P6_弔い
さらに幾世代かが過ぎた、ある日のことだった。
前触れは、何もなかった。
夕刻、空に走った一筋の亀裂が、見る間に幾つにも枝分かれしていく。裂け目から、見たこともない色の光と、聞いたこともない金属の匂いが溢れ出した。石畳の道の向こうに、見知らぬ塔が生えるように現れる。葡萄畑だったはずの土地が、瞬きの間に、見覚えのない街並みへ塗り替えられていく。地鳴りが、足の裏から這いあがってきた。空気そのものが軋むような、耳慣れない音が、郷じゅうを覆っていく。
悲鳴があがった。ピアは、考えるより先に飛び出した。崩れる屋根の下から老爺を引きずり出し、裂け目から這い出てきた見知らぬ獣——鱗に覆われた、犬ともトカゲともつかぬ何か——の喉笛を、爪で切り裂く。倒したそばから、また次の一匹が、裂け目の奥から這い出てくる。だが、いつもの夜回りとは、何もかもが違った。相手にしてきたのは、せいぜい狼や、はぐれ者の同族だった。これは、桁が違う。数も性質も、その手に負える範囲の外にあった。切っても切っても、裂け目そのものが閉じない限り、際限がなかった。
そのとき——見覚えのある影が、崩れゆく通りの向こうに立っていた。
「……ヴィオラ」
思わず、その名を呼んだ。数世紀ぶりの再訪だろうか、と一瞬、場違いな考えがよぎる。「郷には手を出さない」「せいぜい、長生きしなさい」——幾度も交わしてきた、あの皮肉混じりのやり取りが、頭の隅をよぎった。だが、次の瞬間、違和感が背筋を這いあがった。
長い黒髪。値踏みするような佇まい。姿かたちは、間違いなくヴィオラのものだった。数世紀にわたって、幾度となく見てきたその姿。だがその瞳には、光がなかった。いつもの、人を試すような、面白がるような光が——何もない。ただ、虚ろな穴が二つ、そこにあるだけだった。硬く機械のような足取りで、ヴィオラが、こちらへ向かって来る。
「お前が……郷に、手を出すというのか」
声に、裏切られたという響きが滲んだ。「郷には手を出さない」——幾度となく、そう言い残して去っていったはずだった。だが、ヴィオラは答えない。ただ、抜き放った爪を無造作に振るってくる。
ピアは、それを弾いた。手応えに、確信する。これは、ヴィオラの意志ではない。何か別のものに、操られている。
「ヴィオラ、儂だ。目を覚ませ」
応じない。爪が、また振るわれる。躱し、受け、退がる。何度、名を呼んでも、その顔には、皮肉のひとつも浮かばなかった。言葉は届かなかった。
ピアは、住民を逃がすことに切り替えた。操られたヴィオラを、討つことも正気に戻すこともできないまま。崩れる家々の間を駆け、泣き叫ぶ子を抱えあげ、瓦礫の及ばない開けた場所へ次々と運び出した。老いた体を引きずる者には肩を貸し、崩れる梁の下からは、間一髪で幼子を引き抜いた。だが、土地そのものは守り切れなかった。石造りの家々が、次々と裂け目の向こうへ呑まれていく。かつて、迷子のリタを見つけた灌木の茂みも、トビアスの鍛冶場も、跡形もなく塗り替えられていった。館も、例外ではなかった。長年住み慣れた広間が、宝物を収めた棚もすべて、瓦礫と共に崩れ落ちていく。悲しむ暇もなかった。葡萄畑も、代々受け継がれてきた井戸も、見る間に、見知らぬ景色の下へ沈んでいく。千年、見守り続けてきた景色が、たった一夜で、跡形もなくなろうとしていた。
夜が明ける頃には、天変地異はいくらか落ち着いていた。ヴィオラは、何かに引かれるように、崩れた郷を、ふらりと後にした。呼び止める声も、届かなかった。
*
朝、崩れた郷の跡に、生き残った住民たちが身を寄せ合っていた。
