P3_波打ち際のダンス
湖は、郷の外れにあった。
夜風が、水面を撫でて渡っていく。まるい月が、さざ波の上に、無数の光の粒を散らしていた。人工の灯りなどひとつもない空に、月と星だけが、静かに瞬いている。砂地に足を踏み入れると、つま先がやわらかく沈んだ。踏みしめるたび、乾いた音が、二人の他には誰もいない岸辺に小さく響く。
「思ったより、遠かったな」
グレンが、額の汗を拭いながら言う。息を切らしながらも、その顔はどこか満足げだった。ピアは、湖面を見つめたまま鼻を鳴らした。
「討伐者も、大したことないな」
「大したことなくて、悪かったな」
くだらないやり取りに、思わず笑いがこぼれる。夜風が二人のあいだを通り抜けていった。屈託のない、ただそれだけの夜だった。
*
「踊らないか」
グレンが、ぎこちなく手を差し出してきた。
「唐突だな」
「せっかく、二人で来たんだ。理由が要るか」
理由なんてない、と言わんばかりの、まっすぐな差し出し方だった。ピアは、呆れたふりをしながらその手を取る。
波打ち際で二人、寄せては返す波のリズムに合わせて、覚束ない足取りを踏んだ。上手いとは言えない、ただの戯れのような踊り。足元は波が引くたび砂に半分埋もれる。グレンの手のひらはいつも通り硬く、それでいて思いのほか優しい力で、ピアの手を支えていた。踏み出すたび裾がひるがえり、素足に冷たい波がまとわりつく。
「先のことを、考えたことは」
グレンが、ふと、そんなことを訊いてきた。
「先とは」
「この先。……何年か経ったら、とか」
漠然とした問いだった。ピアは、少し考えて適当に答える。「そのうち、な」。それは、どこか他人事のように軽い言葉だった。グレンも、それ以上は追及せず、笑ってやり過ごす。いま、この瞬間の方がずっと眩しい。先のことなど、深く考えたくなかった。少なくとも、この夜だけは。
*
踊りが続くうち、グレンの息が、次第に上がっていく。
額に浮いた汗を袖でぬぐう。心臓の音が、触れた手のひらからとくとくと伝わってくる。人間らしい、生々しい熱だった。頬もうっすらと上気して、月明かりの下でも、はっきりと赤みが見て取れる。
——ピアは、ふと自分の手を見た。
汗ひとつかいていない、変わらぬ白い手。爪の先まで、体温すらろくに感じられない静かな手。何十年経とうと、この手はきっと同じままだろう。なのに、目の前のこの手はいま汗ばみ、息を切らし、確かに老いへ向かって時を刻んでいる。互いの手のひらのあいだに、埋めようのない隔たりがひとつ横たわっていた。
笑顔の下で胸の奥が静かに軋んだ。
分かっていたはずのことだった。分かっていて目を逸らしてきただけだった。それが、いま踊りの合間の、ほんの些細な仕草ひとつで、逃れようのない形をとって胸に落ちてくる。楽しい、と思うたび同じだけの重さで、その事実が追いかけてくる。
*
ピアは、踊りの足を止めた。
「グレン」
声が、自分でも驚くほど、静かだった。
「私は」
続けようとした言葉は、しかし、形になる前に遮られた。
グレンが、ピアの手を強く握りしめたのだ。まっすぐに目を見つめて。何かを察したように、けれど聞きたくないというように。言葉ではなく、その手の強さだけで「まだ言わないでくれ」と、そう告げていた。指先が痛いほど、けれど不思議と優しく食いこんでくる。
しばしの沈黙のあと、口をひらいたのはグレンの方だった。
「ピア。俺は、お前に惹かれている」
飾らない、まっすぐな声だった。目を逸らさず、震えもせず、ただその一言を確かめるように置いていく。
「種が違うことも、分かっている。損得などではない。俺は、愚か者だからな。それでも、伝えずにはいられなかった」
*
その言葉を聞いた瞬間、ピアの中で何かが痛いほど強く疼いた。
——受け入れてしまいたい。
その衝動は、嘘偽りのない正直な気持ちだった。この手を取って頷いてしまえば、どれほど楽だろう。誰にも遠慮せず、ただこの温もりだけを見ていられたら。だが、ピアは頑固に、その衝動を奥歯で噛み殺した。
「……馬鹿を言うな」
声がわずかに震えた。それを隠すように、ピアは続ける。
「お前には、人としての生がある。誰かを娶り、子を生し、老いて、家族に看取られて逝く。それが、お前に相応しい生だ。私といては、それを得られない」
「そんなことは」
「私は、変わらない。お前だけが、老いていく。……その先を、私は、お前の隣で笑って見ていられる自信が、ない」
グレンが、何か言い返そうと、口をひらきかける。だが、ピアは、それより先に続けた。止まれば、決意が揺らぐと分かっていた。
正直な言葉だった。人間としての当たり前の幸福を、グレンに生きてほしい。子を抱き、孫を見送るまで、平凡な喜びの中で老いていく——それだけは譲れなかった。
「だから、行け。人を愛し、添い遂げろ。私は……」
