C5_約束
神域の裁きが、世界を覆おうとしている——その報せが、ルミナリアに届いたのは、ある年の初めだった。
各地から、名もなき戦士たちが、神域へと集いはじめているという。裁きを退けぬ限り、この世界に安寧はない。国王は、しばし黙考した後、騎士団の出陣を許した。
「団長として、参ります」
カトレアが片膝をつき、そう告げる。国王は、これまでにないほど重い顔で頷いた。傍らの王妃は目元を袖で押さえていた。
「必ず、戻ってくるのですよ」
「ああ。約束する」
軽い調子で応じてみせたが、王妃の目は、なかなか離れなかった。ガロも、ナナも、王宮の門前まで見送りに来ていた。
「団長、無事のお帰りを」
ガロが、深々と頭を下げる。ナナは涙ぐみながらも、無理に笑ってみせた。
「約束ですよ、姫様」
「約束する」
国王が、豪快な笑みを作ろうとして、失敗した。それでも、無理にその表情を保った。
「行ってこい、カトレア。お前なら、成し遂げられよう」
「はい、父上」
短い返事だった。それだけで、十分だった。
「副団長として、最後までお供します」
シエラが、静かに続く。「最後」という言葉に、まだ誰も、深い意味を見出してはいなかった。
*
神域は、影ひとつ落ちない、白々とした光に満ちていた。足元は、継ぎ目の走る硬い格子に変わっている。怒号と剣戟の音が、絶え間なく響いていた。
数えきれぬ数の戦士たちが、そこかしこで名も知れぬ敵と切り結んでいた。誰が誰の味方かも判然としない乱戦だった。国も種族も、様々な戦士たちが入り乱れている。遠くに剣を振るう小柄な影や、飄々とした身のこなしで戦う誰かの姿も見えたが、名を交わす暇はなかった。この場に立つ誰もが、それぞれの故郷を背負い、それぞれの理由で剣を握っているのだろう。それだけが確かなことだった。
カトレアは、団の先頭に立ち、押し寄せる敵の壁へ、迷わず斬りこんでいく。
《ルミナス》の一閃が、幾つもの敵を退けた。光の軌道が、降り注ぐ攻撃を次々になぞり、逸らしていく。味方が崩れかけるたび、その盾となって割って入る。左右から挟まれれば体を沈めて躱し、頭上からの一撃には切っ先を掲げて弾く。休む間もない攻防だったが、太刀筋には、これまで積み重ねてきたものが、確かに宿っていた。
敵の一団が、新手を繰り出す。翼を持つ影が、上空から急降下してきた。カトレアは、地を蹴って跳びあがり、空中で一閃を放つ。翼が両断され、影が地に落ちる。着地と同時に横合いから迫っていた別の敵を、体を捻ってかわしながら斬り伏せた。息をつく暇もない攻防が、幾刻も続いた。
それでも、力を振るうたび、確かな手応えとともに何かが少しずつ削られていく感覚があった。まるで体の内側にある灯りが、ひと振りごとに、わずかに翳っていくようだった。だが、いまは、それを気にしている暇はなかった。
*
戦いのさなか、若い部下の騎士が、数体の敵に囲まれた。ルミナリアから連れてきた、まだ日の浅い新兵だった。稽古場で、幾度も声をかけてやった顔だ。
「助けを……!」
叫び声に、カトレアは間に合わせようと駆けた。だが、群がる敵を斬り払う分、一瞬届くのが遅れた。振り下ろされた敵の一撃が、若い騎士の体を貫く。
「——!」
咄嗟に飛びこみ、崩れ落ちる体を辛うじて受け止めた。まだ温かい体を、しっかりと抱き止める。だが、もう息はなかった。見開かれたその目には、まだ驚きだけが張りついていた。
「すまない……」
短く、そう呟くことしかできなかった。護るために、際限なく強くなり続けてきたはずだった。それでも、こうして護りきれない者が出る。積み重ねてきた力の、その果てにも、届かない場所があった。周りでは、まだ戦いが続いている。悲しみに浸る暇さえ、与えられなかった。
*
戦いが長引くほどに、体の奥底から、何かが磨り減っていく感覚が強まっていった。
傷は、どこにもない。それなのに、まるで灯りが少しずつ暗くなっていくように、力が失われていく。剣を振るうたび、その消耗は、加速していった。手足の先が、次第に重くなっていく。それでも、それ以上に、はっきりと見えてきたものがあった。