すすり泣く声、呆然と瓦礫を見つめる目。誰もが、変わり果てた郷の姿に言葉を失っている。かつて葡萄畑だった場所には、見知らぬ石の瓦礫が積み重なり、井戸端で交わされていたはずの朝の挨拶も、もうどこにもなかった。ピアは、瓦礫の下から、まだ息のある者を探し、次々と運び出した。手当てをする。水を配る。いつもと変わらぬ、静かな働きだった。
だが、以前とは何かが違っていた。
「……あの女、ピアと同じものだったよな」
誰かがそう呟くのを、ピアは聞いた。囁きは、瓦礫の間を水のように広がっていく。「森の貴婦人も、所詮は、あちら側のものだったのではないか」。長年、館へ顔を出してきた自警団の若者——トビアスの血を引く者——の目にさえ、初めて怯えが混じった。差し出した手を、一瞬、ためらうように見つめられる。
「……あんたは、味方、なんだよな」
若者が、絞り出すように、そう尋ねてきた。答えを求めているのではなく、自分にそう言い聞かせたいだけの声だった。ピアは、それに、頷きだけを返した。言葉で説く気にはなれなかった。幼い子は、母親の背に隠れて、こちらを窺うだけだった。
弁明する言葉を、ピアは持たなかった。持てるはずもなかった。千年かけて積んできたものが、たった一晩の出来事で軋む音を立てている。それを、ただ黙って聞いていた。「お前には、わからないだろうな」——いつか、ヴィオラに投げつけた言葉が、いま、そのまま自分へ返ってきているようだった。異端は、所詮、異端でしかなかったのかもしれない。
それでも、瓦礫の下から助け出された老女が、震える手で、ピアの手を握り返してきた。
「ありがとうよ、貴婦人様」
か細い声だったが、確かな響きがあった。誰もが疑いの目を向けたわけではない。それでも、その日を境に、以前のような屈託のない笑顔で迎えられることは、もうなかった。それでも、手を止めるつもりはなかった。
*
住処を失った人々に交じって、ピアは、あてもなく幾つかの町を渡り歩いた。行く先々で、似た話ばかりを聞いた。空が裂けたのは、ここだけではないという。見知らぬ景色に呑まれた町、消えた村、行方の知れない一族。誰もが、似たような喪失を抱えて、途方に暮れていた。
道々、擦れ違う難民たちの顔は、どれも似ていた。故郷を失い、行く先も定まらない、あの虚ろな表情。かつて自分が守っていた郷の民たちの顔と、それは重なって見えた。ただ、今度は誰も、ピアを頼ってはこなかった。
ピアは、あてもなくさまようだけでは終わらせなかった。戦の匂いのする者を、自ら探して回った。手当てをしてやった傷兵から、口の堅い旅商人から、時には脅すようにして、知る限りのことを吐かせた。集めた話を、ひとつずつ繋ぎ合わせていく。世界を無理やり縫い合わせた神がいること。その神が、いままた人を裁こうとしていること。神域と呼ばれる異様な場所に、その総本山があるらしいこと。この天変地異にも、ヴィオラのあの虚ろな瞳にも、ひとつの答えが繋がっていく。
——ヴィオラも、操られていた。意志なき駒にされていただけだった。
裏切られたのではない。壊されたのだ、ヴィオラ自身も。あの虚ろな瞳を思い出すたび、怒りよりも、鈍い痛みの方が先に立った。数世紀にわたって、飄々と現れては、皮肉を残して去っていった、あの気配のない足取り。あれもまた、いつか誰かに、こんな形で奪われてしまうかもしれないのだと、思ってもみなかった。
住民の目に、もう以前のような信頼はなかった。誰も、行けとも、行くなとも言わなかった。千年かけて築いた関わりの、その静かな終わり方に、ピアは、ひとりで得心するしかなかった。それでも、胸の底で揺るがないものがあった。護る、という千年の習性だけは。
