C4_誇り
異界の脅威は、絶えることがなかった。
裂け目は塞がらぬまま、時折見知らぬ獣や、時には言葉を持つ異形までもが、ルミナリアの国境を騒がせた。荒野に潜む牙の群れ、廃墟から湧く影のようなもの、時には空を裂いて降ってくる何か。カトレアは、その都度、剣を取った。呼び出しがかかれば、昼夜を問わず駆けつけ、幾晩も帰城しないことすら珍しくなかった。
ある時は、言葉を話す異形と対峙したこともある。人の姿を模った、けれど瞳だけが虚ろなそれは、剣を交える前に妙な理屈を並べ立てた。
「お前たちの国も、いずれ、あちらの理に呑まれる」
「呑まれてたまるか。ボクが、そうはさせない」
短く言い捨てて、斬り伏せた。理屈で語り合う暇があるなら、剣を振るう方が、よほど性に合っていた。
幾つもの戦いを経るごとに、その太刀筋は、恐ろしいほどの速さで研ぎ澄まされていった。振るう剣先に迷いがなくなり、敵の数がどれほど増えようと、傷ひとつ負わずに戻ってくることも増えていく。
「また、伸びたか」
ガロが、稽古場の隅で感嘆とも呆れともつかない声を漏らす。かつて教えを乞うた師の目にも、いまや弟子の動きは追いきれないものになっていた。槍を構える手つきにさえ、以前ほどの気安さはなくなっていた。
*
ある晩、国境の砦近くで、大がかりな襲撃があった。
松明の灯りの下、無数の影が、砦の壁を越えて雪崩れこんでくる。数の多さに、副長格のシエラでさえ、一時、包囲されかけた。左右から挟まれ、体勢を崩す。片膝をついたその背へ、爪の一撃が迫った。
「シエラ!」
カトレアが、その間に割って入った。閃く光の軌道が、爪の群れを弾き返す。着地するより早く踏みこみ、右の一体を斬り伏せ、返す切っ先で左の一体を薙ぐ。三体目が背後から飛びかかる気配に振り向きもせず、体を沈めて躱し、下から掬いあげるように斬りあげた。瞬く間に、シエラを囲んでいた影は地に伏していた。
戦いが収まったあと、シエラはしばらく口を開かなかった。助けられた事実そのものより、その太刀筋の圧倒的な差に言葉を失っているようだった。
「……いつの間に、ここまで」
「稽古の成果だよ。シエラの教えのおかげでもある」
軽い調子で返したが、シエラの目には、これまでとは違う色が浮かんでいた。差し出された手を借りて立ち上がる間も、その視線はカトレアの横顔から動かなかった。
*
季節が幾つか巡った頃、老齢の騎士団長が、勇退を申し出た。
「もう、儂の体では、この戦いについていけません」
長年、国境を守り続けた男の言葉に、誰も異を唱えなかった。後任の座には、当然のようにシエラの名が挙がった。国一番の騎士——それは、いまも変わらぬ評判だった。騎士団の若手たちも、口々に次の団長はシエラ様だろうと噂しあっていた。カトレア自身、そう思って疑っていなかった。
ある日、後任を正式に定めるとして、カトレアとシエラは揃って、謁見の間へ呼び出された。
「団長の任は、姫様にこそ相応しいかと存じます」
国王の前で、シエラがまっすぐにそう告げた。
隣に立っていたカトレアは、思わず耳を疑った。
「シエラ、待て。お前が——」
「お待ちください」
言いかけた言葉を、遮られる。シエラは、国王だけを見つめたまま続けた。
「そなたが、それでよいのか。国一番の騎士は、そなたであろう」
国王が、静かに問う。
「いいえ。この数年、幾度も目の当たりにしてまいりました。剣の力も、この国を想う心の深さも——私は、既に、姫様に及びません。姫様が、御自身の身を顧みず、剣を振るう姿を何度も見てまいりました。剣の腕だけの話であれば、ここまで申し上げはいたしません」
一語一語、確かめるように紡がれた言葉だった。カトレアは、何か言い返そうとしてうまく言葉にならなかった。
国王は、しばしシエラの顔を見つめていたが、やがて重々しく頷いた。
「相分かった。——では、そなたは」
「副団長として、お仕えいたします」
迷いのない返事だった。
*
「団長就任、おめでとうございます」
正式な叙任の後、シエラが折り目正しく頭を下げた。広間には、国王夫妻をはじめ、騎士団の面々が居並んでいる。ガロも、その中で、目を細めていた。
カトレアは、しばし呆気に取られていた。かつて剣を習うことすら反対していた相手が、いまや自分の下に付くという。
「シエラ、本当にいいのか。お前の方が、ずっと——」
「もう決めたことです。異論は、受け付けません」
きっぱりとした物言いに、カトレアは苦笑した。それから、いつもの調子を取り戻す。
「じゃあ、これからも、口説くからな」
「団長命令であれば、考えます」
これまでにない返しだった。カトレアは、思わず目を丸くした。周りに控えていた若手騎士たちが、堪えきれずに噴き出す。シエラだけは、素知らぬ顔で目を伏せていた。
*
その晩、行きつけの酒場では、ちょっとした祝いの席が設けられた。
「団長就任、おめでとうございます!」
ナナが、酒杯を高く掲げる。ガロも、いつになく上機嫌で若い頃の武勇伝を語りはじめていた。
「まさか、あの姫様が、団長になられるとはなあ」
「まさか、じゃないだろ。ボクの腕を、一番よく知ってるのはガロだろうに」
「それはそうですが」
ガロが、目を細めて笑う。木の枝を振り回していた、あの幼い日の姫の姿を、まだよく覚えているのだろう。
軽口を叩きあいながらも、その場に集った誰もが、心から祝っていた。シエラだけは、隅の席で静かに杯を傾けている。それでも、口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
*
それから数日後の夜、国境の見回りから戻る道すがら、二人並んで歩いていた。星のよく見える夜だった。ステンドグラスの街灯りが、遠くにぽつぽつと点る。
「疲れたな」
カトレアが、大きく伸びをする。シエラは、隣で珍しく、肩の力を抜いていた。兜を小脇に抱え、夜風に汗ばんだ髪をなびかせている。
「……団長には、いつも助けられてばかりです」
ぽつりと、そう漏らす。いつもの職務的な硬さの抜けた声だった。
「昔から、そうだったろう」
「いいえ」
シエラが足を止める。少し先を歩いていたカトレアも、つられて振り返った。
「昔は、私が、カトレア様を護っていたはずでした。剣を握らせるのすら、危ぶんでいたくらいです」
星明かりの下、その横顔に浮かんでいたのは、これまで見たことのない、素直な色だった。
「いまでは、すっかり、立場が逆です。——それが、悔しくもあり」
言葉を切り、シエラはわずかに視線を落とした。
「同じくらい、誇らしくもあるのです」
カトレアは、何か気の利いた言葉を返そうとして失敗した。頬が、かっと熱くなる。いつもは、こういう場面で言葉に詰まるのは、いつだって相手の方だったはずなのに。
「な……なんだよ、急に」
しどろもどろな返事に、シエラが珍しく、小さく笑った。
「団長らしくもない、うろたえようですね」
からかうような声だったが、そこには確かな親しみがあった。カトレアは、それ以上何も言い返せなかった。星明かりの下を、二人分の足音だけがしばらく並んで続いていった。




