P2_甘いもの
グレンは、本当にまた来た。
最初は、街の被害についての調査を進める体で、館に立ち寄った。庭を検分し、周辺の足取りを聞き取り、寝室の戸口からひとことふたこと言葉を交わすだけ。荒れた庭の薔薇を一輪、手折って眺めていくこともあった。証拠は何ひとつ出なかった。当然だ。ピアは何もしていないのだから。それでも、なぜか間を置いて何度も顔を出すようになる。壊れた雨戸を直したり、荒れた庭の下草を刈ったり——調査とは名ばかりの用事をあれこれと見つけては、居座る時間を延ばしていく。ひと月も経つころには、もう調査という体裁すら、二人とも忘れていた。
「今日も、収穫はなしか」
「収穫という言い方は、いかがなものかと思うが」
グレンは律儀にそう返しながら、崩れかけた椅子に勝手に腰を下ろした。ピアは鬱陶しそうに顔をしかめて見せたが、追い返しはしなかった。「暇なのか、お前は」。皮肉を言いながら、いつしか来訪を当然のものとして待つようになっている自分に、まだ気づいていなかった。
「そういえば、名を、まだ聞いていなかった」
ある日、グレンがふと思い出したように言った。
「言う義理があるか」
「これから、何度も来ることになりそうだからな。お前、では、呼びにくい」
ピアは、しばし渋い顔をしていたが、やがて投げやりに答えた。
「……ピアだ」
「ピア」
グレンが、確かめるようにその名を口にする。ただそれだけのことに、なぜかピアは落ち着かない気持ちになった。長く、誰にも呼ばれることのなかった名だった。
*
ある日、グレンが布に包んだ小さな包みを差し出した。
「なんだ、それは」
「蜂蜜漬けの果実だ。……血を吸わないなら、これくらいは、口に合うだろう」
ぶっきらぼうな言い方だった。目を合わせもせず、包みを机に置いて、さっさと椅子に座ってしまう。ピアは、しばしそれを見つめていた。誰かに何かを差し出されるなど、いつ以来だろうか。
「……物好きな」
そう言いながら、包みを開ける。艶やかな果実をひとつ、口に運んだ。甘露な蜜が、舌の上でとろけていく。
「血の味には、飽いてな」
軽く言い捨てて、ピアは二つ目に手を伸ばした。本当は飽いたわけではない。街には近づかず、郷の外れの森で、獣を狩って食い繋いでいるだけの話だ。牙を突き立てるたび、味気ない渇きを凌げるだけの、そっけない味しかしない。だが、わざわざそこまで語る義理はない。ひさかたぶりに、心から「良い」と思える味だった。それを悟られたくはなかった。
次にグレンが訪れたとき、ピアは、埃をかぶっていた茶器を久しぶりに引っ張り出していた。「せっかく持ってきたなら、茶くらい淹れんとな」。そう言い訳がましく呟きながら、湯を沸かす。不慣れな手つきで茶葉を計り、香りを確かめ、二つの杯に注ぎ分けた。以来、グレンの訪れは、甘い菓子と茶を挟んだささやかな時間になっていった。荒れた広間の片隅に、いつしか二人分の椅子が寄せて置かれるようになる。
*
訪れるたびに、会話が増えていく。
「なぜ、血を吸わない」
ある日、グレンがそう尋ねた。ピアは、しばし黙り、それから断片的に語りはじめる。
「昔、見た。同族が、人から奪う様を。奪われた者の目を。……あれと同じことは、したくない。それだけだ」
多くは語らなかった。だが、以前より少しだけ心を開いていた。グレンもまた、討伐者としての矜持の裏にある、地味で不器用な暮らしをぽつぽつと語るようになる。師の教え。里の外れの一人暮らし。返り血を浴びるたび、湯屋で必死に洗い落とす、格好悪い日常のこと。誰かに深く語ったことのない類の話を、なぜかこの吸血鬼の女には素直に打ち明けられた。
「討伐者というのは、もっと、誇り高い生業かと思っていた」