各地で名を売る戦士の一団が、神域へ向けて隊を組んでいるという話も、幾度か耳にした。だが、誰かの戦列に加わる、という発想は、そもそもピアには馴染まなかった。旗の下に並び、誰かの号令で動く——そんな生き方を、これまで一度もしてこなかった。誰にも知られず、誰の指図も受けず、独りで郷を守ってきた。そのやり方を、最後まで変えるつもりはなかった。
グレンのことを思った。長いあいだ、思い出す時間さえ惜しむように、日々の中に紛れさせてきた面影だった。丘へ戻れば、あの場所が無事かどうか、確かめられるはずだった。それでも、足はそちらへ向かなかった。跡形もなく塗り替えられた景色を、この目で見てしまうのが、怖かった。
それでも、あの誓いだけは、まだ胸の内に残っている。お前が愛したものを、私が生きる限り護る——たとえもう、誰ひとり自分を頼らずとも。グレンが愛したこの郷の民を、脅かす根源が、神域にある。それと戦わずして、千年抱き続けてきた想いに、顔向けができるはずもなかった。ピアは単身、神域へと足を向けた。
*
幾つもの戦場を越え、幾人もの、ただ生き延びるためだけの者たちとすれ違いながら、ピアは、ひたすら神域を目指した。
辿り着いたそこは、影ひとつ落ちない、白々とした光に満ちていた。遠くで、怒号と剣戟の音が、絶え間なく続いている。名もなき者たちの戦が、あちこちで繰り広げられているらしい。足元の土は、継ぎ目の走る硬い格子に変わっていた。だが、ピアの意識は、目の前の一人だけに向いていた。
そこで、虚ろなヴィオラと対峙した。
刃を構えたまま、こちらへ向かって来る。ピアは、静かに一歩、前へ出た。
郷では、誰の目にも怯えが混じり、言葉を交わせる相手はいなくなっていた。虚ろな瞳のこの姿であっても、こうして向き合えば、まだ言葉を交わせる。悲しい形の再会だとわかっていながら、屈折した安堵が、憎まれ口となって、つい口をついて出た。
「お前こそ、面白くもない女になったな。まるで笑えないぞ」
答えは返らない。刃が、無造作に振り下ろされる。ピアは、それを、素手で受け止めた。刃と掌がぶつかる、硬い音が響く。千年、同族を狩り喰らい続けた体は、並みの得物ごときで傷つきはしなかった。
二度目の、攻防だった。左から、右から、下から掬いあげるように。ヴィオラの剣筋には、無駄がなかった。長い年月で磨かれたものであろう、その技だけが、意志を抜き取られてなお、そこに残っている。ピアは、受け、躱し、時には素手で弾き返した。間合いが詰まるたび、間近に見えるその虚ろな顔へ、ピアは、かつての言葉を叫ぶように投げかけた。
「儂に長生きしろと言ったのは、お前くらいじゃがな。殺しに来るとは、皮肉なものじゃのう」
「何百年も、暇そうに辺境まで来ておったのに。今はずいぶん、ご多忙のようじゃな」
言葉を重ねるたび、刃の速さが、わずかに鈍る。踏みこみが浅くなり、振るう軌道に、迷いのようなものが混じりはじめた。ヴィオラの瞳に、一瞬、抵抗するような光が揺れた。届いている。だが、支配は解けきらない。振り下ろされた一撃を、ピアは、紙一重で躱した。頬を、切っ先がかすめる。
ヴィオラの腕が震えていた。刃が、ピアの喉元で止まる。切っ先が、小刻みに揺れていた。抗っているのだ。命じられるままの駒でありながら、最後の一線だけは譲るまいとしている。
「……そうだ。それでいい」
