P4_森の貴婦人
グレンがいなくなってからも、ピアの夜は変わらなかった。
郷の外れを見回り、同族や災いの気配を嗅ぎつけては容赦なく退ける。荒れた庭に迷いこんだ狼の遠吠え、山賊崩れの盗賊が焚く火の匂い、飢えた同族の気配——そのどれもを、夜のうちに静かに始末してしまう。月のない夜も嵐の晩も、休むことはなかった。朝になれば、何事もなかったように郷はいつもの顔で目を覚ます。畑には朝露が降り、鶏の声が響き、誰ひとり昨夜の静かな攻防を知らないまま一日を始める。その正体を知る者は、街にはひとりもいない。ただ、夜な夜な館の周りに人影を見た、という噂だけが、いつからか広まっていた。人々は、いつしかそれを「森の貴婦人」と呼ぶようになる。姿を見せない、けれど確かに郷を守っている誰かの気配として。
*
迷子になった少女を、ピアが見つけたのは、そんなある晩のことだった。
グレンの孫にあたる子だった。名を、リタといった。夜露に濡れた灌木の茂みにうずくまり、しゃくりあげながら泣いていた。小さな肩が、寒さと心細さで震えている。その前に、ピアは、隠れもせず姿を現し、手を差しのべた。冷えきった小さな手を包みこむと、リタは、はっと息を呑んだが、すぐにすがるようにその手を握り返してきた。そのまま、家まで送り届ける道々、他愛のない話をしながら歩いた。木々のあいだを抜ける夜風が、二人の髪をそっと撫でていく。
「あなた、森の貴婦人?」
リタは、怖がる素振りも見せず、そう尋ねてきた。涙で濡れた丸い目が、まっすぐにピアを見上げている。祖父から、この森には優しい守り神がいる、と聞かされていたのかもしれない。
「……そう呼ばれているらしいな」
ピアは、隠さず答えた。「本当は、人ではないがな」。それを聞いても、リタは、怖がるどころか目を輝かせた。頬に残った涙のあとが、月明かりに、うっすらと光っている。
その日以来、リタは、たびたび館を訪れるようになった。ピアも、隠れることなく、その訪れを迎え入れる。錆びついた門を、リタは軽い足取りで駆け抜け、荒れた庭を突っ切って玄関の扉を叩いた。摘んだばかりの野花を不格好な束にして持ってきたり、学校であった他愛のない出来事を、身振り手振りで大げさに話したり。物怖じしない、まっすぐな気性だった。館の埃をかぶった広間にも、いつしか、リタの明るい声が響くようになっていた。
ある晩、暖炉の前で、ピアは、この郷の昔語りをした。
薪が爆ぜる音だけが、静かな部屋に響いている。橙色の灯りが、二人の影を壁いっぱいに揺らめかせていた。ピアは、その炎を見つめながら、ゆっくりと語りはじめる。かつて、この土地に討伐者の男がいたこと。人でないものにも臆せず向き合い、損得も顧みず、他人のために動いた愚か者だったこと。その男との約束があって、いまも、この郷を護っているのだということ。
「その人、あなたの……」
リタが、何かを察したように、そっと尋ねる。炎の熱で、頬がほんのりと赤らんでいた。ピアは、少し困ったように笑って、それ以上は語らなかった。だが、リタは、それだけで、十分に汲み取ったようだった。膝を抱え、しばらく黙って炎を見つめたあと、ぽつりと言う。
「その約束、わたしも、覚えておくね」
幼い声に、思いのほか、確かな響きがあった。ふとした仕草の端々——首を傾げる角度や、笑うときに片目だけ細める癖に、ピアはグレンの面影を見つけて、胸の奥があたたかく疼くのを感じた。窓の外では、静かに雪が降りはじめていた。
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リタは、やがて大人になり、母となった。
自分の子にも、そのまた子にも、「森の館には、優しい貴婦人が住んでいる」と語り継いだ。正体も、人ではないということも、隠さなかった。かつて郷を護った討伐者の男と、その約束のことも、代々、暖炉端の昔語りとして受け継がれていく。ピアの棲む館に、代替わりのたび、家族総出で顔を出す。子どもらは荒れた庭を駆け回り、大人たちは、埃をかぶった長椅子に腰かけて他愛のない世間話に興じた。時には摘みたての花を、時には焼きたての菓子を携えて。子どもの誕生、婚礼、収穫の祝い——家系の節目のたび、大勢で押しかけては灯りをともし、笑い声を響かせて賑やかに祝う日もあった。長らく静まり返っていた館に、そんな夜だけは、あたたかな灯りと賑やかな声が満ちた。
その関係は、何十年ものあいだ温かく続いた。ピアは、誰の前でも姿を隠さず、変わらぬ顔で代替わりのたびに新しい子らを迎えた。年老いていく者たちが、若い日のピアと変わらぬその姿に、はじめは戸惑い、やがて、それもまた、この一族だけが知る秘密として大切に守られていった。祖母から母へ、母から娘へ。手渡されるのは血筋だけではなかった。ある冬の夜に語られた、ひとつの約束の物語もまた、ともに受け継がれていった。
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リタが、老女となり、静かに息を引き取ったのは、ある冬の夜のことだった。
