピアが、続ける。「その神は——もう一人のお主とも、無縁ではない。なぜ、ラヴィという存在が、二人おるのかは、儂にも分からん。じゃが」
一拍、置いて。
「アストライア・グランドクロス。——裁きの神の、名じゃ」
その名に、部屋の空気が、ぴんと張りつめた。
「もう一人のお主の器は——おそらく、それに満たされておる」
ラヴィは、息を飲んだ。
いつか、ピアから聞いた、あの神話の名前。——女王を退け、世界を裂いた、その神の名が。いま、初めて、もう一人のわたしと、線で繋がった。
遠い、遠い高みに、いまも、彼女は、いる。その存在の重みが、いま、はじめて、はっきりとした形を持った。
胸の奥に灯った、ちいさな確信を抱いて。ラヴィは、静かに、その名を繰り返した。
「……アストライア」