——これ以上、留まっても、犠牲が増えるだけだ。
戦況は、既に、ルミナリアの騎士団が貢献できる域を超えていた。踏みとどまることに、もはや意味はない。指揮官として、下すべき判断は、ひとつしかなかった。
*
「全軍、撤退!」
カトレアの声が、戦場に響いた。指揮官としての最後の号令だった。
「シエラ」
腰の帯から、団長の証である短剣を外し、その手に押しつける。
「ボクのことは、捨て置け。お前たちだけでも、必ず、生きて帰れ」
「——できません」
シエラが即座に、そう返した。
「なりません。あなたを置いて、どうして」
「聞いてくれ。これは——」
「団長命令であろうと、これだけは、聞けません」
きっぱりとした声だった。有無を言わせぬ強さがあった。カトレアは、それ以上何も言えなかった。
*
シエラは、カトレアの体を支え、撤退の隊列に加わった。
「われらの団長。姫を、無事に、祖国へ帰すのだ!」
シエラの声が、浮足立つ騎士団に響く。その一声で、崩れかけていた足並みが、揃っていった。撤退は、敗走ではない。団長を無事に送り届ける——それが、いま果たすべき役目なのだと。
隊列の最後尾を守りながら、後退していく。カトレアの足取りは、次第に重くなっていった。
「団長、しっかり」
シエラの支える腕に、力がこもる。カトレアは微かに笑ってみせた。
「シエラは、最後まで、ボクの言うことを聞いてくれないな」
かすれた声で、そう漏らす。
「最後、などと、誰が決めたのです」
シエラの声には、この状況を認めまいとする頑なな強さがあった。
「国へ、帰りましょう。帰ったら、あの夜のような、星の綺麗な晩に——夜通し、語り明かすのです」
思いがけない誘いだった。ずっと望んでいた言葉のはずなのに、いま聞くにはあまりにも遅すぎた。それでも、カトレアは微かに笑った。
「……喜んで」
短く、そう答えるのが精一杯だった。その声を励みに、力が抜けていく体をかろうじて奮い立たせる。だが、神域の境界が見えてきた、その時だった。
体から、糸が切れるように、力が抜けていった。傷は、どこにもなかった。ただ、眠るように、意識が、静かに遠のいていく。
「団長……! カトレア様……!」
シエラの声が、遠くで聞こえた。応えたかったが、もう声にならなかった。
最後に思い浮かべたのは、硝子の国に差す、いつもの光だった。剣の稽古、ナナの笑い声、ガロの槍、両親の顔、そして——シエラ。かわいい女の子は誰でも口説くと決めていたはずが、まさか、最後になって、向こうから誘われるとは思わなかった。叶うはずもない約束だと、わかっていながら。それでも——悪くない人生だった。
満ち足りた、生涯だった。
*
あの撤退で、ルミナリアの騎士団からこれ以上の犠牲者は出さなかった。シエラは、カトレアの亡骸を抱え、最後まで隊列を離れず、撤退を成し遂げた。
新たに団長となったシエラは、その亡骸を抱え、ルミナリアへと持ち帰った。長い道のりを、一睡もせずに歩き通した。道中、一度も涙を見せなかった。
「団長を、お連れしました」
王宮に辿り着いたシエラの声は、乾いていた。国王夫妻は言葉もなく、その亡骸に縋りついた。王妃の慟哭が、広間に響き渡る。ガロは、無言のまま、深く頭を垂れていた。ナナは、店を閉め、幾日も泣き明かしたという。
国は、カトレアを王女の正装で弔うことに決めた。騎士として死んだ娘を、姫として送り出す——それが両親にできる、精一杯だった。硝子の棺には、傷ひとつない、眠るような死に顔だけが、静かに横たわっていた。
シエラは、葬儀の間、ただ一度も、その傍を離れなかった。腰には、団長の証である短剣を、しっかりと佩いていた。
墓所は、王宮を望む丘の上に定められた。ステンドグラスを模した墓標が、静かに佇む。
それから半年ほどが過ぎた頃、神域の裁きの神が、ついに討たれたという報せが届いた。だが、その報せを聞いても、ルミナリアの騎士団の誰も、歓声をあげることはなかった。ただ、静かに墓標へ花を手向けるだけだった。