ピアは、グレンのときと同じように、葬列には加わらなかった。ただ、森の外れから遠く見送るだけ。棺を担ぐ孫たちの中に、あの晩、迷子だったリタの面影が、ふとした横顔に重なる。老いて逝ってなお、丸い目と片目だけ細める笑い方は、最後まで変わっていなかったのだろう。
何度目かの、けれど何度経験しても慣れることのない喪失だった。まだ癒えていなかったグレンの死の痛みに、リタを見送った痛みが静かに重なっていく。積もった雪が、音もなく梢を覆っていた。吐く息が白く曇り、風に流れて消えていく。ピアは、その白い息の行方を、いつまでも目で追っていた。
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そんな折、館に、見慣れぬ女が訪れた。
長い黒髪を緩やかに結いあげた、気品のある女だった。身にまとう衣は、この時代の郷の流行りとは明らかに違う、古めかしくも豪奢な仕立て。裾が、埃をかぶった床を、絹擦れの音とともに滑っていく。物腰には、どこか値踏みするような余裕が滲んでいる。数百年は生きているであろう古参の気配を、隠そうともしていなかった。館の空気が、その一瞬で、ぴんと張りつめる。
「お前が、あの変わり者か」
女は、そう言って、ピアの全身をゆっくりと眺め回した。害意は感じられない。それよりも、興味とわずかな警戒が入り混じった目つきだった。
「私は、ヴィオラ。同族のあいだじゃ、それなりに名の知れた身だ」
聞き覚えのある名だった。高位の吸血鬼として、遠方の同族のあいだでも一目置かれる存在だと、噂に聞いたことがある。
「わざわざ、こんな辺境まで」
「噂の主を、一度、この目で見ておきたくてな。人の血を吸わず、それどころか、縄張りに近づく同族を、片端から喰らっているという——妙な女がいる、と」
ヴィオラの声に、面白がるような響きが混じった。何人もの同族が、この森へ足を踏み入れ二度と戻らなかった。その噂は、いつしか遠方の一族の耳にまで届いていたらしい。ピアの悪名は、人の側でなく同族の側で、静かに広まっていた。
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「人と、添う気か」
ヴィオラが、値踏みをするような目のまま、鼻先で笑う。
「奪わぬ吸血鬼など、もはや獣ですらない。お前がここで何をしていたところで、いずれ、その人間どもは、みな死ぬ。子を生し、老い、朽ちて、土に還る。そのたびに、お前だけが、ひとり残される。それでも、続けるのか」
見透かすような物言いだった。まるで、リタを見送ったばかりのこの傷を、正確に見抜いているかのように。ヴィオラの赤い瞳が、笑いながら、ピアの反応を、じっと窺っている。
害意というより、からかい半分の言葉だった。だが、まだ生々しい喪失の記憶を抱えたピアには、その軽さがかえって鋭く刺さった。森の外れで見た、あの白い息の行方を、まだ忘れていなかった。怒りとも悲しみともつかない感情が、喉の奥でせりあがる。爪が、無意識に、手のひらへ食いこんだ。
「……お前には、わからないだろうな」
ピアは、静かに、そう返した。自分の生き方が、同族の物差しでは測れない、異端であることくらい、承知していた。理屈で説けと言われても、うまく言葉にできる自信もない。それでも。
「私は、続ける。私の勝手だ。お前に、指図される謂れはない」
ヴィオラは、本気で論破しようという気もなさそうに、飄々と肩をすくめた。理解できない、というより理解する気もない、というふうに。
「まあ、好きにするがいい」
そう言って、興味を失ったように、館の入り口へと踵を返す。長い黒髪が、動きに合わせて、さらりと揺れた。
「見物させてもらった、それだけで満足だ。——ああ、それと」
去り際、思い出したように、付け足した。
「郷には手を出さん。お前と、事を構える気は、ないのでな」
その言葉には、噂を裏づける確かな重みがあった。ピアが、この郷のためなら、同格の相手にさえ牙を剥く——それを、ヴィオラは既に見て取っていた。だからこそ、わざわざ手土産のひとつも持たず、丸腰同然の軽さで訪ねてきたのだろう。喧嘩を売る気は、はじめからなかったのだ。
*
ヴィオラの気配が、夜の闇へ完全に溶け消えるまで、ピアは、その場を動かなかった。玄関の扉が閉まる音の余韻が、埃をかぶった広間に、いつまでも残っているような気がした。
傷ついた心のまま、それでも、譲らなかった自分を静かに確かめる。奪わぬ生き方は、獣ですらないと嘲られても揺らぎはしなかった。窓の外に目をやると、丘の方角に、まだ雪明かりが、うっすらと残っていた。あの下に、リタが眠っている。グレンも、遠くはない場所に。
——また、現れるのだろうか。
何のためだったのかも判然としない、あの来訪を思い返すと、うんざりした重さが、胸の奥に沈んでいく。答えの出ない苛立ちを、ピアは、夜風に紛れさせるように、そっとしまいこんだ。暖炉の火は、とうに消えていた。それでも、灰の底には、まだ、かすかな熱が残っていた。