ピアが茶化すと、グレンは少し照れくさそうに肩をすくめた。
「誇りだけでは、飯は食えない」
その返しに、ピアは思わず声をあげて笑った。憎まれ口の応酬は変わらなかった。「割に合わぬ生業だな」「お前に言われたくはない」。だが、その響きから刺々しさが薄れていった。ふたりのあいだに、いつしか気安さが混じりはじめていた。
*
ある夜、グレンが腕に、うっすらと血の滲む布を巻いているのに気づいた。
「どうした、その傷」
「街道で、狼の群れに襲われた行商を、助けただけだ。たいした傷ではない」
事もなげに言うが、包帯の下は決して浅い傷ではないだろうと、ピアには見て取れた。見返りも求めず、危険を顧みず、誰かのために体を張る。それが、グレンにとっては当たり前のことらしかった。
「馬鹿につける薬はないというが」
呆れたように呟きながら、ピアは傷薬になりそうな薬草を棚の奥から引っ張り出した。ぶっきらぼうに、それをグレンの傷口に押しつける。手当てをする指先が、思いのほか震えていることに、ピア自身少し驚いていた。「次からは、もう少し自分を大事にせよ」。柄にもなく、そんな言葉が口をついて出た。
グレンは、驚いたようにピアの顔を見つめた。それから、ふっと目を細めて笑う。
「案じてくれるのか」
「案じてなどいない。ただ、次に来るとき、面倒な話が増えるのが、鬱陶しいだけだ」
そう言い返しながら、ピアはそれ以上、目を合わせられなかった。
*
ある日、いつもの刻限を過ぎても、グレンは現れなかった。
ピアは、寝台の上でそわそわと落ち着かない自分に気づいた。窓の外を何度も確かめる。日が傾いていく。用意していた茶葉は、とうに湯気を失い、冷めきっていた。——なぜ、こんなにもあの男の訪れを気にかけている。
「……くだらん」
自分に言い聞かせるように呟いて、寝返りを打つ。だが、耳は玄関の物音を待ち続けていた。認めたくない感情に苛立ちながら、頑固に見て見ぬふりをする。
やがて、遅れてグレンが顔を出した。息を切らし、髪もいくらか乱れている。「悪い、村の用事が長引いた」。それだけのことに、胸の奥がふっと軽くなる。安堵が先に立ち、それを悟られまいと、ピアはいつも以上につっけんどんに振る舞ってしまった。
「……遅い。待ちくたびれたわ」
「待っていたのか」
「別に。ただ、暇を持て余していただけだ」
グレンは、それ以上は追及せず、いつものように椅子に腰を下ろした。ピアは、その横顔をちらりと盗み見て、そっと目を伏せた。
*
そんな日々が、幾度も重なったころ。季節が、ひとつ、ふたつと巡っていた。
夜、グレンが、めずらしく用件もなく訪れた。手には、いつもの土産もない。ただ、少し落ち着かない様子で、戸口に立っていた。
「今夜は、月が良い。郷の外れに、湖がある。行かないか」
唐突な誘いだった。ピアは、寝台に横たわったまま、片眉をあげる。
「暇なのか、お前は。そういう誘いは、間に合っている」
「暇だからではない。ピアと、共に行きたいのだ」
飾らない、まっすぐな言い方だった。名を呼ばれたことに、心臓がひとつ、大きく跳ねる。ピアは、それを悟られまいと鼻を鳴らして、そっぽを向いた。
「……仕方のない男だな」
そう言いながら、寝台を降りる。渋々といった素振りで、髪を整え、外套を羽織る。文句を垂れながらも、その手つきは、いつもよりいくらか丁寧だった。
「そんなに、嫌なら」
「行くと言っている。二度は言わせるな」
ピアは、さっさと扉へ向かった。渋々のふりをしていたはずなのに、支度は誰よりも早く終わっていた。グレンがそれに気づいて小さく笑う。ピアは、その笑みに気づかぬふりをして、月明かりの差す玄関を先に立って抜けていった。




