C3_叙勲
前触れは、何もなかった。
ある日の昼下がり、澄み渡っていたはずの空に、一筋の亀裂が走った。見る間に、幾つにも枝分かれしていく。地鳴りにも似た低い音が、大気を震わせた。裂け目の向こうから、見たこともない色の光がこぼれ、街のあちこちで、悲鳴があがった。市場の屋台が揺れ、鳩の群れが一斉に空へ舞いあがる。
だが、しばらくして、人々は、奇妙なことに気づきはじめた。
——街そのものは、崩れていない。
ステンドグラスの窓も、彫像も、石造りの家並みも、そのままそこにあった。裂け目から異形の気配が漏れ出し、空の色が幾重にも歪んでいるというのに、王都の姿かたちだけは、不思議なほど損なわれていなかった。誰もが束の間、困惑と、かすかな安堵のあいだで立ち尽くした。
「一体、何が……」
国王でさえ、玉座の間の窓から空を見上げ、絶句していた。傍らの王妃も、顔を強張らせたまま言葉を失っている。カトレアは、その隙間から見える空の裂け目をただじっと見つめていた。何かが決定的に変わってしまった予感だけが、胸の底に重く沈んでいた。
*
安堵は、長くは続かなかった。
国境に近い市街地に、見たこともない獣が現れた、という報せが届いたのは、その日の夕刻だった。鱗に覆われた、犬ともトカゲともつかぬ何かが、屋台を薙ぎ倒し、逃げ惑う人々に襲いかかっている。報せを届けた衛兵の声は、震えていた。
「数が、ひとつやふたつでは……!」
まだ、正式な騎士でもないカトレアは、最後まで聞かず、レイピアを掴んで駆け出していた。
「姫様、お待ちを!」
呼び止める声を振り返りもしなかった。王宮の廊下を駆け抜けながら、遠くの空にまだ幾筋もの裂け目が走っているのが見えた。ガロや他の騎士たちも、それぞれの持ち場へ散っていく。誰もが、これまで見たこともない事態に浮足立っていた。それでも、迷っている暇はなかった。
*
現場は、悲鳴と怒号に満ちていた。
倒れた屋台の下敷きになった老爺、腰を抜かした母子。崩れた石畳、蹴散らされた果物籠。異形の獣が、その母子めがけて、大きく口を開ける。
「そこまでだ」
カトレアが割って入った。レイピア《ルミナス》の切っ先が、獣の顎先をかすめる。振り下ろされた爪を、光の軌道でなぞるように受け流し、体勢を崩した獣の脇腹へ鋭く一閃。獣が悲鳴じみた声をあげて怯む隙に、カトレアは母子の腕を取り、路地の奥へと押しやった。
「大丈夫。まず、離れて」
短く、けれど確かな声だった。恐慌に駆られた人々の中で、その声だけが揺らがずに響いた。
もう一体、獣が迫る。カトレアは身を翻し、迎え撃つ。爪の一撃を半歩引いて躱し、伸びきったその一瞬を狙って脇腹へ返す刃を突き入れる。獣が崩れ落ちるのを見届ける間もなく、三体目が横合いから飛びかかってきた。とっさに屋台の残骸を蹴りあげ、盾がわりにして受け止める。木片が四方に飛び散った。
「そっちへ行くぞ、離れてろ!」
叫びながら、獣を、人気のない路地へと誘い出す。その途中、行きつけの酒場の前を通りかかった。ナナが、常連客たちを奥へ避難させながら、こちらに気づいて叫ぶ。
「姫様、無茶しないでくださいよ!」
「ナナこそ、隠れていろ!」
軽口を交わす暇も惜しかったが、無事な姿を確かめられただけで、幾らか肩の力が抜けた。踏みこみ、躱し、切り返す——一連の動きに、迷いはひとつもなかった。倒れた老爺を、近くの衛兵に託しながら、なお次の敵へ視線を向ける。ひとりで幾体もの獣を相手にしながら、それでも逃げ遅れた者たちの位置を片時も見失わなかった。子どもを抱えた女が転びかけると、瞬時に間合いを詰めて支え、そのまま体を入れ替えて背後から迫っていた獣の爪を弾く。
