C2_硝子の国
年月は、たゆまぬ稽古とともに過ぎていった。
朝も、昼も、日が落ちてからも。硝子の国の光あふれる稽古場で、カトレアは、レイピアを振り続けた。振り疲れて座りこむことはあっても、稽古を厭う日はなかった。木剣は、いつしか本身に持ち替わり、細かった手首も、柄を握るにふさわしい太さへと育っていった。
「参ります」
ガロの槍が、うなりをあげて突き出される。カトレアは、半歩だけ体を開き、切っ先を紙一重で見送った。返す一閃が、ガロの籠手をかすめる。手加減された打ち合いのはずが、近頃は、ガロの方が防戦に回ることも珍しくなかった。
「まだまだ、いくぞ!」
息を弾ませながら、カトレアが、また踏みこむ。何十合と続いた打ち合いの末、ガロが、ふうと息をついて、槍を引いた。
「もう、儂の教えることは、そう多くはございませんな」
感心とも呆れともつかない顔で、そう漏らす。かつて槍しか知らなかった老騎士が、幾年もかけて磨きあげたレイピアの型は、いまや教えた本人の目にも追いきれないほどの速さで、弟子の腕に馴染んでいた。
「まだまだだよ、ガロ」
汗を拭いながら、カトレアは笑う。それでも、その太刀筋には、迷いのかけらもなかった。
水を飲む合間、ガロが、ぽつりと漏らしたことがある。
「姫様を教えると決めたとき、他の指南役どもは、笑いましたぞ。槍の男に、レイピアの何がわかると」
「いまじゃ、誰も笑わないだろ」
「はい。誰も」
短いやり取りだったが、ガロの声には、確かな誇らしさが滲んでいた。専門でもない得物を選び、慣れない指南を重ねてきた歳月は、決して無駄ではなかったのだとその横顔が語っていた。
*
ある年の建国祭、恒例の御前試合に、カトレアも名を連ねることになった。
「姫様が、また物騒なことを」
侍女たちの噂話をよそに、当日迷いなく出場する。相手は、歴戦の若手騎士たち。並みいる観衆の前、レイピアの軽やかな一閃が、次々と相手の得物を弾き、あるいは絡めとっていった。
三人抜き、四人抜き。国王は、我が事のように誇らしげに手を叩く。王妃でさえ、手放しで喜ぶ姿を隠さなかった。
最後に立ちはだかったのは、シエラだった。二人の打ち合いは、これまでのどの組み合わせより長く続いた。息を切らし、汗を飛ばしながらの真剣な攻防——結局、僅差でシエラが競り勝ったが、観衆のどよめきは、勝者よりも、あわやという場面を作った挑戦者へ向けられていた。
「……次は、負けないぞ」
肩で息をしながら、悔しさ半分、笑み半分でそう言うと、シエラは珍しく、口の端をわずかに緩めた。
「そのときを、楽しみにしております」
そんな返しをするのも、はじめてだった。
*
稽古帰り、町の裏路地を通りかかったとき、若い衛兵見習いが、年嵩の衛兵に怒鳴りつけられているのを見かけたことがある。ちょっとした失態を、執拗に責め立てているだけの、八つ当たりじみた叱責だった。
カトレアは、迷わず割って入った。
「そのくらいにしておけ。誰にでも、しくじりはある」
姫の一声に、年嵩の衛兵はばつが悪そうに口をつぐんだ。見習いの少年は、目を丸くして助けてくれた姫を見つめている。カトレアは、それ以上は何も言わず、少年の肩を軽く叩いて、その場を後にした。
こうした振る舞いに、見返りを求めたことは、一度もなかった。剣の腕が評判になるにつれ、こうした小さな噂も、いつしか市井へ広まっていった。
*
稽古の合間、息抜きに町へ下りるのが、カトレアの楽しみのひとつだった。
夕暮れ時の酒場は、いつも賑やかだった。ステンドグラスの街灯が、通りを淡く照らしはじめる頃、カトレアは、稽古着のまま、行きつけの店の扉を押し開ける。
「ナナ、今日も可愛いな。ボクの相手をしてくれないか」
看板娘に、臆面もなく声をかける。ナナは、盆いっぱいの酒杯を運びながらくすくすと笑った。
