P1_吸血鬼の館
街はずれの館に、化け物が棲みついている。
その噂を、グレンは酒場で耳にした。ここ数ヶ月、街から人が消える。青白い顔で、路地に倒れているのが見つかることもある。息はあっても、二度と目を覚まさない者もいた。血を吸う怪物の仕業だと、誰もが囁いていた。
「討伐の腕がいいと聞いてな。頼めるか」
酒場の主人は、そう言って身を乗り出してきた。声を落としながらも、その目には切実な怯えがあった。「うちの娘の友達も、ひとり、帰らないままだ」。周りの客たちも口々に頷く。誰の顔にも、隠しきれない不安が滲んでいた。
グレンは、しばらく黙って盃を傾けていたが、やがて静かに頷いた。これ以上、街の者が傷つくのを見過ごすわけにはいかない。それが討伐者としての矜持だった。
翌日、街を歩いて回ると、噂はさらに具体的になった。消えた者の多くは、街はずれの、あの朽ちかけた館の方角へ向かうのを、最後に見られているという。かつては裕福な一族の屋敷だったが、当主が代替わりしたころから、誰も寄りつかなくなった。いつからか、化け物が棲みついている、と囁かれるようになったらしい。詳しい経緯を知る者は、もう、街には残っていなかった。
*
館は、街のはずれに、ひっそりと建っていた。
蔦の絡む石壁。荒れ果てた庭には、かつて手入れされていたであろう薔薇が、いまは伸び放題のまま咲いている。真昼の日差しに、白い花弁がくっきりと浮かびあがっていた。日の高いうちに叩くのが、討伐者としての定石だった。夜は、相手の力が増す。かつては、それなりの家格の屋敷だったのだろう。その面影と、いまの荒廃との落差が、かえって不気味さを増していた。
グレンは、崩れかけた門をくぐり、物音を殺して玄関へ近づく。鍵はかかっていなかった。剣の柄に手をかけたまま、そっと扉を押し開ける。
埃をかぶった広間。破れた帳。朽ちかけた調度品が、そこかしこに転がっている。天井からは、蜘蛛の巣が幾重にも垂れさがっていた。人の気配はない。それでも、何かがたしかにここに棲んでいる気配だけは肌で感じ取れた。空気そのものが、外とは違う質感をまとっている。冷たく、重く、時が止まったような静けさだった。
階段を上がる。踏板のひとつが、ぎしりと大きく軋み、グレンは、思わず身をこわばらせた。二階の廊下も、一階と同じく荒れ果てている。壁に並んだ肖像画は、どれも黒ずみ、描かれた顔さえ、もう定かに見て取れない。一番奥の扉だけが、わずかに開いていた。日の光が、その隙間から漏れている。
奥の寝室に、その姿はあった。
天蓋つきの寝台。薄物の帳の隙間から、覗きこむと——ほとんど裸に近い格好で横たわる、女の姿が見えた。血の気の失せた、白すぎる肌。乱れた金の髪が、枕に扇のように広がっている。呼吸をしているのかどうかさえ定かでないほど、身じろぎひとつない。
血を吸う怪物を、と身構えていたはずだった。爪も牙も剥き出しにした、獣じみた化け物を思い描いていた。なのに、目の前にあるのは、あまりに無防備な寝姿だった。グレンは、思わず視線の置き所に困りながら、それでも気を引き締め直し、剣を構えて近づく。息を殺し、寝台の脇まで一歩、また一歩。床板が軋む、その音さえ、この静けさの中では耳障りに大きく響いた。
*
「……何者だ」
先に、口をひらいたのは、女のほうだった。
寝ぼけた様子は微塵もなかった。横たわったまま、億劫そうに片目だけを開け、剣を構える男をゆっくりと見据える。動じた素振りは、どこにもない。
「私は、討伐者だ。ここに、人を襲う吸血鬼が棲みついていると聞いた」
「ふうん」
女は、気だるげに身を起こした。薄物の帳が、さらりと肩から滑り落ちる。それにも構わず、女は、ただ興味深くグレンを眺めた。
「それが、私だと?」
「証拠があるわけではない。だが、この館にいるのは、お前だけだろう」
「証拠もなしに、剣を向けるのか」
女の声には、怒りよりも呆れが滲んでいた。
「……私が、吸血鬼であることは、否定しない」
女は、悪びれもせず、そう言い切った。