ピアは、静かに、そう告げた。刃を押し返しもせず、ただ、その震える手を見つめていた。数世紀にわたって、互いの在り方を知ってきた相手に、いま初めて、労わるような声をかけていた。郷を壊し、千年の信頼を壊した、その張本人へ向けて。それでも、憎しみは湧いてこなかった。壊されたのは、ヴィオラも同じだったのだから。
見上げれば、いつのまにか、顔のない、塔のように高い影が、すぐそこに立っていた。逆らうことなど許されない、絶対の気配。声もなく、ただそこに在るというだけで、あらゆる意志を圧し潰してくる。その、役目を果たせなかった駒へ——裁きが、降りようとしている。無用のものとして、処分されようとしている。ヴィオラの体が、抗う間もなく、その場に縫い止められた。震える瞳に、初めて、はっきりとした恐怖が浮かぶ。それは、機械のような虚ろさとは違う、確かに彼女自身の色をした感情だった。
考えるより先に、体が動いていた。
千年、染みついた習性だった。護る、ただそれだけの反射。迷子のリタの手を取ったときも、トビアスの無茶を呆れながら見守ったときも、いつもそうだった。理屈より先に、体が動く。ピアは、ヴィオラを突き飛ばすように庇い、その身に、まばゆい一撃を受けた。
世界が、真っ白に灼けた。焼けつくような衝撃が、骨の髄まで貫いていく。それでも、痛みより先に、安堵の方が、わずかに勝った。
崩れ落ちる、その一瞬。脳裏をよぎったのは、迷子の少女が見上げた丸い目。稽古で悔しがる若者の笑顔。そして——湖畔の月明かり。波打ち際に散らばる、光の粒。差し出された、硬い手のひら。
——グレン。
それだけを、思い浮かべた。この千年、ずっと変わらず。
裁きを果たしたとでもいうように、影は、興味を失ったように気配を薄れさせ、やがて、跡形もなく消えていった。
ヴィオラの支配が、解けた。
自我を取り戻した目に映ったのは、絶望的な光景だった。地に伏したピアの亡骸。それを成した、裁きの神の姿。何が起きたのか、すぐには呑みこめなかった。震える手で、ピアの体に触れる。もう、指の先ほどの熱も残っていなかった。
——からかってやるだけの、つもりだった。
数百年、辺境の館へ足を運んでは、皮肉のひとつも投げて、それで満足していた。崩れない女を、崩してやろうと、ただそれだけのつもりだった。それだけの、はずだったのに。
*
生き延びたヴィオラは、ピアの亡骸を抱え、ローレへと持ち帰った。慣れない重みを腕に、長い道のりを、休むことなく歩き通した。
変わり果てた郷の丘に、それでも、そこだけは残っていた。文字の風化した、もう誰の墓とも知れない墓標が、ひとつ。かつて、討伐者と呼ばれた男の墓だった。ヴィオラは、迷わずその場所を選んだ。何百年も前、ピアが一度だけ、ぽつりと漏らした男の話を、覚えていたのかもしれない。あるいは、代々の住民たちが語り継いできた、あの誓いの物語を、風の噂に聞いていただけかもしれない。
その傍らに、ピアを横たえる。土を掘る手つきは、剣を振るうときのそれとは、まるで違って、ひどく不慣れだった。爪の先に土がこびりつく感触も、初めて知るものだった。それでも、途中で止めることはしなかった。日が傾き、また昇るまで、黙々と手を動かし続けた。手近な石を積み、不格好な墓標を、ひとつ、こしらえた。
「……私も、お前のように、生きたかったのかもしれん」
らしくない声で、そう呟く。声の端が、わずかに震えていた。誰にともなく零れた本音を、拾い集めることもしなかった。それから、来たときと同じように、静かに、その場を去っていった。振り返ることは、一度もなかった。
二つの墓標は、かつて郷のあった場所、あの湖まで見渡せる丘の上に並んで立っていた。そこに誰が眠るとも誰にも知れぬまま、ただ静かに。