「姫様ったら、また始まった。何人目のお相手ですかね、それ」
「ボクは、可愛い女の子は、誰でも口説くことにしているのさ」
「はあ?」
「心に決めた相手がいるなら、身を引く。でも、いないなら——ボクにも、可能性があるってことだろ?」
「屁理屈ばっかり」
そう言いながらも、ナナは、まんざらでもなさそうに酒杯をひとつ、余分に置いていった。
「姫様は、他に口説く相手、いないんですか」
「シエラという、手強い相手がいるにはいるけどね」
「ああ、あの騎士様。姫様には、勿体ないくらいの堅物ですよ」
からかうような口ぶりに、カトレアは肩をすくめてみせた。愛想のいい笑みの下に、ちゃんとした芯があるのも、ナナの好ましいところだった。断られ慣れているはずなのに、その調子はいつも変わらなかった。
*
稽古を終え、汗を拭うシエラの傍らへ、カトレアは当たり前のように腰を下ろした。稽古着の襟元を緩め、汗ばんだ首筋に風を通しながら。
「シエラ、今日も見事だったな。——なあ、ボクと、少し出かけないか」
「お戯れを。職務中でございます」
顔色ひとつ変えず、シエラはそう躱す。何百回、繰り返しただろうやり取りだった。カトレアは、めげるでもなくにやりと笑う。
「職務が終わったら、は?」
「……酒場のナナとでも、どうぞ」
そっぽを向くような物言いだった。にべもない返事のはずが、その硬さの奥に、微かな棘が滲んでいるのを、カトレアはいつも見逃さなかった。断られるたび、なぜだか余計に楽しくなる。
年を重ねるごとに、シエラの佩く剣は重みを増し、纏う空気にも隙のなさが磨かれていった。それでも、この一線だけは、幾年経っても崩れなかった。二人のあいだだけの、お決まりの儀式のようなものだった。
それでも、夜番の見回りに、二人で並んで歩くことは増えていった。口説き文句を返り討ちにされる合間、他愛のない話も交わすようになる。剣の話、町の噂、時には互いの子どもの頃の失敗談。そんな時だけ、シエラの声は、いくらか和らいで聞こえた。
*
稽古がある域に達した頃、ガロは、カトレアを、王宮の外れへ連れ出した。
古びた聖堂だった。うち捨てられて久しいのか、蔦が石壁を這い、色硝子の窓も幾枚か罅割れている。それでも、差しこむ光だけは、変わらず美しかった。足音だけが、やけに大きく響く。中央には、澄んだ水を湛えた鏡——水鏡が、静かに佇んでいた。
「力ある者だけが、挑むことを許される場所です」
ガロは、それだけを告げると、聖堂の入口で足を止めた。ここから先は、独りで、という意味だった。
カトレアは頷き、水鏡へと歩み寄った。水面が、わずかに揺れる。——そこで何が起きたか、多くを語る気にはなれないが、聖堂を出たとき、その手には見慣れぬ一振りのレイピアがあった。柄を握った瞬間、迷いなくその名がわかった。
——《ルミナス》。
光の盾、という意味だと、なぜだか知っていた。聖堂を出て振り返ると、ガロが、深々と一礼していた。それ以上、何を尋ねることもしなかった。
*
こうして、稽古と口説きに明け暮れる日々が続いた。
朝は稽古場でガロと打ち合い、昼は町へ下りてナナをからかい、夕暮れにはシエラを口説いては、いつもの調子で躱される。夜は夜で、王宮の食卓を囲み、国王の武勇伝を何度も聞かされ、王妃の小言に頷いてみせる。国王は相変わらず豪快に笑い、王妃は相変わらず眉尻を下げていた。硝子の国の光を浴びながら、カトレアは、剣を振るい、恋を語り、笑い続けた。何ひとつ、不足のない日々だった。
窓のステンドグラスを通して、いつもと同じ色の光が、稽古場に差しこんでいる。その光の中で、カトレアは、今日もまた、レイピアを構えていた。振るうたび、色とりどりの光の粒が、刃の軌跡に沿って舞い散った。