不意に死角から、四体目が飛びかかった。躱しきれず、肩口を鋭い爪先がかすめる。熱い痛みが走ったが、怯む間もなく体を捻ってレイピアを突き返した。手応えとともに、獣が地に崩れる。滲む血を袖で拭う暇もなく、次の獣へ向き直った。
——護る。それだけだった。
椅子に座っていられなかった幼い日から、真似ることばかり覚えてきた。手品も、剣の型も、誰かの動きをなぞることでここまで来た。だが、いま振るっているこの一振りだけは、誰の真似でもなかった。剣才だと、才だけだと言われようと構わない。目の前で誰かが傷つくのを、黙って見過ごせないだけだった。息を継ぐ間もない攻防だったが、その太刀筋には、乱れひとつなかった。
*
駆けつけたシエラが、その光景を目にしたのは、ちょうどそのときだった。
一瞬、目を見開いたのが、視界の端に映った。剣を振るう合間、それだけしか、確かめる余裕はなかった。
「……姫様」
シエラの声が、これまでとは違う響きを帯びていた。剣を抜き、隣に並ぶ。
「手を貸します」
「ああ、頼む」
短いやり取りだけで、二人の呼吸は、驚くほど合っていた。背中合わせに構え、迫る獣を、次々と退けていく。カトレアの剣が薙いだ先を、シエラの剣が仕留める。シエラが崩した体勢を、カトレアの一閃が刈り取る。稽古場でもここまで息の合った攻防を見せたことはなかったのに、実戦の場で、二人の剣は、まるで最初からそう出来ていたかのように噛み合っていた。
「肩の傷は」
戦いの合間、シエラが短く尋ねた。
「かすり傷だ。気にするな」
「……無茶を」
咎めるような声だったが、それ以上は続かなかった。すぐそばを、ガロが若い衛兵たちを率いて駆け抜けていく。
「姫様、こちらは儂らに任せて、大通りへ!」
「頼んだ、ガロ!」
叫び返し、カトレアはシエラとともに、次の現場へと走った。
*
騒ぎが収まったのは、日が暮れきった頃だった。
裂け目そのものは、まだ空に残っている。だが、街を脅かしていた獣は、ひとまず退けられた。焼け出された屋台の残骸、怯えたままの人々——それでも、命を落とした者はいなかった。返り血と土埃にまみれたカトレアの姿を見て、駆け寄ってきた母子が涙ながらに頭を下げた。
「ありがとう、ございました……」
「無事で、なによりだ」
カトレアはただそれだけを答えて、笑ってみせた。
その働きは、瞬く間に王宮へ伝わった。国王は、話を聞くなり、玉座から身を乗り出さんばかりに頷いたという。
数日後、王宮の大広間には、多くの人が詰めかけていた。居合わせた民、騎士団の面々、そしてあの日助けられた者たちの姿もあった。ステンドグラスの窓から差す光が、広間いっぱいに幾つもの色を落としている。
国王が、玉座から立ち上がり、カトレアの前に剣を掲げた。豪快な笑い声はどこにもなく、ただ厳かな面持ちだけがあった。
「カトレア。そなたの働き、しかと見届けた。此度をもって、そなたを、正式な騎士として認める」
「はっ」
カトレアは片膝をつき、頭を垂れた。傍らでは、王妃が目元を押さえている。かつて「危のうございます」と眉をひそめていた、あの人だった。剣の切っ先が、両の肩に静かに触れた。それから、まっすぐに顔を上げる。
「ボクは、この国と、この国の民を、護ると誓う」
王女としてでなく、騎士としての誓いだった。広間に割れんばかりの歓声があがる。あの日助けられた母子も涙ぐみながら手を叩いていた。
シエラだけが、少し離れた場所からその姿をじっと見つめていた。歓声の中、その口元にだけ、これまで見たことのない深い色の何かが浮かんでいた。