「だが、人の血は、この百年、一滴も吸っていない」
「信じろというのか」
「信じるかどうかは、お前次第だ」
女は、肩をすくめる。それから、値踏みするような目で、グレンの全身を眺め回した。
「私と、人と、何が違う。奪ってまで、生きたくはないのだ。それだけのこと」
「奪わずとも、生きられるのか」
「見てのとおり、死にはしない。……このザマでは、あるけれどな」
自嘲するように、女は、痩せた自分の腕をちらりと一瞥した。血の気の失せた、白すぎる肌。骨の浮いた肩。とても、人を喰らって満たされている者の体つきには見えない。
言われて、グレンの目が、束の間、揺れた。握った剣から、いくらか力が抜けていくのが、はた目にもわかる。突きつけられていた切っ先が、ほんのわずかに下がった。
*
「街で、何が起きているか、お前は知らないのか」
グレンが問うと、女は、わずかに目を細めた。だが、答えはしなかった。知らないのか、語らないだけなのか、その表情からは判じきれない。窓の外をちらりと一瞥する仕草だけが、何かを思わせた。
しばらくの沈黙のあと、女は、話をはぐらかすように寝台の縁に腰かけ、逆にグレンへ問いを投げた。膝の上で、白い指をゆるく組み合わせて。
「お前、名は」
「グレンだ」
「グレン。討伐者という生業は、割に合うのか。危険なわりに」
「割に合うかどうかは、考えたことがない」
「ふうん」
女は、興が乗って質問を重ねていく。故郷はどこか、家族はいるのか、なぜこの生業を選んだのか。グレンは、律儀にひとつひとつ答えていった。育った村のこと。幼くして流行り病で親を亡くし、討伐の技を仕込んでくれた師に拾われたこと。師はもう歳で、いまは村の外れで静かに暮らしている、と。口数の多い質には見えないのに、この問いにだけは存外、素直に答えていく。それが、なぜだか少しおかしかった。
そして、女は、核心を突く一言を放った。
「ひとりで、ここへ踏み込んで。私に殺されるとは、思わなかったのか」
「思った」
グレンは、間を置かずに、そう答えた。
「思ったが、それでも来た。街の者が、これ以上傷つくのを、見過ごせなかった」
損得の勘定も、恐れも二の次に置いた、まっすぐな答えだった。女は、しばし言葉を失って、グレンを見つめていた。剣を握る手は、いまや、ほとんど力を失っている。それでも、その場を立ち去ろうとはしない。
それから、ふっと小さく笑う。
「……愚か者だな」
その声には、蔑みではなく、どこか、意外なほどの温かさが滲んでいた。長く忘れていた種類の感情に、戸惑ってもいた。目の前の男が、これほどまっすぐに、命を差し出せる理由が、うまく飲み込めない。損得もなく、誰かのために動く。そんな人種に出会うのは、はじめてだった。静かな驚きが、胸の奥に広がっていく。
*
「今日のところは、引く」
グレンは、剣を鞘に収めきれないまま、それでも、斬りかかることはできなかった。構えを解いたまま、しばらく立ち尽くしている。
「だが、必ずまた来る。街の被害が、お前の仕業でないという証が立つまでは」
「調べればいい。私は、何も隠していない」
女は、気怠く笑って、寝台に横たわりなおした。
「逃げも、隠れもしない。この街に、これから先も、ずっといるのだから」
グレンは、しばらく女を見つめてから踵を返し、館を出た。崩れた門を抜け、街への道を戻っていく、その足音がしだいに遠ざかっていく。玄関の軋む音、砂利を踏む足取り、それすらも、やがて昼下がりの静寂に溶けて消えた。
寝室に残された女は、ひとり、天井を見上げていた。
久方ぶりに乱された、この静けさの余韻を、女はそっと確かめるように、胸の内で反芻していた。この百三十と八年、剣を向けられたことなど数えきれぬほどあった。だが、殺気の代わりに、あんな眼差しを向けられたのは、はじめてかもしれない。愚か者、と嘲ったはずのその響きが、なぜか、いつまでも耳の奥に残っていた。
窓の外、白い薔薇の上を、昼下がりの風が静かに渡っていった。