言葉がそこで一度だけ詰まる。喉の奥に何かがせり上がってくるのを、無理やり呑みこんだ。
「私は、この姿のまま、お前のことを、ずっと想い続けることになるだろう。それでいい。それだけで、いい」
*
グレンは、何かを言いかけて、けれど結局、何も言わなかった。
ピアの決意の固さを、その目の中に見て取ったのだろう。しばしの沈黙のあと、静かに頷いた。
「……最後に、もう一度だけ」
そう言って、グレンが、また手を差し出す。ピアは、それを取った。
波打ち際で二人、もう一度だけ踊った。もう先ほどまでの軽やかさはない。それでも、互いの体温を確かめるように、ゆっくりと足を運ぶ。何か言おうとするたび、波の音がその言葉を攫っていく。言いかけて、消えて、また言いかけて。そうして、たくさんの言葉を二人は波にさらわれるままにした。東の空がわずかに白みはじめる。夜が明ける前に、二人は別れた。手を離す、その一瞬だけ指先が名残惜しげに触れ合った。
*
それから、数年、数十年が過ぎた。
ピアは、郷を離れなかった。だが、グレンと直に会うことは二度となかった。風の噂に、グレンが妻を娶ったこと、子を授かったことを聞いた。子はひとりでなく、いつしか二人、三人と増えていったらしい。祭りの遠く、人混みに紛れて、老いていく彼の背中を一度だけ見かけたこともある。傍らには、伴侶と幼い子どもの手があった。声はかけなかった。ただ遠目にそれだけを確かめて踵を返した。
夜な夜な、砂糖漬けの果実を舐めながら、郷の外れを見回る。ときおり、この土地へ流れつく同族——人を喰らい、脅かす吸血鬼——を見つけては、容赦なく仕留めた。牙を突き立て、その血を啜る。同族の血は、甘くも何ともない、ただ苦いだけの味だったが、それでも、飲み干した。喰らったぶんだけ、また同じ数の危険が、この郷から遠のく。それが、ピアなりの、グレンの生きる世界を護るやり方だった。誰にも語らず、誰にも知られず、ただ、そうして生きた。
*
グレンが病に臥せった、という報せが届いたのは、それからさらに、長い年月が経った頃だった。
ピアは、自らに課してきた距離をその夜だけ破った。誰にも見咎められぬよう、夜のうちにこっそりと見舞いに訪れる。窓の隙間から、灯りの落ちた部屋へ滑りこむと、薬湯の匂いが鼻をつく。
寝台に横たわるグレンは、すっかり老い、やせ細っていた。頬はこけ、白髪まじりの髪はかつての精悍さの見る影もない。それでも、ピアに気づくと、しわの寄った目を静かに見ひらいた。
その目が、まじまじと、ピアの顔を見つめる。あの夜と、寸分違わぬ姿。白い肌も、変わらぬ髪の色も、時に置き去りにされたまま、そこにあった。
「……本物、なのか」
かすれた声だった。長い年月のうちに、あの湖畔の夜さえ、自分が見た夢だったのではないかと、思うようになっていたのかもしれない。
「本物だ」
ピアは、静かに答えた。それから、しわだらけの手を、そっと両手で包む。
「お前は、老いたな。達者に、やってるか」
グレンの余命が、もういくばくもないと、分かった上での言葉だった。それでも、努めて、いつもと変わらぬ軽さで、そう問いかける。
グレンは、しばし、ピアの顔を見つめていた。それから、安堵したように小さく笑った。皺だらけのその笑顔は、それでも、あの夜、湖畔で見た笑顔とどこか同じ形をしていた。
「……ああ。存外、悪くない人生だった」
グレンは、そう言って、目を細めた。それから、ふと、不安げに、寝台の周りへ視線を彷徨わせる。妻のこと、子らのこと、まだこの先も続いていく、家族の暮らしのことを、案じているのだと、ピアには分かった。
「私は、お前を愛している」
ピアは、その手を、少し強く握り直した。
「あの頃から、何も変わらず、ずっとだ。お前が愛したもの——この街も、お前の妻も、子も、そのまた子も。私の命ある限り、見守っていく。だから、案ずるな。安心して、逝け」
一息に、そう告げてから、ふっと、いつもの調子で付け足す。
「……まあ、他に、やりたいこともないしな」
グレンの目に、涙が滲んだ。何かを言おうとして、けれど、うまく声にならないようだった。ただ、握り返す手に、精一杯の力がこもる。
その夜、二人は多くを語らなかった。ただ、手を握りあったまま、静かな時間だけを分かち合った。窓の外で、虫の音が途切れることなく続いていた。
*
数日後、グレンは、息を引き取った。
教会の鐘が街に響き渡る。葬列が組まれ、多くの人々がその死を悼んだ。棺を囲む家族の姿が、遠目にも見て取れる。伴侶の肩を抱く、成長した子どもたちの姿もあった。
ピアは、その列には加わらなかった。森の外れから、遠く行列を見送るだけだった。
黒い列が、ゆっくりと街道を進んでいく。鐘の音が風に乗って、梢の隙間まで届いた。やがて、それが街の向こうへ消えてしまうまで、ピアはその場に立ち尽くしたまま動かなかった。




